花の名前を知る午後
休日の朝。
エヴリンは、鏡の前で何度も髪飾りの位置を直していた。
淡いクリーム色のワンピースに、青緑色の上着。以前、アルベルトと出かけたときにも着た服だったが、今日は小さな花をあしらった髪飾りを選んでいた。
王都の外れにある植物園。
珍しい薬草や季節の花が育てられていると聞き、いつか訪れてみたいと思っていた場所だ。
そして今日は、アルベルトと二人でそこへ行く約束をしている。
「……よし。これで大丈夫」
そう言って鏡に向かってうなずいたものの、すぐに自分の頬が緩んでいることに気づいた。
植物園が楽しみなのは本当だ。
けれど、それだけではない。
アルベルトと休日を過ごせることが、何よりも楽しみだった。
「エヴリン、そろそろ出る時間じゃない?」
部屋の外からクララの声がした。
「わかってるわ!」
「ずいぶん念入りに準備していたみたいだけど、今日は特別なお出かけなの?」
「そ、そういうわけじゃ……!」
「ふふ。そういうことにしておくわね」
楽しそうな笑い声が遠ざかる。
エヴリンは鏡の中の自分をもう一度見つめ、小さく息を吐いた。
落ち着こう。
今日は、彼ともっと話をしたい。
いつもは教室の計画や子供たちのことを話す時間が多い。もちろん、それも大切な時間だ。
けれど今日は、仕事とは関係のない話もしてみたい。
彼がどんな花を好きなのか。
子供のころ、どんな休日を過ごしていたのか。
王族としてではなく、一人の人間として、何を大切にしているのか。
そして、自分の好きなものも、もっと知ってもらいたい。
そう考えると、また胸が高鳴った。
◇
待ち合わせ場所に着くと、アルベルトはすでに到着していた。
今日は王族の正装ではなく、白いシャツに落ち着いた紺色の上着を合わせた、飾り気の少ない服装だった。
金色の髪が朝の光を受け、赤い瞳には柔らかな色が宿っている。
「おはよう、エヴリン」
「お、おはようございます、アルベルト様。お待たせしてしまいましたか?」
「いや、私も今来たところだよ」
そう答えた彼は、エヴリンの姿を見て微笑んだ。
「その髪飾り、よく似合っているね」
「えっ……あ、ありがとうございます」
頬が熱くなる。
何度か二人で出かけたはずなのに、こうして改めて褒められると、どう反応すればいいのかわからなくなる。
「今日は、いつもより少し雰囲気が違うね」
「そ、そうでしょうか?」
「うん。楽しみにしてくれていたのかなと思って」
「……はい。とても楽しみにしていました」
今度は、誤魔化さずに答えられた。
アルベルトの目が、わずかに見開かれる。
それから彼は、うれしそうに笑った。
「私もだよ。では、行こうか」
二人は馬車に乗り、王都の中心部を離れていった。
窓の外では、石造りの建物が少しずつ少なくなり、代わりに緑の多い風景が広がっていく。
しばらくして、エヴリンが口を開いた。
「アルベルト様は、植物がお好きなんですか?」
「詳しいわけではないけれど、嫌いではないよ。王宮にも庭園があるから、幼いころから花を見る機会はあった」
「王宮の庭園……きっと、とても美しいのでしょうね」
「美しいよ。ただ、手入れが行き届いているぶん、どこか整いすぎている気もする」
「整いすぎている?」
「決められた場所に、決められた花が植えられている。もちろん、それも庭園の魅力だろう。だが、私は自然に咲いている花にも惹かれるんだ」
エヴリンは、興味深そうに彼を見た。
「意外です。アルベルト様は、何でもきちんと計画される方だと思っていました」
「計画することと、計画どおりでなければならないと思うことは違うからね」
彼は窓の外に目を向けた。
「計画は、目的に近づくためのものだ。計画を守ること自体が目的になってしまったら、何のために考えたのかわからなくなる」
その言葉に、エヴリンは思わず笑みを浮かべた。
「……教室の計画でも、同じことを考えるようになりました」
「そうだったね」
「最初は、予定したとおりに授業を進めることが大切だと思っていました。でも、実際に子供たちと過ごしてみると、予定を変えたほうがいいこともたくさんあって」
