それぞれの願い、同じ教室
翌日の放課後、エヴリンは王立セイレーン学院の小会議室に集まった学生たちを前に、二枚の紙を並べていた。
一枚には、次回の学習活動の予定。
もう一枚には、初回の活動で見つかった課題がまとめられている。
「次回は、二つの時間帯に分けて活動を行いたいと思っています」
エヴリンは緊張を押し隠しながら説明した。
「最初の時間は、少人数で文字や計算を練習します。そのあと、もう少し大勢の子供たちが参加できる時間を設けます。ただし、教師の方と相談した結果、学生の人数が足りない場合は、二つ目の時間帯を短縮することになりました」
前列に座っていたクララが頷いた。
「弟のように、最初から大勢の人がいる場所では緊張してしまう子もいるから、その方法はいいと思う」
「ありがとうございます。もちろん、最初の時間帯に参加することを無理に勧めるわけではありません。子供たち自身が、どちらの時間に来たいかを選べるようにしたいんです」
学生たちは資料に目を落とし、それぞれの予定を確認し始めた。
ところが、後方に座っていた男子学生が、少し困ったように手を挙げた。
「一つ、質問してもいいかな?」
「はい。どうぞ」
「時間帯を分けるのはいいと思う。でも、僕たちも授業や課題がある。参加できる学生が少ない日に、無理に二つに分けたら、どちらの時間も十分に対応できなくなるんじゃないかな」
エヴリンは、すぐには答えなかった。
彼の指摘はもっともだった。
子供たちの事情に合わせたいという思いが強くなり、学生たちの負担について十分に考えられていなかったのかもしれない。
「……そうですね。そこは、もう一度確認する必要があります」
「それに、活動の日を増やすなら、毎回参加できる人ばかりではないことも考えないといけない」
別の学生も続けた。
「せっかく始めたのに、担当する人が毎回変わってしまったら、子供たちも戸惑うんじゃないかな」
エヴリンは手元の資料を見つめた。
初回の活動で、子供たちの笑顔を見た。
だからこそ、次はもっとよい場所にしたいと思った。
けれど、改善したいことを増やせば、それだけ多くの人の協力が必要になる。
彼女はペンを置き、顔を上げた。
「ありがとうございます。では、活動を二つの時間帯に分けることを、最初から決定事項にするのはやめましょう」
学生たちが顔を上げた。
「まず、参加できる学生の人数を確認します。そのうえで、無理なく対応できる日にだけ、少人数の時間帯を設けることにします。参加する子供たちにも、事前に希望を聞きたいと思います」
「それなら、予定を立てやすいね」
「はい。それと、できるだけ同じ学生が同じ子供を担当できるように、希望も確認したいです。ただし、誰か一人に負担が集中しないように調整します」
エヴリンは、新しい案を紙に書き加えた。
以前なら、反対意見を受けるたびに、自分の計画が間違っているのではないかと不安になっていただろう。
けれど今は、意見が違うからといって、どちらかが必ず間違っているわけではないと分かり始めていた。
大切なのは、何を実現したいのかを忘れず、よりよい方法を探すこと。
「……皆さん、これからも気づいたことがあれば、遠慮なく教えてください。私一人では見落としてしまうことが、きっとたくさんありますから」
その言葉に、クララが微笑んだ。
「うん。私たちも一緒に考えるよ」
会議室に、柔らかな空気が広がった。
◇
会議が終わったあと、エヴリンは資料を抱えて廊下を歩いていた。
次の授業へ向かう学生たちの声が、遠くから聞こえてくる。
彼女は歩きながら、今日の話し合いを振り返っていた。
活動を続けるには、子供たちだけでなく、協力する学生たちの事情も考えなければならない。
誰かを助けたいという気持ちだけでは、長く続けることは難しい。
そのことを、改めて実感していた。
「エヴリン嬢」
呼び止められて振り返ると、アルベルトが立っていた。
金色の髪に、落ち着いた赤い瞳。
