笑顔の裏にある、小さな問題
初めての学習活動から三日後。
王立セイレーン学院の一室では、エヴリンを中心に、活動の振り返りが行われていた。
机の上には、子供たちの反応を記録した帳面と、学生たちがまとめた報告書が並んでいる。
「トムくんは、絵のある文字カードに興味を示してくれました。クララさんの弟さんにも、同じ方法を試してみたいそうです」
「算術のほうも、木片を使うと理解しやすかったという報告が多いね」
アルベルトが資料をめくりながら言った。
彼の隣では、エヴリンが報告書に目を通している。
初日の活動は、まずまずの成果を上げた。
子供たちは楽しそうに学び、参加した学生たちも、次回の活動に向けて意欲を見せている。
けれど、報告書には、喜ばしいことばかりが書かれているわけではなかった。
「……次の活動に来られない子がいるんですね」
エヴリンの指が、一つの記述で止まった。
家の仕事が忙しくなったため、次回は参加できないかもしれないという子供がいた。
別の子供は、弟妹の世話を任されているため、保護者の許可がなければ外出できないという。
さらに、活動場所までの道のりが遠く、帰りが遅くなることを心配する家庭もあった。
「せっかく来てくれたのに……」
エヴリンは、帳面を握りしめた。
文字を一つ覚えたときのトムの笑顔が、脳裏に浮かぶ。
また来たいと言ってくれた子供たち。
次はもっと難しい計算に挑戦したいと話していた少年。
彼らが参加できないのは、勉強に興味がなくなったからではない。
学びたい気持ちがあっても、それだけではどうにもならない事情があるのだ。
「エヴリン」
アルベルトの声に、彼女は顔を上げた。
「今回の記録は、失敗の報告ではないよ」
「……はい」
「むしろ、実際に活動したからこそ分かったことだ。計画を立てているだけでは、こうした問題に気づけなかったかもしれない」
エヴリンは、もう一度報告書を見つめた。
彼の言うとおりだった。
最初の活動を始める前、彼女は子供たちが学べる場所を作ることばかり考えていた。
けれど、場所を用意しただけでは、すべての子供たちが通えるようになるわけではない。
「……私、もう少し考えなければいけませんね」
「そうだね。ただし、君一人で解決しようとしないこと」
アルベルトは、彼女の手元から報告書を一枚取った。
「まずは、参加できなかった子供たちの事情を整理しよう。どんな理由で来られなかったのか。それを確認してから、対応を考えればいい」
「はい。ありがとうございます」
エヴリンは頷いた。
今度は、ため息をつかなかった。
問題が見つかったなら、確かめて、考える。
それは、彼女がこの活動を通して学び始めたことだった。
◇
午後、エヴリンはクララと数人の学生を連れ、王都西部の地域責任者を訪ねた。
目的は、子供たちが活動に参加できない理由を、もう少し詳しく知ることだった。
ただし、本人や家族が話したくないことまで聞き出すつもりはない。
あくまで、学習の機会を作るうえで、どのような障害があるのかを確かめるためだ。
「なるほど。家の手伝いがある子は、日によって空いている時間が違うのですね」
エヴリンは、地域責任者の説明を帳面に書き留めた。
「はい。仕事の量が一定ではない家庭もありますから。朝から忙しい日もあれば、午後になってから手伝いが必要になる日もあります」
「では、毎週同じ曜日に来てもらう方法では、難しい場合もあるんですね」
「そうですね。もちろん、定期的に通える子もいますが、全員がそうとは限りません」
エヴリンは考え込んだ。
これまでは、決まった曜日に学習活動を開くことを前提にしていた。
けれど、それでは参加できる子供と、そうでない子供が分かれてしまう。
「例えば、活動日を増やす代わりに、一回の時間を短くすることはできないでしょうか?」
クララが口を開いた。
「学生が交代で担当すれば、同じ日に長時間集まる必要はなくなると思います。もちろん、先生に指導方法を確認していただく必要はありますけど」
「それなら、参加できる時間が違う子供たちにも、少しは対応できるかもしれませんね」
エヴリンは、すぐに帳面へ書き込んだ。
地域責任者は、少し考えてから答えた。
「一つ、お願いしてもいいでしょうか」
「はい。何でしょう?」
「活動の日を増やすなら、地域の人たちにも、どんな活動なのか知ってもらいたいのです。子供たちがどこへ行くのか分からなければ、心配する保護者もいるでしょう」
エヴリンは、はっと顔を上げた。
子供たちにとって、家族は大切な存在だ。
保護者が活動の内容を知らず、不安を感じているのなら、子供たちが自由に通えるようになるとは限らない。
