↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
157/178

休日の約束と、まだ知らない彼の一面

 エヴリンは、その日の朝から落ち着かなかった。


 机の上には、読みかけの本と、次回の学習活動に向けた資料が置かれている。


 いつもなら、朝食を終えればすぐに資料の確認を始めるところだった。


 けれど、今日は何度読んでも文章が頭に入ってこない。


「……もう、どうしてこんなに気になるのかしら」


 エヴリンは本を閉じ、両手で頬を押さえた。


 原因は、昨日の帰り道にあった。


 アルベルトから、休日に一緒に出かけないかと誘われたのだ。


 学習活動とは関係のない、二人だけの外出。


 思い出すたびに、胸の奥がそわそわする。


 何を着ていけばいいのだろう。


 どこへ行くのだろう。


 それよりも、どうして彼は自分を誘ってくれたのだろう。


 考え始めると、次々に疑問が浮かんできた。


「……駄目。これでは何も進まないわ」


 エヴリンは深呼吸をして、机の上の資料を片づけた。


 約束は明日だ。


 今日は、次回の活動に向けた準備を終わらせよう。


 そう決めたところで、扉が控えめに叩かれた。


「エヴリン、入ってもいい?」


 聞き慣れた声に、彼女は慌てて立ち上がった。


「クララさん? どうぞ!」


 扉を開けて入ってきたクララは、エヴリンの顔を見るなり、少し不思議そうに首を傾げた。


「何だか、今日はいつもと違うね」


「そ、そうですか?」


「うん。嬉しいことがあった人みたい」


 エヴリンは、思わず固まった。


「ど、どうしてそう思うんですか?」


「顔に書いてあるから」


「ええっ!?」


 クララは楽しそうに笑った。


「冗談よ。でも、何かあったのは本当みたいね」


 エヴリンはしばらく迷ったあと、小さな声で答えた。


「……明日、アルベルト様と出かけることになったんです」


「えっ?」


 今度はクララが目を丸くした。


「二人で?」


「は、はい。学習活動とは関係なく……」


「まあ!」


 クララは口元を押さえた。


「それは楽しみね!」


「そ、そんなに大きな声で言わないでください!」


「ごめんなさい。でも、よかったじゃない」


 クララは椅子に腰を下ろし、エヴリンを見つめた。


「エヴリンは、アルベルト様と一緒にいるとき、いつも楽しそうだもの」


「……そうでしょうか」


「ええ。活動の話をしているときもそうだけど、最近はアルベルト様のお話をするときのほうが、もっと嬉しそうに見えるわ」


 エヴリンは、顔が熱くなるのを感じた。


 自分では、そこまで分かりやすくしているつもりはなかった。


「私、まだ、自分の気持ちがよく分からなくて……」


「分からないなら、急いで答えを出さなくてもいいと思うわ」


 クララは穏やかに言った。


「明日は、ただ一緒に過ごしてみればいいんじゃない? アルベルト様がどんな人なのか、もっと知る機会になるでしょう?」


「……そうですね」


「それに、せっかくの休日なんだから、活動のことばかり考えないこと!」


 クララは、机の上の資料を指さした。


「今日は準備を早めに終わらせて、ゆっくり休みなさい。疲れた顔で出かけるより、楽しそうな顔で出かけたほうがいいでしょう?」


「う……。分かりました」


 エヴリンは苦笑しながら頷いた。


 明日は、活動のために何かを決める日ではない。


 自分自身が楽しむことも、きっと大切なのだ。


     ◇


 翌日の昼前。


 王立セイレーン学院の正門近くで、エヴリンはアルベルトを待っていた。


 今日は、普段の学院生活とは少し違う装いだった。


 淡いクリーム色のワンピースに、落ち着いた青緑色の上着。肩までの茶色い髪は柔らかく整えられ、小さな髪飾りが光を受けている。


 派手すぎず、それでいていつもより少しだけ華やかに。


 何度も鏡を確認して選んだ服だった。


「……変じゃないわよね?」


 エヴリンが上着の袖を整えた、そのとき。


「待たせてしまったかな?」


 顔を上げると、アルベルトが歩いてくるところだった。


 今日は、金糸の刺繍が入った礼装ではない。白いシャツに濃紺の上着という、落ち着いた装いだった。


 いつもの王太子らしい華やかさは控えめだが、整った顔立ちと穏やかな赤い瞳は変わらない。


「い、いえ! 私も今来たところです」


「そうか。よかった」


 アルベルトは彼女の姿を見て、微笑んだ。


「今日は、いつもと雰囲気が違うね。よく似合っているよ」


「……っ」


 エヴリンの頬が、一気に赤くなった。


「あ、ありがとうございます。アルベルト様も、その……素敵です」


「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな」


 彼は自然に笑った。


