伝えたい言葉、まだ言えない想い
王都西部の小さな教室で、子供たちが自分の希望を話してくれた日から、数日が過ぎた。
エヴリンは学院の図書室で、次の授業に使う教材を整理していた。
看板に使われる文字を集めたカード。買い物を想定した簡単な計算問題。短い文章を読み、そこに書かれた内容を絵で表す練習。
子供たちの言葉を思い出しながら、一つずつ形にしていく。
「これなら、マリーにもトムにも使ってもらえそう……」
そうつぶやいてから、エヴリンは手を止めた。
教材の端に、少し不格好なパンの絵が描かれている。
最初の授業で、トムがパンの絵を見て笑ってくれたことを思い出したのだ。
あのときの小さな笑顔は、今でもはっきりと覚えている。
自分が作ったものが、誰かの役に立つ。
それは、思っていた以上にうれしいことだった。
「……私、以前よりも、自分のことを好きになれたのかもしれない」
口にしてから、エヴリンは少し驚いた。
かつての自分は、誰かの期待に応えられなければ、自分には価値がないのではないかと不安になっていた。
けれど今は、すべてを完璧にこなせなくても、目の前の人のためにできることを探せばいいと思える。
失敗しても、考え直せばいい。
誰かに助けてもらってもいい。
そんなふうに思えるようになったのは、この教室で子供たちと過ごした時間と、彼の言葉があったからだ。
「何を一人で考え込んでいるんだ?」
聞き慣れた声に顔を上げる。
アルベルトが、図書室の入り口に立っていた。
「アルベルト様。お仕事は終わったんですか?」
「ひとまずね。君がここにいると聞いたから、様子を見に来た」
「様子を?」
「教材の整理に夢中になって、昼食を忘れているんじゃないかと思って」
「そ、そんなことありません!」
反射的に答えたものの、エヴリンの視線が机の端に置かれた時計へと動く。
思っていたよりも時間が経っていた。
アルベルトは、彼女の反応を見て小さく笑った。
「どうやら、少しは当たっていたようだな」
「う……。でも、もう少しで終わるんです」
「なら、終わったら一緒に食事をしよう。今日は私も、君に相談したいことがある」
相談。
その言葉に、エヴリンは姿勢を正した。
「教室の計画についてですか?」
「半分はそうだな。もう半分は、私個人の話だ」
「個人の……?」
詳しく尋ねようとしたが、アルベルトはそれ以上説明しなかった。
「まずは片づけを済ませよう。急ぐ必要はないから」
彼はそう言うと、机に広げられた教材を見渡した。
「それにしても、前よりもずっと種類が増えたな」
「子供たちが教えてくれた希望を、できるだけ反映したくて。もちろん、一度に全部を用意することはできませんけど」
「それでいいと思う。できることから始めて、結果を見ながら変えていけばいい」
エヴリンは微笑んだ。
「最近、アルベルト様のその言葉を聞くと、安心するんです」
「私の言葉で?」
「はい。以前は、失敗しないためには、最初から正しい計画を立てなければいけないと思っていました。でも今は、途中で変えることも、前に進むために必要なんだって思えるようになりました」
アルベルトは、静かにうなずいた。
「それなら、君に相談したいことがあるという話も、少し気楽に聞いてもらえるかな」
「えっ。難しい問題なんですか?」
「難しいかどうかは、君の意見を聞いてから決めよう」
そう言って笑う彼を見て、エヴリンは思わず頬を緩めた。
この人と話していると、自然に肩の力が抜ける。
それが最近の自分にとって、当たり前になりつつあることに気づいた。
◇
食堂の窓際の席で、二人は向かい合っていた。
アルベルトは食事を終えると、少し考えるようにカップを置いた。
「実は、近いうちに王宮で、学院と地域の連携について報告することになっている」
「今回の学習教室について、ですか?」
「ああ。試験的な取り組みとして始めたものだが、継続するには教師の協力や教材の費用も必要になる。現状と今後の課題を整理して、支援を続ける価値があることを説明しなければならない」
エヴリンは真剣な表情になった。
「それなら、子供たちの反応だけではなく、改善が必要なところも正直に伝えるべきですね」
「そう思う。成果だけを並べても、実際に続けられる計画にはならないからな」
「教材の準備に必要な時間や、補助員の負担についてもまとめましょう。続けることが大切だからこそ、無理のない方法を考えたいです」
アルベルトは満足そうにうなずいた。
「君に相談したかったのは、その部分だ。実際に現場を見て、子供たちの声を聞いている君なら、書類だけではわからないことを教えてくれると思った」
「私でよければ、ぜひ協力させてください」
「ありがとう」
そこで一度、会話が途切れた。
アルベルトは、テーブルの上で指を組み直した。
「ただ……今回の報告とは別に、君に聞いておきたいことがある」
「はい」
「最近、君は以前よりも、自分から何かをしたいと言ってくれるようになっただろう?」
エヴリンは目を瞬かせた。
「そうでしょうか……?」
「次の授業で何をするか。どんな教材を作りたいか。休日にどこへ行きたいか。君は少しずつ、自分の希望を口にするようになった」
最後の言葉に、エヴリンの頬が熱くなった。
休日の外出は、彼に誘われたものだった。
そして次の約束は、自分から誘った。
「それは……アルベルト様が、私の意見を聞いてくださるからです」
「私は、君が何を考えているのか知りたいだけだよ」