「そのたびに、君は考え直してきた」
「はい。だから今は、計画は変えてもいいものだと思っています。もちろん、何でも簡単に変えていいわけではありませんけど」
「そのとおりだ。変える理由をきちんと考えることが大切なんだろう」
エヴリンはうなずいた。
仕事の話から始まった会話だったが、今日はそれが少しもうれしかった。
自分が考えていることを、彼と共有できる。
そして、彼の考えを聞くことで、自分の中に新しい視点が生まれる。
そんな時間を、もっと重ねていきたいと思った。
◇
植物園の入り口をくぐると、花の香りを含んだ風が二人を迎えた。
広い敷地には、色とりどりの花壇が整然と並んでいる。その奥には温室があり、外では育ちにくい植物も展示されているようだった。
「わあ……!」
エヴリンの顔が、ぱっと明るくなる。
白い小花が集まって咲く一角。淡い紫色の花が風に揺れる小道。葉の形も大きさも違う植物が並ぶ温室。
どこを見ても、彼女の興味を引くものばかりだった。
「気に入ってくれたようだね」
「はい! こんなにたくさんの種類があるなんて思いませんでした」
エヴリンは、花壇のそばにしゃがみ込んだ。
薄い桃色の花弁が、幾重にも重なっている。
「この花、きれい……」
「気になる花があったら、ゆっくり見ていこう。時間は十分にあるから」
「ありがとうございます」
彼女は花の形を眺め、葉の先に残った水滴を見つめた。
その横顔を、アルベルトは静かに見守っていた。
教室で子供たちと話すときのエヴリンは、相手の反応をよく見て、慎重に言葉を選ぶ。
計画について話すときは真剣で、問題が見つかれば、どうすれば改善できるかを一生懸命に考える。
けれど今、目の前にいる彼女は、ただ花を見て楽しんでいる一人の少女だった。
知らなかった表情を見るたびに、もっと彼女を知りたいという思いが強くなる。
「アルベルト様?」
視線に気づいたエヴリンが振り返った。
「どうかなさいましたか?」
「いや。楽しそうだなと思って」
「……はい。とても楽しいです」
彼女は少し照れくさそうに笑った。
「好きなものを見ていると、時間があっという間に過ぎてしまいますね」
「それは、いいことだと思うよ」
「アルベルト様も、何か気になる花はありましたか?」
「そうだな……」
彼は周囲を見渡したあと、花壇の端に咲く小さな青い花を指さした。
「あの花はどうだろう」
エヴリンは、彼の隣に移動した。
そこには、青い花弁の中心に淡い黄色が見える、小さな花が咲いていた。
「きれいですね。派手ではないけれど、よく見ると、とても繊細です」
「君が好きそうな花だと思ったんだ」
「私が?」
「うん。目立つものだけではなく、少し注意して見なければ気づかないものにも、君はよく目を向けるから」
エヴリンは、花を見つめたまま黙り込んだ。
そんなところまで見ていてくれたのだろうか。
自分でも意識していなかった部分を、彼が言葉にしてくれる。
「……アルベルト様は、人のことをよく見ていらっしゃいますね」
「そうかな?」
「はい。私、自分では気づいていないことを、何度も教えていただいています」
「君が見せてくれるものを、私が見ているだけだよ」
アルベルトは穏やかに答えた。
その言葉を聞いて、エヴリンの胸が温かくなる。
彼は、自分を特別な存在に見せようとしているわけではない。
ただ、彼女が話すことや、何気なく見せる表情を覚えていてくれる。
そのことが、何よりもうれしかった。
◇
温室を一通り見て回ったあと、二人は園内の小さな休憩所に立ち寄った。
木製のテーブルと椅子が並び、周囲には鉢植えの花が飾られている。
エヴリンは温かい飲み物を両手で包み、ほっと息をついた。
「こんなにゆっくり花を見たのは、久しぶりです」
「普段は忙しいからね」
「はい。でも、忙しいことが嫌なわけではないんです。教室の準備も、子供たちと過ごす時間も、大切ですから」
彼女はカップの中を見つめた。
「ただ、以前は、何かをしていないと不安になることがありました。休んでいる間に、誰かの役に立てる機会を逃してしまうんじゃないかって」
