小さな教室に届いた、新しい願い
休日の外出から数日後。
エヴリンは、王都西部にある小さな教室の机に向かい、子供たちが使う教材を一枚ずつ確認していた。
文字を覚えるための絵札。木片を使った計算の練習。身近な物の名前を書き込める小さな帳面。
初めての授業で子供たちが見せてくれた笑顔を思い出すと、自然と頬が緩む。
けれど、笑顔だけでは解決できない問題もある。
「この教材、もう少し持ち運びやすくできないかな……」
エヴリンは、机に並べた木片を見下ろした。
計算の練習には便利だが、数が増えると袋が重くなる。子供たちの中には、家の手伝いを終えてから教室に来る者もいる。荷物が増えれば、それだけ負担になってしまう。
彼女は帳面に改善案を書き留めた。
そのとき、入り口から声がした。
「ずいぶん真剣な顔をしているね」
「アルベルト殿下!」
振り返ると、アルベルトが数冊の書類を抱えて立っていた。
今日は護衛の姿も少なく、王族としての正装ではなく、落ち着いた紺色の上着を身につけている。
「教材の見直しです。実際に使ってみると、考えていたときには気づかなかったことが出てきて……」
「それは悪いことではないだろう。最初から完璧なものを作れる人間はいない」
「そうですね。でも、せっかく来てくれた子供たちに、少しでも楽しく学んでほしいんです」
エヴリンは絵札を手に取った。
「トムは、絵を見ながらだと文字を覚えやすいみたいでした。でも、マリーは絵よりも、実際に物を見たり触ったりするほうが得意そうで。同じ方法が、みんなに合うわけではないんですね」
「君は、子供たちをひとまとめにして考えなくなった」
アルベルトの言葉に、エヴリンは目を瞬かせた。
「最初は、全員が同じ場所で同じことを学べれば、それでいいと思っていたんです。でも、話を聞いて、一緒に過ごしてみたら、それだけでは足りないとわかりました」
「その気づきが、今回の計画を前に進める」
アルベルトは彼女の隣に書類を置いた。
「実は、今日、君に見てもらいたいものがある」
「何でしょう?」
「教室に通う子供たちの家族から届いた意見だ。もちろん、個人の事情を必要以上に記録することは避けている。今回は、学習の時間や教材について寄せられた要望だけをまとめた」
彼が差し出した書類には、短い文章がいくつも並んでいた。
仕事の都合で決まった時間には来られないこと。
文字を覚えたら、店の看板を自分で読めるようになりたいこと。
家にいる幼い弟妹にも、簡単な計算を教えてあげたいこと。
エヴリンは、一つひとつを丁寧に読んだ。
「……子供たちは、ただ勉強したいだけじゃないんですね」
「どういう意味だい?」
「学んだことを、自分の生活の中で使いたいんです。看板を読んだり、お店で数を数えたり、家族に教えてあげたり……。そういう目標があれば、勉強する理由もわかりやすくなると思います」
彼女の表情に、少しずつ熱がこもっていく。
「次の授業では、子供たちに何を覚えたいのか聞いてみたいです。それぞれの希望に合わせて、短い課題を用意できたら……」
「いい考えだ」
アルベルトは即座に賛成した。
「ただし、希望を聞くことと、すべてを約束することは別だ。今すぐ用意できない教材もあるだろう。できることと、時間が必要なことは、きちんと伝えたほうがいい」
「はい。期待させるだけにはしたくありません」
「君なら、その違いを忘れないと思っている」
何気ない言葉だった。
それでもエヴリンの胸は、ほのかに温かくなった。
以前の彼女なら、誰かに期待されると、失敗しないようにと身構えていたかもしれない。
けれど、アルベルトは彼女に完璧であることを求めない。考え、迷い、必要なら計画を変えることまで含めて、信頼してくれている。
そのことが、何よりもうれしかった。
「……ありがとうございます、殿下」
「また殿下か」
「えっ?」
「二人で作業しているときくらい、もう少し気軽に呼んでもいいと思うが」
アルベルトがわずかに笑う。
「もちろん、無理にとは言わない」
「そ、それは……」
エヴリンは手元の絵札に視線を落とした。
名前で呼ぶ。
ただそれだけのことなのに、なぜか教材の改善案を考えるより難しく感じる。
「……アルベルト様」
小さな声だった。
彼は一瞬だけ目を見開き、それから、いつもより柔らかな笑みを浮かべた。
「うん。そのほうが、君との距離が少し近くなった気がする」
「そ、そんなつもりで呼んだわけでは……!」
「では、どんなつもりだった?」
「そ、それは……呼んでもいいとおっしゃったからです!」
エヴリンが慌てて言い返すと、アルベルトは楽しそうに肩を揺らした。
「そういうことにしておこう」
「もう……!」
頬が熱い。
けれど、嫌ではなかった。
からかわれているのに、もっと話していたいと思ってしまう。彼が笑うと、自分までつられて笑ってしまう。
その気持ちに、まだ名前をつける勇気はなかった。
ただ、彼と過ごす時間が、少しずつ特別になっていることだけはわかっていた。
◇
午後、二人は次の授業に向けた準備を進めた。