いつもの王族らしい整った装いだったが、表情には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「アルベルト様。どうしてこちらに?」
「君たちの話し合いが終わる頃だと思ってね。少し様子を聞きたかったんだ」
「そうだったんですね」
「何か問題があった?」
エヴリンは一瞬だけ迷ったあと、正直に答えた。
「はい。時間帯を増やす案について、学生たちから心配する意見が出ました。私、子供たちが参加しやすい方法ばかり考えていて、協力してくださる方々の負担について、十分に考えられていなかったみたいです」
「それで、どうしたの?」
「すぐに決めるのではなく、参加できる人数を確認してから判断することにしました。無理なく続けられることを優先したいと思います」
アルベルトは満足そうに頷いた。
「いい判断だと思うよ」
「……本当ですか?」
「うん。君が目指しているのは、一日だけ立派な活動をすることではないだろう?」
「はい。できるだけ長く続けられる場所にしたいです」
「なら、無理をしない仕組みを作ることも、子供たちのためになるはずだ」
エヴリンは、胸の奥が軽くなるのを感じた。
自分の案を変更したことで、少しだけ悔しさもあった。
もっとよい方法を考えたかった。
けれど、計画を変えることは、失敗を認めることとは違う。
目指すものを守るために、方法を変えることも必要なのだ。
「ありがとうございます。アルベルト様にそう言っていただけると、安心します」
「それは光栄だね」
彼は楽しそうに微笑んだ。
「でも、次は僕に相談する前に、自分の判断を信じてみてもいいと思うよ」
エヴリンは目を瞬かせた。
「……私の判断を、ですか?」
「君は今日、自分で問題に気づいて、学生たちの意見を聞き、計画を修正した。僕が何かを言う前に、必要なことをきちんとできていたじゃないか」
彼の言葉が、ゆっくりと胸に染み込んでいく。
エヴリンは、無意識に資料を抱える腕に力を込めた。
「私、まだ自信がなくて……」
「自信がついてから行動するのではなく、行動した経験が少しずつ自信になることもあるよ」
アルベルトは、彼女の目を見て言った。
「少なくとも、僕は君が考えている以上に、君を信頼している」
エヴリンの頬が赤くなった。
彼は、いつもこんなふうに、彼女が自分で気づいていない努力を見つけてくれる。
それが嬉しい。
そして最近は、その言葉を聞くたびに、胸が少しだけ落ち着かなくなる。
「……ありがとうございます」
エヴリンは、視線を落としながら微笑んだ。
「私も、もう少し自分を信じられるように頑張ります」
「期待しているよ」
アルベルトはそう言って、彼女が抱えていた資料の一部を受け取った。
「それでは、図書室まで一緒に行こう。次の活動について、僕にも確認したいことがあるから」
「はい」
二人は並んで歩き始めた。
廊下の窓から差し込む光が、石造りの床に長い影を落としている。
エヴリンは、隣を歩くアルベルトをそっと見上げた。
彼と一緒にいると、自分の足りないところに気づく。
けれど、それを理由に自分を否定しなくてもいいのだと思える。
いつか彼の隣で、もっと堂々と自分の考えを伝えられるようになりたい。
そんな願いが、少しずつ形になり始めていた。
◇
その日の夕方、リヴィアは学院の中庭でエヴリンと待ち合わせていた。
ベンチのそばには、秋の花が咲いている。
エヴリンはリヴィアを見つけると、いつものように明るい笑顔を浮かべた。
「リヴィア様、お待たせしました!」
「いいえ。今来たところよ」
二人は並んでベンチに腰を下ろした。
エヴリンは、今日の会議で決めたことを話した。
活動時間の見直し。学生たちの負担。子供たちが参加できる方法。
リヴィアは、ときどき質問を挟みながら、最後まで丁寧に耳を傾けた。
「なるほど。順調に進んでいるようね」
「でも、計画を変更することになったんです。最初は、子供たちが参加しやすくなるなら、活動の時間を増やせばいいと思っていました。でも、それだけでは続けられないかもしれないって……」
「それに気づけたのなら、変更した意味は十分にあると思うわ」
