↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
156/178

初めての約束、二人だけの帰り道

 王都西部での最初の学習活動から、数日が過ぎた。


 学院の図書室では、エヴリンが次回の活動に向けた資料を整理していた。


 参加を希望する学生の予定を確認し、担当できる時間帯を調整する。子供たちが学びたい内容についても、前回の記録を参考にしながら、教材の準備を進めていた。


 机の上には、読み書き用のカードと算術の練習問題が並んでいる。


「……これなら、前よりも分かりやすいかな」


 エヴリンは、完成したばかりのカードを手に取った。


 前回、トムが興味を示したパンの絵を参考に、今度は果物や野菜、身近な道具の絵も加えている。


 ただ文字を覚えるだけではなく、子供たちが普段目にしているものと結びつけられるようにしたかった。


「ずいぶん熱心だね」


 聞き慣れた声に、エヴリンは顔を上げた。


 アルベルトが、資料を片手にこちらへ歩いてくる。


「アルベルト様。お疲れさまです」


「君もね。ずっとここで作業していたの?」


「少しだけです。次の活動までに、準備しておきたいことが多くて」


「少しだけ、か」


 アルベルトは机の上に目を向けた。


 カードは種類ごとに分けられ、練習問題には細かな修正が加えられている。端には、子供たちが間違えやすかった箇所をまとめた記録もあった。


「これを一人で全部?」


「いいえ。クララさんたちにも手伝ってもらっています。ただ、今日は皆さんの授業があるので、私ができるところを進めておこうと思ったんです」


「なるほど」


 アルベルトは納得したように頷いたあと、彼女の向かい側に椅子を引いた。


「では、僕にも手伝わせてくれるかな」


「えっ? アルベルト様がですか?」


「僕では役に立たない?」


「そ、そんなことありません! でも、王太子殿下に教材を作っていただくなんて……」


「教材を作るのに、王太子かどうかは関係ないだろう?」


 彼はごく自然にカードを手に取った。


「それに、子供たちに何を教えるかを考えるのは、僕にとっても勉強になる。遠慮せず、仕事を分けてくれればいいよ」


 エヴリンは少し迷ったあと、算術用のカードを差し出した。


「では、こちらをお願いしてもいいでしょうか。数字と木片の数が合っているか、確認していただきたいんです」


「分かった」


 アルベルトはカードを並べ、数字と絵を一枚ずつ照らし合わせ始めた。


 エヴリンも隣で文字カードを整理する。


 静かな図書室に、紙をめくる音と、ペンが走る音が響いた。


 不思議なほど、心地よい時間だった。


     ◇


「……あれ?」


 しばらくして、エヴリンが一枚のカードを持ち上げた。


 そこには、四つの木片の絵と、数字の五が描かれている。


「すみません。これ、間違っていました」


「本当だね」


 アルベルトはカードを受け取り、しばらく眺めた。


「僕も見落としていた。危うく、そのまま使うところだったね」


「申し訳ありません。確認が足りなくて……」


「どうして君が謝るのかな?」


 彼は不思議そうに尋ねた。


「間違いが見つかったのなら、直せばいい。それだけだろう?」


 エヴリンは、口を閉じた。


 以前の自分なら、きっと落ち込んでいただろう。


 せっかく準備したのに、間違いがあった。


 そんな自分を、責任者として不十分だと感じていたかもしれない。


 けれど、アルベルトは責めるどころか、自分も見落としていたと認めた。


「……そうですね。直せばいいんですよね」


「そういうこと」


 アルベルトは、数字の部分を正しく修正した。


「次の活動では、子供たちがこのカードを使って、どんな反応をするのか楽しみだね」


「はい。私も楽しみです」


 エヴリンは微笑んだ。


