帰り道に見つけた、あなたの知らない一面
植物園へ出かけた休日から、二日が過ぎた。
エヴリンは朝の授業を終えると、机の上に広げた教材を一つずつ片づけていた。
次の授業では、子供たちが希望した内容を少しずつ取り入れることになっている。看板の文字を読む練習や、買い物を想定した計算問題など、準備すべきものはまだ多い。
けれど、以前のように焦ってはいなかった。
できることから始めればいい。
わからないことがあれば、誰かに相談すればいい。
そう考えられるようになった自分を、エヴリンは少しだけ誇らしく思っていた。
「……次は、数字のカードをもう少し増やそうかな」
帳面に書き込んでいると、机の端に置いていた小さな包みが目に入った。
植物園で買った押し花の栞だった。
淡い青色の小さな花が、透明な紙の間に丁寧に挟まれている。
あの日、アルベルトが気に入った花とよく似た色をしていたので、思わず購入してしまったものだ。
エヴリンは栞を手に取り、そっと表面をなぞった。
植物園で見た花々。
隣を歩くアルベルトの横顔。
自分の好きなものを話したとき、興味深そうに耳を傾けてくれた彼の姿。
思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。
「……また一緒に行けたらいいな」
小さくつぶやいた直後、エヴリンは慌てて周囲を見回した。
幸い、近くに人はいなかった。
誰かに聞かれたわけでもないのに、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
栞をそっと帳面に挟み、エヴリンは深呼吸した。
今は、次の授業の準備に集中しよう。
そう決めたところで、図書室の入り口から聞き慣れた声が届いた。
「何か、いいものでも見つけたのか?」
「アルベルト様!?」
顔を上げると、アルベルトが書類を抱えて立っていた。
今日の彼は、銀糸の刺繍が入った上着ではなく、落ち着いた紺色の服を身につけている。王族としての威厳はそのままだが、普段よりも柔らかな印象だった。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「い、いえ! 少し考え事をしていただけです」
「そうか。邪魔をしてしまったかな?」
「そんなことありません!」
思った以上に大きな声が出てしまった。
アルベルトは一瞬目を丸くしたあと、穏やかに笑った。
「それならよかった。実は、君に確認してほしい資料があってね」
「教室のことでしょうか?」
「ああ。次の授業に向けた教材の案だ。担当の教師から、君の意見も聞きたいと言われたんだ」
エヴリンはすぐに姿勢を正した。
「わかりました。ぜひ見せてください」
彼が机に置いた資料には、子供たちが希望した学習内容に加え、今後の授業の進め方がまとめられていた。
エヴリンは一枚ずつ目を通し、気づいたことを伝えていく。
「この課題は、少し難しいかもしれません。数字を覚えたばかりの子には、こちらから始めたほうがよさそうです」
「なるほど。段階を分けるわけだね」
「はい。それから、文字の練習では、書くことだけでなく、読めたときにも達成感を得られるようにしたいです」
「君らしい考え方だ」
「私らしい、ですか?」
「子供たちが何をできるようになったのか、きちんと実感できるようにしたいんだろう?」
エヴリンは、少し照れくさそうにうなずいた。
「はい。できなかったことができるようになると、自分でもうれしくなりますから」
「それは、大人も同じだと思うよ」
アルベルトはそう言って、資料の一部に印をつけた。
その仕草を見ながら、エヴリンはふと気づいた。
彼は自分の意見を聞くとき、最初から正解を決めているわけではない。
自分が考えたことに賛成してくれることもあれば、別の視点を示してくれることもある。
けれど、どちらの場合も、彼女が考えた過程を大切にしてくれる。
だからこそ、もっと自分の考えを伝えたいと思えるのだ。
「アルベルト様」
「うん?」
「私、こうして相談していただけるのが、とてもうれしいんです」
彼はペンを置いた。
「どうして?」
「自分の考えが、誰かの役に立つかもしれないと思えるからです。それに……」
エヴリンは少し迷った。
言葉にするのは恥ずかしい。