アルベルトは口を挟まず、彼女の話を聞いていた。
「でも、今は少し違います。こうして花を見たり、誰かと話したりする時間も、自分にとって大切なものなんだと思えるようになりました」
「それは、よい変化だと思う」
「はい。……今日も、来てよかったです」
エヴリンは顔を上げた。
「アルベルト様と一緒に来られて、うれしいです」
言葉にした途端、頬が熱くなった。
以前なら、ここまで素直に伝えられなかったかもしれない。
けれど、彼が自分の希望を聞いてくれたからこそ、自分もこの時間を大切に思っていると伝えたかった。
アルベルトは、しばらく彼女を見つめていた。
「……私も、君と来られてうれしいよ」
落ち着いた声だった。
けれど、その表情には、いつもの公的な笑顔とは違う柔らかさがあった。
「君と一緒にいると、自分が普段どれだけ、先のことばかり考えているのかに気づくんだ」
「先のこと、ですか?」
「ああ。王族として何をすべきか。どんな結果を出すべきか。何を準備し、どんな問題を避けるべきか。考えることはいくらでもある」
アルベルトはカップを置いた。
「それが必要なのはわかっている。だが、何かを成し遂げることだけに意識が向いてしまうと、今この瞬間を楽しむことを忘れてしまう」
「……アルベルト様も、そんなふうに思うことがあるんですね」
「私だって、何でもできるわけではないよ」
彼は少し苦笑した。
「君と話していると、答えがすぐに出なくても、誰かと一緒に考えることには意味があるのだと思える。だから、君と過ごす時間は私にとっても大切なんだ」
エヴリンは、返事をするまでに少し時間がかかった。
自分が彼から何かを教わっているだけではない。
彼もまた、自分との時間を大切に思ってくれている。
そう聞けたことが、心の奥に静かに広がっていく。
「……これからも、いろいろなお話を聞かせてください」
彼女は、勇気を出して言った。
「教室のことも、それ以外のことも。アルベルト様が何を考えているのか、もっと知りたいです」
「もちろん。私も、君のことをもっと知りたい」
二人の視線が重なった。
どちらも、それ以上の言葉をすぐには続けなかった。
けれど、沈黙は気まずくなかった。
窓の向こうでは、風に揺れる花々が午後の日差しを受けている。
エヴリンはカップを手に取り、そっと微笑んだ。
まだ、この気持ちを恋だと言い切ることはできない。
けれど、彼と一緒に過ごす時間を、これからも大切にしていきたい。
その思いだけは、少しずつ確かなものになっていた。
◇
植物園を出るころには、太陽が傾き始めていた。
帰り道、二人は園内で見た花について話しながら、ゆっくりと歩いた。
「そういえば、アルベルト様。さっきの青い花、名前を聞きそびれてしまいました」
「私も知らないんだ。案内板に書かれていたと思うけれど」
「次に行く機会があったら、調べてみたいです」
「それなら、また来よう」
アルベルトは、ごく自然にそう言った。
エヴリンは彼を見上げた。
「……また、一緒に来てくださるんですか?」
「君が望むなら」
迷いのない返事だった。
エヴリンはうれしさを感じながら、小さくうなずいた。
「はい。ぜひ」
馬車の待つ場所に着くと、アルベルトが先に手を差し出した。
乗り込むときに支えるための、何気ない仕草。
エヴリンは一瞬ためらい、それから彼の手を取った。
彼の手は温かかった。
ほんの短い間、指先が触れ合う。
それだけで、胸が高鳴った。
馬車に乗り込んだあと、彼はいつものように彼女が座りやすいように場所を空けた。
特別なことは何も起きていない。
それでも、今日という一日は、エヴリンにとって忘れたくない時間になった。
花の名前は、まだわからない。
彼が好きな花も、これから少しずつ知っていけばいい。
自分の気持ちについても、同じだった。
今はまだ、答えを急がなくていい。
ただ、次に彼と会う日が楽しみだと思う。
その気持ちを、大切にしていこう。
馬車の窓から夕暮れの街並みを眺めながら、エヴリンはそっと微笑んだ。
そして隣では、アルベルトもまた、彼女との次の約束を心の中で思い描いていた。