 そのまま作業を続けようとして、ふと、隣のアルベルトに目を向けた。


 金色の髪が、窓から差し込む光に照らされている。彼は真剣な表情でカードを確認し、ときどき考え込むようにペンを止めていた。


 王太子としての彼を、エヴリンは以前から知っていた。


 会議で意見を述べる姿。周囲の人々の話を聞き、必要な判断を下す姿。


 けれど、こうして隣に座り、一緒に小さな作業をする姿を見るのは、少し違う。


 身分を意識するよりも、一緒に何かを作り上げているという気持ちのほうが強かった。


「……どうかした?」


 視線に気づいたアルベルトが、顔を上げた。


「い、いえ! 何でもありません!」


「そう?」


「はい!」


 エヴリンは慌ててカードに視線を戻した。


 頬が熱い。


 どうして自分は、こんなことで動揺してしまうのだろう。


 ただ一緒に作業をしているだけなのに。


 それなのに、彼が隣にいることが、いつもよりずっと嬉しく感じられた。


     ◇


 作業が終わった頃には、図書室の窓から差し込む光が夕暮れの色に変わっていた。


「今日は、ありがとうございました」


 エヴリンは完成したカードを箱に収めながら、アルベルトに頭を下げた。


「こちらこそ。思っていた以上に勉強になったよ」


「そうなんですか?」


「ああ。子供たちが何を知っていて、何を知らないのか。それを考えるには、こちらが当たり前だと思っていることを、一度見直さなければならないんだね」


 アルベルトは、机の上に残った一枚のカードを手に取った。


 そこには、小さなリンゴの絵が描かれている。


「これ一つでも、絵を見て分かる子もいれば、文字と結びつけるまで時間がかかる子もいる。教える側が、同じ説明をすれば全員に伝わると思い込んではいけないんだろう」


「はい。私も、前回の活動で気づきました」


 エヴリンは、嬉しそうに頷いた。


「最初は、用意した教材を使って、予定どおりに教えることが大切だと思っていました。でも、実際には、子供たちの反応を見ながら変えていく必要があるんですね」


「君は、そのことをよく考えている」


「まだ、分からないことばかりですけど……」


「それでも、君は考えることをやめないだろう?」


 アルベルトの言葉に、エヴリンは少しだけ目を見開いた。


 彼は、彼女の努力を見てくれている。


 完璧にできたことだけではなく、迷いながら考え続けていることも。


「……はい。これからも、頑張りたいです」


「うん。僕も協力するよ」


 アルベルトは、完成したカードの箱を持ち上げた。


「これは、活動場所まで運べばいいのかな?」


「はい。でも、私が持ちます!」


「一緒に運べば早いだろう?」


 彼はそう言って、箱を持ったまま歩き出した。


 エヴリンは慌てて残りの荷物を抱え、その後を追いかけた。


 廊下を歩きながら、彼女は小さく笑った。


 王太子と一緒に教材を運ぶことになるなんて、少し前の自分なら想像もしなかっただろう。


 けれど、今はそれが当たり前のように感じられる。


 不思議だった。


 そして、その変化が嬉しかった。


     ◇


 学院の正門を出ると、夕暮れの街並みが広がっていた。


 アルベルトは、荷物を学院の手配した馬車に預けると、エヴリンに向き直った。


「ここから先は、どうする予定?」


「私は、このまま寮へ戻ろうと思っています」


「そうか。では、途中まで一緒に歩かないか?」


「えっ?」


 思いがけない誘いに、エヴリンは瞬きをした。


「今日はもう、急いで戻る必要もないだろう? 少し歩いてから帰ってもいいと思うけれど」


「……はい。ぜひ」


 返事をしたあと、エヴリンは自分の声が少し弾んでいたことに気づいた。


 アルベルトは気づいていないのか、穏やかな表情で歩き始めた。


 二人は、学院の外壁に沿った石畳の道を並んで進んだ。