 エヴリンは、思わず視線を逸らした。


 たったそれだけの会話なのに、心臓が落ち着かない。


 これから一日、彼と一緒に過ごすのだ。


 そう思うだけで、何だか夢の中にいるような気分になった。


「では、行こうか」


「はい!」


 アルベルトは、彼女の歩調に合わせて歩き始めた。


     ◇


 最初に訪れたのは、王都の中心から少し離れた場所にある、小さな書店だった。


 大きな商店街から一本入った通りにあり、店先には古い本が並べられた木箱が置かれている。


「ここは、僕が昔から時々訪れている店なんだ」


 アルベルトが扉を開けると、紙と木の香りが混ざった、落ち着いた空気が二人を迎えた。


 棚には、歴史書や旅行記、詩集、魔法に関する入門書まで、さまざまな本が並んでいる。


「わあ……」


 エヴリンは、思わず声を漏らした。


「こんなところに書店があったんですね」


「学院の図書室ほど大きくはないけれど、面白い本が見つかることがあるよ」


 アルベルトは店主に軽く挨拶をしてから、奥の棚へ向かった。


 エヴリンも、興味深そうに本の背表紙を眺めていく。


 やがて、彼女の足が一つの棚の前で止まった。


「……これ、面白そう」


 手に取ったのは、各地の町や村を訪ね歩いた旅人が記した紀行文だった。


 表紙には、山あいの街道と小さな村の絵が描かれている。


「旅の記録が好きなの?」


 アルベルトが尋ねた。


「はい。知らない場所の暮らしや、その土地ならではの習慣を読むのが好きなんです。自分が行ったことのない場所でも、そこに住む人たちが何を大切にしているのか、少し分かる気がして」


 エヴリンは本を開いた。


「この本には、北の地方で、冬になる前に村人たちが食料を分け合う習慣があると書かれているんです。こういう話を読むと、同じ国の中でも、暮らし方がずいぶん違うんだなと思います」


「なるほど。君が学習活動に興味を持った理由にも、少しつながっているのかな」


「……そうかもしれません」


 エヴリンは本を胸元で抱えた。


「知らない暮らしを知ることが好きなんです。だから、子供たちの話を聞くのも、楽しいのかもしれません」


 アルベルトは、彼女の言葉を静かに聞いていた。


「君の好きなものが、少し分かった気がするよ」


「私も、アルベルト様の好きな本を知りたいです」


「それなら、こちらへ」


 彼は隣の棚へ彼女を案内した。


 そこには、王国の歴史や政治、古い法律に関する書物が並んでいた。


「やっぱり、こういう本がお好きなんですね」


「そうだね。王族として学ぶ必要があるから読み始めたものも多いけれど、今は興味そのものがある」


「どんなところが面白いんですか?」


 アルベルトは、少し考えてから答えた。


「過去の人々が、何を正しいと考え、どんな理由で判断したのかを知ることかな。同じ問題でも、時代や立場が違えば、選ぶ答えも変わる。歴史を読むと、自分が当然だと思っている考えを見直すきっかけになるんだ」


 エヴリンは、目を輝かせた。


「それは、学習活動にも似ていますね」


「そう?」


「はい。私たちがよいと思っている方法が、子供たちにとってもよいとは限りませんから。自分の考えだけを正しいと思わずに、相手の立場を知ることが大切なんだと思います」


 アルベルトは、嬉しそうに頷いた。


「やっぱり、君と話すと新しい視点が見つかるね」


「……私も、アルベルト様のお話を聞くのは楽しいです」


 二人は、しばらく本棚の前で話し込んだ。


 気づけば、予定していたよりも長い時間が過ぎていた。


     ◇


 書店を出たあと、アルベルトはエヴリンを川沿いの通りへ案内した。


 石造りの遊歩道の脇を、澄んだ水がゆっくりと流れている。


 小さな橋の上では、子供たちが水面を覗き込み、魚の影を探していた。


「ここも、よく来る場所なんですか?」


「うん。考え事をしたいときには、ここを歩くことが多いかな」


 アルベルトは、川の流れを見つめた。


「王宮の中にいると、どうしても多くの人の意見や期待に囲まれる。もちろん、それは必要なことだけれど、ときどき、自分が本当は何を考えているのか分からなくなることがあるんだ」


 エヴリンは、彼の横顔を見つめた。


 王太子である彼にも、そんな時間があるのだ。


「……アルベルト様も、迷うことがあるんですね」


「あるよ。むしろ、迷うことのほうが多いかもしれない」


 彼は苦笑した。


「判断を下したあとで、別の方法のほうがよかったのではないかと考えることもある。すべての人にとって最善の答えを見つけるのは、簡単ではないからね」


「……私も、同じです」


 エヴリンは、川の向こうに目を向けた。


「学習活動でも、子供たちにとって何が一番よいのか、考えれば考えるほど分からなくなることがあります。でも、分からないからといって、何もしないわけにはいかないんですよね」