「そうですね……。では、最初に活動の内容を説明する機会を設けるのはどうでしょうか。子供たちに何を教えるのか、どんな人が担当するのか。保護者の方にも知っていただけるように」
「それは助かります」
地域責任者は安堵したように微笑んだ。
「ただし、参加を無理に勧めることはしません。説明を聞いたうえで、参加するかどうかを決めてもらえればと思います」
「分かりました。そういう形なら、こちらも協力できます」
エヴリンは深く頷いた。
少しずつではあるが、次にすべきことが見えてきた。
活動の日程を見直すこと。
保護者に説明する機会を設けること。
そして、参加できない子供たちの事情を、本人たちの意思を尊重しながら確かめること。
最初に思い描いていた計画とは、少しずつ形が変わっていく。
けれど、それは悪いことではなかった。
◇
帰り道、エヴリンは学院へ戻る馬車の中で、窓の外を眺めていた。
隣にはアルベルトが座っている。
彼は地域責任者との話し合いには同行していたものの、基本的にはエヴリンとクララに任せていた。
彼女が自分の言葉で問いかけ、相手の話を聞き、解決策を探す姿を見守っていたのだ。
「今日は、どうだった?」
アルベルトが尋ねた。
「……考えることが、また増えました」
「そうだね」
「でも、何をすればいいのか、少し分かってきた気がします。今までは、子供たちが来られないなら、どうすれば来られるようになるのかばかり考えていました。でも、来られない理由は一つではないんですね」
「うん」
「だから、全員に同じ方法を当てはめるのではなく、それぞれの事情に合わせて考える必要があるんだと思います」
アルベルトは、満足そうに頷いた。
「君がそう考えられるようになったのは、実際に子供たちと会ったからだろうね」
「はい。あの子たちの顔を思い出すと、簡単に諦めたくないと思うんです」
言い終えてから、エヴリンは少し恥ずかしくなった。
自分の気持ちばかりを話してしまったように思えたからだ。
しかし、アルベルトは笑わなかった。
「その気持ちは、大切にしていいと思うよ」
彼は窓の外へ目を向けた。
「ただ、忘れないでほしいことがある」
「何でしょう?」
「君が助けたいと思っている子供たちにも、それぞれの意思があるということだ。学びたい子もいれば、今は別のことを優先したい子もいるかもしれない。僕たちにできるのは、選べる機会を用意することだと思う」
エヴリンは、静かに頷いた。
学ぶ機会を作りたい。
その思いが強いからこそ、参加してもらうこと自体を目標にしてしまう危険がある。
けれど、本当に大切なのは、子供たちが自分で選べることなのだ。
「……ありがとうございます。私、まだまだですね」
「僕だって同じだよ」
「アルベルト様も?」
「もちろん。だから、こうして一緒に考えているんだろう?」
彼は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
エヴリンはその顔を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が迷ったとき、彼はすぐに答えを与えるのではなく、考えるための視点を示してくれる。
自分の意見を持つことを、怖がらなくていいのだと思わせてくれる。
「……アルベルト様と一緒に活動できて、よかったです」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
アルベルトは、わずかに目を見開いた。
「それは、僕の台詞だと思っていたけれど」
「えっ?」
「君がいなければ、僕は最初の計画のまま進めていたかもしれない。今より効率的な仕組みを作れた可能性はある。でも、本当に必要なものを見落としていた可能性もある」
彼は少しだけ笑った。
「君のおかげで、僕も学んでいるんだ」
エヴリンの頬が、じんわりと赤くなった。
「……そんなふうに言われると、照れます」
「では、次からは心の中で思っておくことにしよう」
「そ、それも困ります!」
アルベルトは楽しそうに笑った。
エヴリンも、つられて笑った。
馬車の窓から差し込む午後の光が、二人の間に柔らかな影を落としていた。
◇
学院へ戻ると、エヴリンはそのまま図書室へ向かった。
机に帳面を広げ、今日の話し合いで分かったことを書き出していく。
活動に参加できない理由。
保護者への説明。
活動時間の見直し。
そして、子供たちの意思を尊重すること。
一つずつ整理していると、隣の椅子に誰かが腰を下ろした。
「エヴリンさん、少し相談してもいい?」
顔を上げると、クララが立っていた。