絵札を分類し、持ち運びやすい教材の案を考え、子供たちに希望を聞くための簡単な質問をまとめる。
作業の途中、アルベルトが一枚の紙を手に取った。
「これは?」
「あ、それは私が考えた質問です。『何を勉強したいですか』だけだと、子供によっては答えにくいと思って。だから、『読めるようになりたいものはある?』『数えられるようになりたいものは?』という聞き方も用意してみました」
「なるほど。答えを誘導しすぎず、考える手がかりを渡すわけか」
「はい。こちらが聞きたいことではなく、子供たちが話したいことを聞けるようにしたいんです」
アルベルトは紙を机に戻し、静かにうなずいた。
「君は、人の声を聞くのがうまいな」
「そんなことはありません。まだ、聞き逃していることもたくさんあると思います」
「それでも、聞こうとし続けている。それは簡単なことではないよ」
彼の声には、王族としての評価とは違う、個人的な温かさがあった。
エヴリンは返事をしようとして、言葉に詰まった。
彼に褒められると、胸が弾む。
けれど、それ以上に、彼が自分の努力を見ていてくれることがうれしいのだ。
しばらくして、アルベルトが書類をまとめ始めた。
「今日はここまでにしよう。続きは明日でもできる」
「もう少しだけ、確認したいところが……」
「エヴリン」
名前を呼ばれ、彼女は顔を上げた。
「君が頑張っていることは知っている。だからこそ、休む時間も計画に入れてほしい」
以前、彼女自身が子供たちのために考えたことだった。
学ぶ機会を作る側が無理をして倒れてしまえば、教室は続かない。
それを今、アルベルトから自分に向けて言われたのだ。
「……わかりました。今日は終わりにします」
「よかった」
二人で教材を片づけ、教室の扉を閉める。
夕暮れの道には、橙色の光が差し込んでいた。
帰り道、エヴリンは隣を歩くアルベルトをそっと見上げた。
「あの、アルベルト様」
「どうした?」
「今度の休日も……もし、お時間があれば、一緒に出かけませんか?」
口にした瞬間、自分の心臓が大きく跳ねた。
前回は彼から誘ってくれた。
だから今度は、自分から誘ってみたかった。
仕事の相談をするためではなく、彼のことをもっと知りたいから。
アルベルトは驚いたように瞬きをしたあと、ゆっくりと笑った。
「もちろん。君が行きたい場所はある?」
「まだ決めていません。でも、今度は私が考えてみたいです」
「楽しみにしているよ」
その返事を聞いて、エヴリンの頬に笑みが浮かんだ。
何をするかは、これから考えればいい。
どこへ行くかも、何を話すかも。
大切なのは、自分からもう一度、彼と過ごす時間を望んだことだった。
◇
その夜、王立セイレーン学院の談話室では、リヴィアが窓辺の椅子に腰かけていた。
向かいのソファには、ルシアンが紅茶のカップを手にしている。
「エヴリンから手紙が来たの。次の休日も、アルベルト殿下と出かけることになったそうよ」
「へえ。今度は彼女から誘ったのか?」
「そうみたい。少しずつ、自分の気持ちに向き合えるようになっているのね」
リヴィアは手紙を封筒に戻し、穏やかに微笑んだ。
かつてのエヴリンは、物語の中で与えられた役割に戸惑いながらも、その役割を果たそうとしていた。
けれど今は違う。
自分が何をしたいのかを考え、誰かのために行動し、そのうえで、自分自身の幸せも選ぼうとしている。
「私も、見習わなくてはいけないわね」
「エヴリンを?」
「ええ。誰かの期待に応えることと、自分で望むことは、同じとは限らないでしょう?」
リヴィアがそう言うと、ルシアンはカップを置いた。
「君は、もう十分に自分で選び始めていると思うけれど」
「まだ迷ってばかりよ」
「迷うことと、選べないことは違う」
ルシアンは、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「君は迷いながらも、僕と過ごす時間を選んでくれた。次にどんな答えを出すとしても、その時間まで間違いになるわけじゃない」
リヴィアは指先を重ね、しばらく黙っていた。
彼との未来を考えると、今でも不安はある。
自分が選んだ道が、本当に正しいのか。後悔しないと言い切れるのか。
けれど、少なくとも今は、彼の隣にいることを自分で望んでいる。
「……ねえ、ルシアン」
「うん?」
「次の休日、私もあなたを誘っていいかしら」
ルシアンの表情が、ぱっと明るくなった。
「もちろん。むしろ、ぜひ誘ってほしい」
「まだ行き先は決めていないわよ?」
「君と一緒なら、行き先が決まっていなくても構わない」
「そういうことを、さらりと言わないでちょうだい……」
リヴィアは頬を染め、目をそらした。
ルシアンは笑ったが、それ以上からかうことはしなかった。
窓の外では、夜の帳が静かに学院を包み始めている。
誰かのために用意された未来ではなく、自分たちが選び取る未来。
その答えは、まだ見つかっていない。
けれど、明日もまた一歩を踏み出せる。
大切な人と、同じ方向を向いて歩くために。




