未来を語る午後、二人がまだ知らない答え
王都に、穏やかな春の風が吹いていた。
王立セイレーン学院の中庭では、花壇の手入れをする生徒たちの姿が見られた。色とりどりの花が石畳の小道を彩り、噴水の水音が午後の静けさに溶け込んでいる。
リヴィア・アーデントは、回廊の窓辺に立ち、手元の手紙を見つめていた。
差出人は、ルシアン・ヴァルクレスト。
内容は短いものだった。
次の休日、少し話したいことがある。時間をもらえないだろうか。
いつもなら、彼からの誘いをうれしく思いながら、どこへ出かけるのかと考えるところだった。
けれど、今回は違った。
手紙には、行き先も、何をするのかも書かれていない。
ただ、話したいことがある、とだけ記されていた。
「……何のお話かしら」
リヴィアは小さくつぶやいた。
ルシアンが自分を急かすような人ではないことは、よくわかっている。
結婚についても、彼は何度も、自分が納得できる答えを見つけるまで待つと言ってくれた。
だからこそ、今回の手紙が気になった。
彼が、自分に伝えたいこと。
そして、自分もまた、彼に伝えなければならないことがあるのではないか。
リヴィアは手紙を胸元に寄せ、静かに息を吐いた。
未来を選ぶことは、ただ一つの答えを見つけることではない。
これまでの時間を振り返り、自分が何を大切にしたいのかを知ることでもある。
その答えを、そろそろ自分の言葉で伝えたいと思っていた。
◇
約束の日。
リヴィアは、王都の中心部から少し離れた場所にある、小さな庭園を訪れていた。
そこは、以前ルシアンが案内してくれた古い水路の近くにある庭園だった。
大きな宮殿の庭とは違い、華やかさはない。石造りの小道の両側には季節の花が咲き、木製のベンチがいくつか置かれている。
風が吹くたび、花びらが静かに揺れた。
「待たせたかな、リヴィア」
振り返ると、ルシアンが歩いてくるところだった。
濃紺の上着に銀色の刺繍。胸元にはヴァルクレスト王家の紋章が輝いている。
いつもと変わらない姿なのに、今日の彼は少しだけ緊張しているように見えた。
「いいえ。私も、今来たところよ」
「それならよかった」
ルシアンは微笑み、彼女の隣に並んだ。
「ここを覚えている?」
「もちろん。以前、あなたと古い水路を見に行ったときに、この近くを通ったわね」
「ああ。あのとき、君は水路の修復について、ずいぶん熱心に考えていた」
「だって、古いものを残すことと、新しく変えることは、必ずしも反対ではないでしょう?」
リヴィアは庭園を見渡した。
「大切なものを守るために、変えなければならないこともある。あのとき、そんなお話をした気がするわ」
「よく覚えているね」
「あなたとの時間ですもの」
口にしてから、リヴィアは頬を染めた。
以前なら、こんな言葉を自然に伝えることはできなかっただろう。
ルシアンは一瞬驚いたあと、うれしそうに目を細めた。
「……そう言ってもらえるのは、うれしいな」
二人は庭園の奥へ歩いていった。
やがて、花壇を見渡せるベンチに腰を下ろす。
しばらくは、庭園のことや学院での出来事について話していた。
けれど、リヴィアは気づいていた。
ルシアンが、ときどき言葉を選ぶように沈黙していることに。
「ルシアン」
「うん?」
「今日は、何か私に話したいことがあるのでしょう?」
彼は、少しだけ目を見開いた。
「……気づいていたんだね」
「ええ。あなたが私を急かさない人だということは知っているわ。でも、何も考えずに今日の約束をしたわけではないのでしょう?」
ルシアンは、困ったように笑った。
「君には隠し事ができないな」
「隠そうとしていたの?」
「いや。どう話せばいいのか、少し考えていたんだ」
彼は姿勢を正し、リヴィアを見つめた。
「リヴィア。僕は、君と過ごす時間を大切に思っている」
リヴィアは、静かにうなずいた。
「それは、今までも伝えてきたつもりだ。でも、これから先のことを考えると、君に聞いておきたいことがある」
「聞いておきたいこと……?」
「ああ」
ルシアンは、一度だけ視線を落とした。
「君は、これからどんな人生を送りたいと思っている?」
予想していなかった問いだった。
リヴィアは、すぐには答えられなかった。
「結婚するかどうか、ということだけではないんだ」
ルシアンは、彼女の戸惑いを察したように続けた。
「君が何を学びたいのか。どんな仕事をしたいのか。どこで暮らしたいのか。王族の一員になることによって、君が諦めなければならないものがあるのなら、それについても話しておきたい」
彼の声は、穏やかだった。
「僕は君と一緒にいたい。君と未来を築きたいと思っている。それは、今も変わらない」
リヴィアの胸が、静かに高鳴った。
「でも、君が僕と結婚することで、自分の人生を失ったと感じるようなことにはしたくないんだ」
ルシアンは、まっすぐに彼女を見つめた。