 街路樹の葉が風に揺れ、通りには帰宅する人々の姿が見える。露店では、焼き菓子を片づける店主が忙しそうに動いていた。


「この時間の街は、昼間とは少し違いますね」


 エヴリンが言った。


「そうだね。授業や仕事が終わって、家に帰る人が増えるからかな」


「私、学院と王宮の往復ばかりで、こうしてゆっくり街を歩くことは、あまりなかったんです」


「では、今日はいい機会になったね」


 アルベルトは、通りの向こうに目を向けた。


「そういえば、君は休日には何をして過ごしているの?」


「休日ですか?」


「ああ。活動の準備をしている日が多いようだけど、ほかに好きなことはないのかなと思って」


 エヴリンは、すぐには答えられなかった。


 休日に何をしているか。


 以前なら、学院の課題を片づけたり、友人と話したりしていた。


 最近は、学習活動の準備に時間を使うことが多くなっている。


「……本を読むことは好きです。あとは、庭園を散歩したり、お菓子を作ったり」


「お菓子作り?」


「はい。といっても、簡単なものばかりですけど。クッキーや、小さな焼き菓子を作るのが好きなんです」


「それは初めて聞いたな」


「そうでしたか?」


「うん。君は活動の話をしているとき、とても楽しそうだから。ほかのことを話す機会が、あまりなかったのかもしれないね」


 エヴリンは、少し照れくさそうに笑った。


「……確かに、そうかもしれません」


「今度、よかったら聞かせてほしいな。君が好きな本のことも、お菓子のことも」


 その言葉に、エヴリンの胸が跳ねた。


「私の好きなもの、ですか?」


「そう。君が何を好きなのか、もっと知りたいから」


 アルベルトは、ごく自然に言った。


 エヴリンは、思わず足を止めそうになった。


 彼が自分のことを知りたいと思ってくれている。


 その事実が、胸の奥にじんわりと広がっていく。


「……私も、アルベルト様の好きなものを知りたいです」


 ようやく、そう答えた。


 アルベルトは少し驚いたように彼女を見たあと、嬉しそうに笑った。


「それなら、お互いに教え合おうか」


「はい」


 二人は再び歩き始めた。


 今までの会話は、ほとんどが学習活動についてだった。


 もちろん、その時間もエヴリンにとって大切なものだった。


 けれど、こうして自分の好きなことや、何気ない日常について話すのも、思っていた以上に楽しい。


 王太子と協力者。


 そんな関係だけではなく、もっと自然に、お互いのことを知っていけたら。


 エヴリンは、そんなことを考え始めていた。


     ◇


 寮へ続く道の分かれ角に着いたとき、二人は足を止めた。


「今日は、ありがとうございました。教材のことも、帰り道のことも」


 エヴリンは、少し名残惜しさを感じながら頭を下げた。


「こちらこそ。楽しかったよ」


 アルベルトは、彼女を見つめた。


「エヴリン。もしよかったら、今度の休日に一緒に出かけないか?」


「……え?」


 エヴリンの思考が、一瞬止まった。


「もちろん、活動とは関係なく。君の好きなものを教えてもらうのもいいし、僕の好きな場所を案内するのもいい」


 彼は、急かすことなく言葉を続けた。


「都合が悪ければ、無理にとは言わないよ」


 エヴリンは、すぐには返事ができなかった。


 活動のために会うのではない。


 計画を進めるためでも、資料を確認するためでもない。


 ただ、一緒に過ごすために。


 そう考えた途端、頬が熱くなった。


 胸の奥で、今までとは少し違う感情が揺れている。


 自分は、彼と一緒にいる時間が好きだ。


 もっと話したいと思う。


 彼が自分の意見を聞いてくれることが嬉しい。


 そして今、活動とは関係のない時間も一緒に過ごしたいと思ってくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。