リヴィアは微笑んだ。
「エヴリンは、子供たちのために何ができるかを考えている。でも、そのために協力してくれる人たちも大切にしようとしているのでしょう?」
「はい」
「なら、少しずつ答えを見つけていけばいいのよ。最初から、すべてを正しく判断できる人なんていないもの」
エヴリンは、安心したように息を吐いた。
「……リヴィア様と話していると、気持ちが整理できます」
「私も、エヴリンの話を聞くと、いろいろ考えさせられるわ」
「本当ですか?」
「ええ。あなたが、自分で考えて行動している姿を見ていると、私も自分の未来について、もっと真剣に向き合いたいと思うの」
エヴリンは、リヴィアの横顔を見つめた。
「ルシアン様とのことですか?」
「……そうね」
リヴィアは、少しだけ頬を赤くした。
「まだ、結婚について答えを出せたわけではないの。でも、答えが出ないからといって、何も決めずにいる必要はないのだと思えるようになったわ」
「何も決めずにいる必要はない……」
「ええ。今の自分が何を望んでいるのか。それを確かめながら、一つずつ選んでいけばいいのよね」
エヴリンは、ゆっくりと頷いた。
「私も、そう思います」
二人はしばらく、庭園を吹き抜ける風の音を聞いていた。
やがて、エヴリンが小さな声で言った。
「……私、最近、アルベルト様と一緒にいる時間が楽しみなんです」
リヴィアは、すぐには答えなかった。
ただ、エヴリンの頬がほんのり赤くなっていることに気づき、優しく微笑んだ。
「そうなのね」
「はい。でも、まだ、どういう気持ちなのかは分からなくて……」
「分からないなら、今は分からないままでもいいんじゃないかしら」
エヴリンは顔を上げた。
「無理に名前をつけなくても、今感じていることを大切にすればいいと思うわ。アルベルト様と話していて楽しい。もっと一緒に考えたい。そう思う自分を、否定しなくてもいいのよ」
エヴリンは、胸元に手を添えた。
そこには、まだ言葉にできない感情がある。
けれど、それを急いで答えに変える必要はないのかもしれない。
「……ありがとうございます、リヴィア様」
「どういたしまして」
リヴィアは、そっと彼女の手を握った。
「お互い、自分の気持ちを大切にしていきましょうね」
エヴリンは笑顔で頷いた。
◇
夜、王宮の執務室。
アルベルトは、一日の報告書を確認しながら、ふと手を止めた。
机の端には、エヴリンがまとめた新しい活動案が置かれている。
そこには、学生の参加人数を確認してから日程を決めること、子供たちの希望を聞くこと、そして活動の記録を継続的に残すことが記されていた。
彼は、その一つ一つに目を通した。
最初に会った頃のエヴリンは、誰かの役に立ちたいと思いながらも、自分に何ができるのか分からずにいた。
今も迷うことはある。
けれど、彼女はもう、迷いを理由に立ち止まるだけではない。
人の話を聞き、考え、必要ならば自分の案を変える。
そして、自分が大切にしたいものを、きちんと言葉にしようとしている。
アルベルトは、報告書を閉じた。
「……本当に、変わったな」
呟いた声は、静かな部屋に消えていった。
彼女の成長を見守ることが、いつからこんなにも嬉しくなったのだろう。
彼女が自分の意見を伝えると、もっと聞きたいと思う。
彼女が笑うと、ほっとする。
そして、別れたあとには、次に会うときのことを考えている。
アルベルトは、自分の胸に浮かんだ感情を、しばらく見つめるように考えた。
けれど、まだ答えを出すことはしなかった。
今は、彼女が進めようとしている活動を支えたい。
彼女が自分の力で歩けるようになったとき、その隣で、同じ景色を見ていたい。
その願いが何を意味するのか。
彼は、少しずつ考え始めていた。
机の上の灯りが、書類を柔らかく照らしている。
子供たちのための小さな教室は、まだ完成したわけではない。
けれど、その場所を支えようとする人々の間には、確かな信頼が育ち始めていた。
そして、その信頼は、いつか彼ら自身の未来を選ぶための力にもなるのかもしれなかった。