「そうだね」


「だから、少しずつ確かめていきたいと思っています。子供たちの声を聞いて、協力してくださる方たちの意見も聞いて……。その中で、できることを見つけていきたいです」


 アルベルトは、彼女の言葉を聞いて微笑んだ。


「君なら、きっとできると思う」


「……ありがとうございます」


 エヴリンは嬉しかった。


 彼は、彼女の迷いを否定しない。


 迷っていることそのものを弱さだとは考えず、そこから何をするかを見てくれる。


 そのことが、彼女にとって大きな支えになっていた。


「アルベルト様」


「何かな?」


「今日は、誘ってくださってありがとうございます」


 彼女は少しだけ勇気を出して、彼の顔を見た。


「学習活動のことだけじゃなくて、アルベルト様が普段どんなことを考えていらっしゃるのか、少し知ることができました」


「僕も、君のことをもっと知ることができたよ」


 アルベルトは、柔らかく微笑んだ。


「また、こうして出かけてもいいかな?」


 エヴリンの胸が、どきりと跳ねた。


「……はい。私も、またご一緒したいです」


 答えたあと、彼女は恥ずかしくなって視線を落とした。


 けれど、今度は言葉を取り消さなかった。


 自分がどうしたいのか。


 その気持ちを、少しずつでも伝えていきたいと思ったからだ。


     ◇


 夕方、二人は学院へ戻る道を歩いていた。


 西の空が淡い橙色に染まり、街並みには長い影が伸びている。


「今日は、楽しかったです」


 エヴリンが言った。


「僕もだよ」


 アルベルトは、少しだけ歩調を緩めた。


「君が好きなものを知ることができたし、僕自身のことも、いつもより話せた気がする」


「私、アルベルト様は何でも一人で考えて、すぐに答えを出せる方だと思っていました」


「それは、ずいぶん立派な人物だね」


「……すみません」


「いや、謝らなくていいよ。僕も、そう見られることには慣れているから」


 彼は前を向いたまま続けた。


「でも、誰かと話すことで、自分の考えが整理されることもある。今日、君と話していて、改めてそう思ったんだ」


 エヴリンは、そっと彼を見上げた。


「……私との会話が、役に立ったんですか?」


「もちろん」


 アルベルトは、迷いなく答えた。


「君と過ごす時間は、僕にとっても大切な時間だよ」


 エヴリンは足を止めそうになった。


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


 嬉しい。


 ただ、その一言だけでは足りないくらい、嬉しかった。


「……私も、です」


 小さな声だった。


 けれど、アルベルトには届いた。


 彼は彼女を見て、優しく微笑んだ。


 それ以上、何かを求めることはしなかった。


 二人は、そのまま並んで歩き続けた。


 やがて、学院の正門が見えてきた。


「今日は、ありがとうございました。とても楽しかったです」


 エヴリンは、少し名残惜しそうに言った。


「こちらこそ。また誘ってもいいかな?」


「……はい。ぜひ」


 アルベルトは満足そうに頷いた。


「では、また明日。次の活動の準備も、無理をしすぎないようにね」


「はい。アルベルト様も、お仕事を頑張ってください」


 二人は別れ、それぞれの帰路についた。


 エヴリンは、寮へ向かう道を歩きながら、今日一日のことを思い返していた。


 書店での会話。


 川沿いで聞いた、アルベルトの本音。


 そして、また一緒に出かけようと言ってくれたこと。


 彼と一緒にいる時間は、思っていた以上に心地よかった。


 自分の知らない世界を教えてくれる。


 自分の考えを聞いてくれる。


 そして、自分もまた、彼の知らない一面を知っていくことができる。


 それは、ただ憧れるだけでは得られない感覚だった。


「……私、アルベルト様のことを、もっと知りたいんだわ」


 呟いたあと、エヴリンは立ち止まった。


 自分の言葉を、もう一度心の中で繰り返す。


 もっと知りたい。


 もっと話したい。


 また一緒に出かけたい。


 その願いは、もう、はっきりと自分の中にあった。


 けれど、それが恋なのかどうかは、まだ分からない。


 無理に答えを出す必要はない。


 今日一日を通して、エヴリンはそう思えるようになっていた。


 自分の気持ちを知ることも、きっと一歩ずつでいいのだ。


 彼女は、夕暮れの空を見上げた。


 明日になれば、また学習活動の準備が始まる。


 子供たちのために、考えなければならないこともたくさんある。


 それでも、今日の思い出は、彼女の胸の中に残り続けるだろう。


 そしていつか、自分の気持ちに名前をつけられる日が来たとき。


 今日という一日が、その答えにつながる大切な記憶になっているのかもしれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。