けれど、今日は少しだけ勇気を出してみたかった。
「アルベルト様が、私の意見を大切にしてくださることが、うれしいんです」
彼はしばらく黙っていた。
それから、いつもより柔らかな表情で答えた。
「君の意見だからこそ、聞きたいと思っているんだよ」
胸が、どくんと跳ねた。
「……っ」
「君は、現場で何が起きているのかを、自分の目で確かめている。子供たちの言葉を聞いて、うまくいかなかったことも隠さずに考え直している。そういう君だから、教えてほしいことがあるんだ」
エヴリンは、すぐには返事ができなかった。
褒められたからうれしい。
それだけではない。
彼が自分を、一人の人間として信頼してくれている。
その事実が、何よりも胸に響いた。
「……ありがとうございます」
「また礼を言われてしまったね」
「だって……」
エヴリンは顔を伏せた。
「アルベルト様にそう言っていただけると、もっと頑張りたいと思えるんです」
言ってから、恥ずかしさが込み上げてきた。
まるで、彼に褒めてもらうために頑張っているようではないか。
もちろん、そんなつもりだけではない。
子供たちのために、もっとよい教室にしたい。
その思いは本物だ。
それでも、アルベルトが喜んでくれると、自分までうれしくなる。
彼の言葉が、自分の背中を押してくれる。
それを否定することは、もうできなかった。
◇
資料の確認を終えたころ、窓の外から柔らかな風が吹き込んできた。
机の上の紙が一枚、ふわりと浮き上がる。
「あっ」
エヴリンが手を伸ばすより早く、アルベルトがその紙を押さえた。
「危ないところだったね」
「ありがとうございます。せっかくまとめたのに、飛んでいってしまうところでした」
彼は紙を元の場所に戻したあと、窓の外へ目を向けた。
「今日は天気もいい。少し外を歩かないか?」
「今からですか?」
「ああ。資料の確認も終わったし、ずっと机に向かっていただろう?」
エヴリンは一瞬迷った。
まだ整理しておきたいものは残っている。
けれど、今日中にすべて終わらせなければならないわけではない。
それに、彼と一緒に歩けるのなら。
「……はい。ご一緒したいです」
答えたあと、自分から素直に言えたことがうれしくなった。
二人は図書室を出て、学院の中庭へ向かった。
石畳の小道の脇には、季節の花が植えられている。噴水の水音が静かに響き、木々の葉が風に揺れていた。
「植物園もよかったですが、学院の庭も落ち着きますね」
「そうだね。ここは、私にとっても考え事をするときによく来る場所なんだ」
「アルベルト様も、考え事をなさるんですか?」
「もちろん。むしろ、考え事がない日のほうが珍しいかもしれない」
彼は苦笑した。
「王宮では、何かを決めるたびに、その結果が誰にどんな影響を与えるのかを考えなければならない。どれだけ慎重に検討しても、全員が満足する答えが見つかるとは限らないからね」
エヴリンは、彼の横顔を見つめた。
いつも落ち着いていて、迷いがないように見える人。
けれど、彼もまた、答えの出ない問題を抱えながら歩いているのだ。
「……大変ですね」
「そうだね。だが、必要なことだと思っている」
アルベルトは足を止め、噴水の水面を見つめた。
「だからこそ、時々、自分が何を望んでいるのかを考える時間も必要なんだろう」
「アルベルト様が、望んでいること……」
「君は、何かを望むとき、すぐに口にできる?」
不意に尋ねられ、エヴリンは考え込んだ。
「以前は、あまりできませんでした。自分が望むことよりも、周りの人が期待していることを考えてしまって」
「今は?」
「……少しずつ、変わってきたと思います」
彼女は中庭の花壇に目を向けた。
「子供たちのために何をしたいのか、考えるようになりました。それから、自分が好きなものや、行ってみたい場所も、以前より素直に話せるようになった気がします」
「植物園に誘ってくれたことも?」
「そ、それもです……」
頬が熱くなる。
アルベルトは楽しそうに笑ったが、すぐに優しい表情に戻った。
「君が自分の望みを口にしてくれるのは、私もうれしいよ」
「……本当ですか?」
「ああ。君が何を望んでいるのか、私にはわからないことも多いからね。言葉にしてくれれば、知ることができる」
エヴリンは胸の前で指を組んだ。
