小さな希望を、明日へつなぐ
次の授業の日が近づくにつれ、エヴリンの机には新しい教材が増えていった。
看板に使われる文字を集めたカード。果物やパンの絵を描いた計算用の札。短い文章を書き込める、小さな練習帳。
どれも華やかなものではない。
それでも、エヴリンは一枚ずつ確かめながら、子供たちが使う姿を思い浮かべていた。
「これなら、トムも楽しんでくれるかしら……」
パンの絵が描かれたカードを手に取った、そのときだった。
「エヴリン、少しいいか?」
教室の入り口に立っていたのは、アルベルトだった。
「アルベルト様。どうかなさいましたか?」
「先日、君が提案してくれた子供たちへの聞き取りについて、担当の教師と話してきた。次の授業で実施して構わないそうだ。ただし、回答を無理に求めないこと、家庭の事情に踏み込みすぎないことが条件だ」
「よかった……!」
思わず声が弾んだ。
子供たちが何を学びたいのか。それを知ることができれば、もっと実際の生活に役立つ授業を考えられる。
けれど、彼女はすぐに表情を引き締めた。
「ありがとうございます。みんなが話してくれたことを、きちんと次の授業に生かします」
「期待しているよ」
アルベルトは机の上を見渡した。
「それにしても、ずいぶん増えたな」
「はい。でも、まだ足りないものもあるんです。特に、読み書きが苦手な子供と、計算を先に進めたい子供が同じ時間に学べるようにするには、教材の工夫が必要で……」
「教師にも相談してみよう。学生の補助員だけで解決しようとする必要はない」
「そうですね。私、つい自分たちで何とかしなくちゃと思ってしまって」
「責任感があるのは君の長所だ。だが、責任を一人で背負うこととは違う」
アルベルトの言葉に、エヴリンは小さくうなずいた。
以前なら、問題が見つかるたびに、自分の努力が足りないのだと考えていたかもしれない。
けれど今は、誰かに相談することも、よりよい方法を探すための一歩なのだとわかり始めていた。
「……私、少しずつ変われているでしょうか?」
何気なく口にした問いだった。
アルベルトはすぐには答えず、彼女の顔をじっと見つめた。
「変わったと思うよ」
「どんなところが、ですか?」
「以前の君は、正しい答えを出そうとするあまり、自分の考えに自信を持てずにいた。今は違う。自分で考えたことを伝え、間違いがあれば修正しようとしている」
彼は、机の上に置かれた教材へ視線を移した。
「そして何より、君は子供たちの反応を見て、次に何をすべきか考えている。計画を守るために子供たちを合わせるのではなく、子供たちに合わせて計画を変えようとしているんだ」
エヴリンは、手元のカードを見つめた。
自分では、まだ失敗ばかりだと思っていた。
準備が足りず、予想外の問題に戸惑い、誰かの意見を聞いては計画を書き直す。
それでも、そうした積み重ねをアルベルトは見ていてくれた。
「……ありがとうございます」
「また礼を言われてしまったな」
「だって、本当にうれしいんです」
顔を上げたエヴリンは、照れくさそうに笑った。
アルベルトもまた、穏やかな表情を浮かべた。
彼女の笑顔を見ると、胸の奥が温かくなる。
その理由を、以前よりもはっきりと意識するようになっていた。
彼女が計画を成功させるからではない。王族である自分に賛同してくれるからでもない。
迷いながらも自分の考えを持ち、目の前の人の声を聞こうとする。その姿に、彼は惹かれているのだ。
けれど、今はまだ、その気持ちを言葉にするつもりはなかった。
彼女が自分の未来を選ぶように、彼女自身の心も、自分の歩幅で進んでほしかった。
◇
授業当日。
小さな教室には、前回よりも少し早い時間から子供たちが集まり始めていた。
「おはようございます!」
エヴリンが声をかけると、マリーが元気よく手を振った。その隣では、トムが姉の服の袖をつかみながら、室内をきょろきょろと見回している。
「おはよう、マリー。トムも来てくれたのね」
「うん! 今日はね、トムが自分で来たいって言ったの!」
マリーの言葉に、エヴリンは目を細めた。
「そうなの? 来てくれてうれしいわ」
トムは少し恥ずかしそうにうつむいたあと、小さな声で答えた。
「……パンの絵、またある?」
「もちろん。今日はね、パン以外の絵も用意したのよ」
エヴリンがカードを見せると、トムの目が輝いた。
その様子を見て、彼女の胸に喜びが広がる。
この教室に来ることを、子供自身が楽しみにしてくれている。
それは、彼女が最初に望んでいたことの一つだった。
やがて授業が始まり、子供たちはそれぞれの机についた。
まずは簡単な質問からだ。
「みんなに、少し聞きたいことがあるの。ここで何かを覚えるとしたら、どんなことができるようになりたい?」
エヴリンは、答えを急かさずに待った。
最初に手を挙げたのは、マリーだった。
「私は、お店の看板を読めるようになりたい! お母さんのお手伝いで買い物に行くとき、知らない文字があると困るから」
「そうなのね。じゃあ、看板に使われている文字を練習してみましょうか」
マリーはうれしそうにうなずいた。
別の子供は、数をもっと早く数えられるようになりたいと言った。もう一人は、手紙を自分で読めるようになりたいと話した。
エヴリンは一人ひとりの言葉を聞き、本人が望む範囲で、簡単なメモを取っていった。
やがて、トムの番が来た。
彼は机の上のパンのカードを見つめ、しばらく考えていた。
「……ぼくは」
「うん。ゆっくりでいいのよ」
「お店で、数字がわかるようになりたい」