彼は穏やかな声で続けた。
「君が何を望み、何を大切にしているのか。私が知らない君の一面を、もっと知りたいと思っている」
エヴリンは言葉を失った。
胸の奥が、強く締めつけられる。
彼はいつも、自分の考えを聞いてくれる。
頑張ったことだけでなく、迷っていることも、まだ答えが見つからないことも。
そんな彼のことを、自分ももっと知りたいと思っていた。
けれど、同じ言葉を彼から聞くとは思っていなかった。
「……私も、です」
ようやく出てきた声は、思っていたより小さかった。
「え?」
「私も、アルベルト様のことを、もっと知りたいと思っています」
言ってしまった。
そう気づいた瞬間、顔が熱くなる。
「そ、それは、王族としてのお立場だけではなくて……!」
慌てて言葉を足そうとしたが、うまくまとまらない。
アルベルトは笑わなかった。
ただ、彼女の言葉を大切に受け止めるように、静かにうなずいた。
「うれしいよ」
その一言が、何よりも心に響いた。
「これからも、少しずつ話していこう。君が聞きたいことがあれば、できる限り答えるから」
「……はい」
エヴリンはカップに視線を落とした。
自分の気持ちは、まだはっきりとはわからない。
ただ、彼と話す時間が好きだった。
彼が自分の言葉を覚えていてくれることがうれしかった。
そして、これから先も、彼と一緒に過ごす時間が続けばいいと思っていた。
その願いを、今は否定したくなかった。
◇
午後、二人は再び図書室へ戻り、王宮への報告に必要な資料を整理した。
子供たちが希望した学習内容。教材の準備にかかった時間。授業中に見つかった課題。補助員の人数と、今後必要になる支援。
エヴリンは、うまくいったことだけを選ばず、問題点も一つずつ書き出した。
「この部分は、まだ結論を出せません。次の授業でも確認してから、報告したほうがいいと思います」
「同感だ。予想だけで決めつけるべきではないな」
「それと、子供たちが希望したことのうち、すぐに実現できないものについても、理由を説明できるようにしたいです。できないから終わりではなく、いつか実現するために何が必要なのか、一緒に考えられるように」
アルベルトは筆を止め、彼女を見た。
「一緒に考える、か」
「はい。子供たちだって、自分のことを自分で決める権利があると思うんです。私たちが勝手に、これが一番いいと決めてしまうのは違う気がします」
エヴリンの言葉に、アルベルトは深くうなずいた。
「その考え方は、今回の取り組みの根本に置くべきだろう」
「本当ですか?」
「ああ。支援する側が何でも決めてしまえば、子供たちの希望を聞く意味がなくなってしまうからな」
彼は書類の余白に、エヴリンの言葉を記した。
その様子を見て、彼女は少しだけ照れくさくなった。
自分の考えが、誰かの役に立つ。
それだけではない。
アルベルトは、彼女の意見をただ聞くだけでなく、必要なものとして扱ってくれる。
その信頼が、エヴリンに次の一歩を踏み出す勇気を与えていた。
資料がまとまったころには、窓の外が夕暮れに染まっていた。
「今日はここまでにしよう」
アルベルトが書類を閉じる。
「はい。お疲れさまでした」
二人は資料を所定の場所へ戻し、図書室を出た。
廊下を歩きながら、エヴリンは何度か口を開きかけては、言葉を飲み込んだ。
さっきの会話を、もう一度思い出してしまう。
もっと知りたい。
彼からそう言われたとき、胸がどれほど高鳴ったことか。
「エヴリン?」
「は、はい!」
「何か言いたそうだったから」
「いえ、その……」
彼女は少し迷ったあと、思い切って顔を上げた。
「次のお休みなんですけど、私、行ってみたい場所があるんです」
「聞かせてくれるかい?」
「王都の外れに、小さな植物園があるそうなんです。珍しい薬草や花が育てられていると聞いて……。私、花を見るのが好きなので、一度行ってみたいと思っていました」
「いいね。私も一緒に行きたい」
答えは、すぐに返ってきた。
「本当ですか?」
「君が行きたい場所なんだろう?」
「はい。でも、アルベルト様が興味を持ってくださるか、わからなかったので……」
「君が好きなものなら、私も知りたいと思うよ」
エヴリンは、また頬が熱くなるのを感じた。
自分が好きなものを、彼にも知ってほしい。
彼が好きなものも、自分に教えてほしい。
そんな願いが、少しずつ増えていく。
「……それなら、次のお休みは植物園にしましょう」
「ああ。楽しみにしているよ」
二人は廊下の分かれ道で足を止めた。
別れ際、アルベルトはいつものように穏やかな笑みを浮かべた。
「今日は、いろいろな話ができてよかった」
「私もです」
「また明日」
「はい。また明日、アルベルト様」
彼の背中が遠ざかっていく。
エヴリンは、その姿をしばらく見送ってから、胸元に手を添えた。
心臓が、まだ少し速く動いている。
彼と過ごす時間を楽しみにしている自分がいる。
彼に自分の好きなものを知ってほしいと思う自分がいる。
そして、彼が自分のことをもっと知りたいと言ってくれたことを、何度も思い返してしまう自分がいる。
これが何という気持ちなのか。
まだ、はっきりとは言えない。
けれど、答えを急がなくてもいいのだと思えた。
小さな教室で、子供たちが一つずつ文字や数字を覚えていくように。
自分の心も、少しずつ知っていけばいい。
いつか、この気持ちを自分の言葉で伝えられる日が来るまで。