「君が望む未来と、僕が望む未来。その二つを、どうすれば一緒に築けるのか。今のうちから考えておきたい」
リヴィアは、膝の上で指を重ねた。
彼は、ただ結婚の返事を求めているのではなかった。
自分がどんな人生を望んでいるのか。
何を大切にし、何を手放したくないのか。
そのすべてを知ろうとしてくれている。
彼と結婚することだけが、自分の未来ではない。
彼と結婚したあと、どんな人生を送りたいのか。
そこまで考えてくれているのだ。
「……少し、考えてもいいかしら」
「もちろん」
ルシアンは、すぐにうなずいた。
「今日、答えを出してほしいわけではないよ。君が考えていることを聞きたかっただけだから」
リヴィアは、彼の横顔を見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「私は……誰かの期待に応えるためだけに生きるのは、もう嫌なの」
ルシアンは黙って聞いていた。
「以前の私は、周囲からどう見られるのか、何を求められているのかばかり考えていたわ。悪役令嬢と呼ばれることも、物語の中で決められた未来も、受け入れるしかないのだと思っていた」
リヴィアは、手元を見つめた。
「でも、今は違う。自分が何をしたいのかを考えて、自分で選びたい。間違えたら、もう一度考え直したいの」
「うん」
「それから……」
リヴィアは、ゆっくりと顔を上げた。
「あなたと一緒にいることも、私が自分で選びたいの」
ルシアンの瞳が揺れた。
「あなたが王子だからでも、私を助けてくれたからでもないわ。あなたが私の意見を聞いてくれるから。私が迷っているときも、無理に答えを出させようとしないから。そして、あなたと話していると、もっとあなたのことを知りたいと思うから」
言葉にするほど、胸の奥にあった思いが形になっていく。
「……私は、あなたと一緒にいる未来を望んでいるわ」
最後の一言を口にしたとき、リヴィアは自分の心が驚くほど静かになっていることに気づいた。
不安がすべて消えたわけではない。
それでも、今の自分が望んでいることは、はっきりとわかっていた。
ルシアンは、しばらく何も言わなかった。
やがて、彼は小さく息を吐き、笑みを浮かべた。
「……ありがとう、リヴィア」
「どうして、お礼を言うの?」
「君が、自分の気持ちを話してくれたからだよ」
彼は、そっと手を差し出した。
リヴィアは、その手を見つめてから、自分の手を重ねた。
「僕も、君と一緒に未来を築きたい。君が望むものを聞きながら、二人で考えていきたいんだ」
「ええ」
「これから先、意見が違うこともあるだろう。すぐに答えが出ないこともあると思う」
「そうね」
「それでも、君となら、一緒に考え続けられると思う」
リヴィアは微笑んだ。
「私も、そう思うわ」
二人の手が、静かに重なっていた。
結婚の返事は、まだ出していない。
けれど、二人が望む未来について、初めて真正面から話すことができた。
それは、これまでの時間とは違う、新しい一歩だった。
◇
庭園を出るころには、夕日が石畳を淡い橙色に染めていた。
リヴィアとルシアンは、並んでゆっくりと歩いていた。
「今日は、ありがとう」
リヴィアが言うと、ルシアンは首を傾げた。
「何に対して?」
「私の話を、きちんと聞いてくれたことよ」
「僕が聞きたかったんだ。君が何を考えているのか、知りたかったから」
「……そうだったわね」
リヴィアは微笑んだ。
少し歩いたところで、彼女はふと足を止めた。
「ルシアン」
「うん?」
「次の休日も、あなたと出かけたいわ」
彼は、うれしそうに笑った。
「もちろん。今度は君が行きたい場所を選んでくれる?」
「ええ。考えておくわ」
「楽しみにしているよ」
リヴィアは、彼の隣に並び直した。
以前なら、未来について話すことは、答えを迫られることのように感じていた。
けれど今日、彼と話してみてわかった。
未来を語ることは、今すぐすべてを決めることではない。
互いの望みを知り、違いがあれば話し合い、二人で進む方法を探すことなのだ。
その先に、どんな困難が待っているのかはわからない。
けれど、自分の気持ちを偽らず、彼と向き合っていけるなら。
きっと、自分たちなりの答えを見つけられる。
リヴィアは、隣を歩くルシアンを見上げた。
彼もまた、彼女に気づいて微笑む。
その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなった。
まだ、伝えていないことがある。
まだ、決めていないこともある。
それでも、今日の会話を通して、一つだけ確信できた。
自分はもう、物語に決められた未来を恐れて立ち止まっているだけの人間ではない。
自分で選び、自分で歩いていける。
そして、その未来の隣にいてほしい人は、今も変わらず、目の前にいるのだった。