エヴリンは顔を上げた。
「数字?」
「うん。お母さんが買い物をするとき、ぼくも一緒に行くんだ。でも、数字がよくわからないから……。いつか、自分でも数えられるようになりたい」
最後のほうは、少しだけ声が小さくなった。
エヴリンは、彼の前に数字を書いたカードを置いた。
「それなら、今日は一緒に練習してみましょう。難しいところは、何度でもやり直していいのよ」
「何度でも?」
「ええ。間違えたって大丈夫。間違えたら、もう一度考えればいいんだから」
トムはカードを見つめ、それから小さくうなずいた。
その言葉は、彼女自身にも向けたものだった。
失敗しても、やり直せる。
最初から正しい答えを知っている必要はない。
大切なのは、間違えたことを理由に、考えるのをやめないことだ。
授業の終わりには、子供たちがそれぞれ自分の希望を話してくれた。
すべてをすぐに実現することはできない。
教材も時間も、人手も限られている。
それでも、何を目指せばいいのかは、少しずつ見えてきた。
「今日は、みんなの話を聞かせてくれてありがとう。教えてもらったことを、次の授業に生かしていくわね」
「先生、次も来ていい?」
帰り支度をしていたマリーが尋ねた。
「もちろん。また来てくれるとうれしいわ」
「やった!」
トムも、姉の隣でうなずいた。
その小さな仕草を見て、エヴリンは胸の奥がいっぱいになるのを感じた。
この教室は、まだ始まったばかりだ。
けれど、子供たちが自分の希望を口にできる場所になり始めている。
それだけでも、ここを作った意味はあった。
◇
子供たちが帰ったあと、エヴリンは机に並べたメモを整理していた。
「どうだった?」
アルベルトが声をかける。
「とても参考になりました。私たちが用意した教材を使ってもらうだけではなくて、子供たちが何をしたいのかを聞くことが大切なんですね」
「君が提案したことだろう?」
「はい。でも、実際に聞いてみると、想像していた以上に、それぞれ違う希望があるんだとわかりました」
彼女はメモを一枚手渡した。
「次回は、看板の文字を練習する時間と、数字を使った計算の時間を分けてみたいです。ただ、時間を細かく分けすぎると、途中から来た子が参加しにくくなるかもしれません。だから、短い課題をいくつか用意して、来た子から取り組める形にできないかと考えています」
アルベルトはメモに目を通し、考え込んだ。
「教師にも確認してみよう。課題ごとの難易度を整理すれば、補助員も対応しやすくなるはずだ」
「ありがとうございます」
「それから、今日は君自身のことも少し褒めておきたい」
「私のこと、ですか?」
「子供たちが答えるまで、君は急かさずに待っていた。答えが出ないときも、代わりに答えを決めなかった」
アルベルトは彼女を見つめた。
「子供たちが自分の希望を話せたのは、君が安心して話せる場所を作ったからだと思う」
エヴリンは、驚いたように彼を見た。
教材の工夫や授業の進め方について褒められることは、少しずつ慣れてきた。
けれど、自分の接し方そのものを評価されると、どうしていいかわからなくなる。
「……私、そんなに立派なことはしていません」
「立派かどうかを決めるのは、君だけではないよ」
アルベルトは、やわらかく笑った。
「少なくとも、今日の子供たちは君に自分の希望を話してくれた。それは、君が積み重ねてきたものの一つだ」
エヴリンは唇を結び、目を伏せた。
うれしかった。
自分が役に立てたことも、子供たちが笑顔で帰っていったことも。
そして、アルベルトがそのすべてを見ていてくれたことも。
「……アルベルト様」
「うん?」
「私、もっと頑張りたいです。でも、今は以前と少し違う気がします」
「どう違うんだい?」
「前は、失敗したら、期待に応えられなかったと思っていました。でも今は、うまくいかなかったら、次にどうすればいいか考えたいんです」
エヴリンは、自分の言葉を確かめるように続けた。
「もちろん、失敗するのは怖いです。でも、子供たちの声を聞いていたら、私が最初から正しい答えを持っている必要はないんだって思えました」
アルベルトは、しばらく彼女を見つめていた。
「君は、本当に強くなったね」
その声があまりにも優しくて、エヴリンは顔を上げられなかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
この人の前では、自分の弱さを隠さなくてもいい。
迷っていることも、わからないことも、言葉にして伝えられる。
そして、彼はそれを否定しない。
その安心感が、いつしか別の感情へと変わり始めていることに、彼女は気づきつつあった。
まだ、はっきりと名前をつけることはできない。
けれど、彼に認められるとうれしい。
彼と話していると、もっと自分のことを知ってほしくなる。
そして、別れ際には、もう少し一緒にいたいと思ってしまう。
「……次のお休み、楽しみにしています」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
アルベルトは一瞬驚き、それから微笑んだ。
「私もだよ、エヴリン」
名前を呼ばれただけなのに、胸が高鳴った。
エヴリンは、恥ずかしさを隠すようにメモをまとめ直した。
その手元を見つめながら、彼女は小さく息を吐く。
教室で子供たちが見つけた小さな希望。
そして、自分の中に芽生え始めた、まだ名前のない気持ち。
どちらも、急いで答えを出す必要はない。
大切に育てながら、少しずつ確かめていけばいいのだから。