「もちろんです。どうしましたか?」
「次の活動なんだけど、私、弟にも参加してもらえないかと思っているの。でも……」
クララは少し言いにくそうに視線を落とした。
「弟は、知らない人がたくさんいると緊張してしまうの。初めての場所では、なかなか話せなくて」
「そうなんですね」
「だから、最初から大勢の子供たちと一緒に勉強するのは難しいかもしれない。もし可能なら、少し早い時間に来て、慣れてから参加できるようにしてあげたいんだけど……」
エヴリンは、すぐに頷きかけて、ふと思い直した。
活動時間を増やすなら、教師や学生の負担も考えなければならない。
ただ、クララの弟のように、集団に慣れるまで時間が必要な子供もいる。
「……一度、先生と相談してみましょう。全員に同じ時間に来てもらう必要はないと思います。でも、担当する人が無理なく対応できる形にしたいです」
「ありがとう。私も、できることがあれば手伝うから」
「はい。ぜひお願いします」
クララが帰ったあと、エヴリンは新しい項目を帳面に書き加えた。
子供たちが安心して参加できる方法を考えること。
それは、学習内容を工夫するのと同じくらい大切なことだった。
彼女はペンを置き、窓の外を見つめた。
最初の教室を開くことができた。
それだけで、すべてが解決すると思っていたわけではない。
それでも、実際に活動を始めてみると、想像していなかった問題が次々と現れる。
そのたびに、自分の考えが足りなかったことに気づく。
以前のエヴリンなら、そんな自分を恥じていたかもしれない。
けれど今は、少し違った。
知らなかったことを知るたびに、次にできることが増えていく。
間違いに気づくことは、恥ずかしいことだけではない。
よりよい方法を見つけるための、大切な一歩なのだ。
◇
その日の夕方、リヴィアは庭園でルシアンと会っていた。
花壇の周囲には、秋の気配を感じさせる涼しい風が流れている。
「エヴリンの活動、順調に進んでいるみたいだね」
ルシアンが言った。
「ええ。でも、課題もたくさん見つかったそうです」
「最初から問題がない計画なんて、ほとんどないよ。大切なのは、問題が見つかったあとにどうするかだろうね」
リヴィアは微笑んだ。
「最近、私も似たようなことを考えていました」
「ほう。どんなことかな?」
「以前の私は、失敗しないことばかり考えていた気がするんです。選択を間違えれば、また悪い結末に向かってしまうのではないかって」
リヴィアは、庭園の奥に目を向けた。
何度もやり直してきた人生。
知っているはずの未来が変わるたび、彼女は新しい不安を抱えてきた。
けれど、今は少しずつ分かってきたことがある。
「でも、何も選ばなければ、何も変わらないんですよね。間違えることがあっても、そのときに考え直せばいい。そう思えるようになりました」
ルシアンは、彼女の横顔を静かに見つめた。
「それは、大きな変化だね」
「……そうでしょうか?」
「うん。君は以前、自分の未来を守るために、選択肢を減らそうとしていた。でも今は、選んだあとも自分で歩いていけると考え始めている」
リヴィアは、少し驚いたように彼を見た。
彼は、彼女自身がまだうまく言葉にできていない変化を、正確に捉えていた。
「ルシアンは、本当によく見ていますね」
「君のことだからね」
彼は何でもないことのように答えた。
リヴィアの頬が赤くなる。
「……そういうことを、さらっと言わないでください」
「では、次からはもっと真剣な顔で言おうか?」
「そういう問題ではありません!」
ルシアンは楽しそうに笑った。
やがて、その表情が少し穏やかになる。
「リヴィア。君がどんな未来を選ぶとしても、僕は君が自分で選んだ道を尊重したいと思っている」
彼は、そっと手を差し出した。
「ただ、その道を一緒に歩かせてもらえたら、嬉しい」
リヴィアは、その手を見つめた。
すぐに答えを出すことは、まだできない。
けれど、今の自分なら、答えを出せないことを理由に、彼との時間から逃げる必要はないと思えた。
リヴィアは、彼の手を取った。
「……一緒に歩いてください。これからも、少しずつ」
「喜んで」
二人は並んで庭園を歩き始めた。
結婚の答えは、まだ先にある。
それでも、今日という一日をどう過ごすのかは、自分たちで選ぶことができる。
未来に何が待っているのか、すべてを知る必要はない。
分からないことがあれば、そのときに考えればいい。
間違えたなら、立ち止まって、もう一度選び直せばいい。
リヴィアは、隣を歩くルシアンの横顔を見つめた。
かつて彼女が恐れていた未来は、今では少しずつ、自分たちで形を作っていくものへと変わり始めていた。