自分の気持ちを言葉にするのは、まだ少し怖い。
けれど、伝えなければ、相手にはわからない。
それは、教室で子供たちと向き合う中で、何度も学んだことだった。
「……では、私の望みを一つ、言ってもいいですか?」
アルベルトは、真剣な表情で彼女を見た。
「もちろん」
「また、アルベルト様と出かけたいです。植物園だけじゃなくて、いろいろな場所へ行ってみたいです」
言い終えた瞬間、恥ずかしさで胸がいっぱいになった。
けれど、視線はそらさなかった。
アルベルトは少し驚いたあと、ゆっくりと微笑んだ。
「喜んで。私も、君といろいろな場所へ行ってみたい」
「……ありがとうございます」
「ただし、次は私にも行き先を考えさせてほしいな」
「もちろんです。アルベルト様が行きたい場所にも、行ってみたいですから」
その答えに、彼は目を細めた。
「それなら、次は私の好きな場所を案内しよう」
「楽しみにしています」
二人は再び歩き始めた。
先ほどよりも、ほんの少しだけ距離が近くなった気がした。
◇
中庭を一周したあと、二人は学院の門の近くで別れることになった。
アルベルトには王宮へ戻る予定があり、エヴリンも次の授業に向けて準備を続ける必要がある。
「今日はありがとうございました、アルベルト様」
「こちらこそ。資料の確認も助かったよ」
「子供たちが、次の授業も楽しみにしてくれるといいですね」
「ああ。君が考えた教材なら、きっと喜んでくれると思う」
「まだ、うまくいくかはわかりませんけど……」
「それなら、結果を見てから考えよう。君がいつも子供たちに伝えているようにね」
エヴリンは、思わず笑みをこぼした。
「そうですね。間違えたら、また考え直せばいいんですものね」
「そのとおり」
彼は一歩下がり、穏やかに頭を下げた。
「また会おう、エヴリン」
「はい。またお会いできるのを楽しみにしています」
アルベルトが去っていく。
その背中を見送ってから、エヴリンはそっと胸元に手を当てた。
今日も、彼といろいろな話ができた。
教室のことだけではない。
彼が抱えている悩みや、自分が望んでいること。
以前よりも、互いのことを少しだけ知ることができた気がする。
そして、次の約束もできた。
「……私、本当に楽しみにしているんだわ」
つぶやいた声は、風に乗って消えていった。
彼と一緒に過ごす時間が、いつの間にか自分にとって大切なものになっている。
それを認めることに、もう大きな抵抗はなかった。
ただ、まだ一つだけ、わからないことがある。
この気持ちを、いつか彼に伝える日が来るのだろうか。
そう考えると、胸が少しだけ苦しくなる。
けれど、今はそれでいい。
焦らずに、自分の心と向き合っていこう。
次に彼と会うときには、今日よりも少しだけ、自分の気持ちを理解できているかもしれない。
◇
同じころ、学院の別の場所では、リヴィアがルシアンと向かい合っていた。
「次の休日、あなたが好きな場所へ連れていってくれるのでしょう?」
「ああ。覚えていてくれたんだね」
「もちろんよ。あなたがどんな場所を選ぶのか、気になっているもの」
リヴィアは、少し照れくさそうに視線をそらした。
以前の彼女なら、誰かの提案に応えることはできても、自分から次の約束を楽しみにしているとは言えなかったかもしれない。
けれど今は、違う。
ルシアンと過ごす時間を、自分自身が望んでいる。
「……ねえ、ルシアン」
「うん?」
「あなたが大切にしているものを、もっと知りたいの。あなたがどんな景色を好きで、何を考えて、どんな未来を望んでいるのか」
ルシアンは、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、その青い瞳に柔らかな笑みが浮かんだ。
「それなら、少しずつ教えていくよ。君が知りたいと思ってくれるなら、いくらでも」
「……ええ。私も、あなたに自分のことを知ってほしいわ」
その言葉に、ルシアンはうれしそうに笑った。
二人の未来は、まだ決まっていない。
けれど、互いを知ろうとする気持ちは、確かに育ち始めていた。
誰かが決めた物語の結末ではなく、自分たちの言葉と選択で作っていく未来。
その先に何が待っているのかは、まだ誰にもわからない。
だからこそ、二人は次の一歩を楽しみにしていた。