「……はい」


 エヴリンは、そっと顔を上げた。


「ぜひ、ご一緒させてください」


 アルベルトの表情が、ぱっと明るくなった。


「よかった。では、詳しいことは改めて相談しよう」


「はい」


「それでは、また明日」


「また明日、アルベルト様」


 彼が去っていく姿を見送りながら、エヴリンは胸元に手を当てた。


 心臓が、いつもより速く鼓動している。


 今度の休日。


 活動とは関係のない時間。


 二人で出かける約束。


 その一つ一つを思い浮かべるだけで、顔が熱くなった。


「……どうしよう」


 小さく呟いた声は、夕暮れの風に消えていった。


 まだ、自分の気持ちに名前をつけることはできない。


 けれど、アルベルトと一緒に過ごす時間を、もっと増やしたいと思っている。


 それだけは、少しずつ分かり始めていた。


 エヴリンは、寮へ向かって歩き出した。


 その足取りは、いつもより軽かった。


     ◇


 同じ頃、王宮の庭園では、リヴィアがルシアンと向かい合っていた。


 小さなテーブルには、紅茶と焼き菓子が用意されている。


「エヴリンから聞いたんだけど、最近は学習活動がずいぶん忙しいみたいだね」


 ルシアンが紅茶を口に運びながら言った。


「ええ。でも、少しずつ形になっているようです。最初の活動で見つかった問題も、みんなで考えながら改善しているそうですよ」


「それはよかった」


 彼はカップを置き、リヴィアを見た。


「君も、彼女の成長を嬉しく思っているんだね」


「もちろんです。エヴリンは、自分が何をしたいのか、少しずつ見つけているように感じますから」


 リヴィアは微笑んだ。


「以前は、自分に何ができるのか分からないと悩んでいました。でも今は、分からないことがあっても、まずはやってみようと思えるようになったみたいです」


「君がそばで支えてきたからかな」


「私だけではありません。アルベルト様も、エヴリンを信頼してくださっていますから」


 ルシアンは、意味ありげに目を細めた。


「なるほど。アルベルトも、ずいぶん熱心らしいね」


「……ルシアン?」


「いや、何でもないよ」


 彼は、何食わぬ顔で焼き菓子を手に取った。


 リヴィアは、少しだけ眉を寄せた。


「何か知っているんですか?」


「さて、どうだろう」


「もう……」


 リヴィアが呆れたように息をつくと、ルシアンは楽しそうに笑った。


 けれど、すぐに表情を和らげた。


「誰かのために頑張ることは、素敵なことだと思う。でも、その人自身が何を望んでいるのかも、大切にしてほしいね」


 リヴィアは、静かに頷いた。


「そうですね。エヴリンには、自分の気持ちも大切にしてほしいと思います」


 そして、ふと考えた。


 自分自身はどうだろう。


 ルシアンと過ごす時間を、これまで以上に大切にしたいと思っている。


 彼と一緒に、もっと多くの景色を見たい。


 知らなかった一面を知りたい。


 そうした願いを、少しずつ言葉にできるようになってきた。


「……ルシアン」


「何かな?」


「今度、また二人で出かけませんか?」


 ルシアンは、少し驚いたように目を見開いた。


「もちろん。君から誘ってくれるなんて、嬉しいな」


「そ、そんなに驚かなくても……!」


「驚くよ。以前の君なら、僕から誘うのを待っていたかもしれないからね」


 リヴィアは頬を赤くした。


 確かに、そうだったかもしれない。


 自分から何かを望むことに、まだ慣れていないのだ。


 けれど、今は違う。


 答えを急ぐ必要はない。


 それでも、自分が望んでいることなら、少しずつ伝えていきたい。


「……私だって、一緒に過ごしたいと思っているんです」


 小さな声だった。


 けれど、ルシアンには十分に届いた。


「うん。ありがとう、リヴィア」


 彼は、そっと手を差し出した。


 リヴィアは、その手を取った。


 夕暮れの庭園に、二人の笑い声が柔らかく響く。


 未来は、まだ決まっていない。


 けれど、誰かと一緒に過ごしたいと思うことも、その気持ちを伝えることも、今の自分にできる大切な選択なのだ。


 エヴリンが新しい約束を交わしたように。


 リヴィアもまた、自分自身の願いを、少しずつ言葉にし始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。