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初めての教室、まだ知らない笑顔

 試験活動の初日。


 王都西部の小さな建物には、朝から慌ただしい足音が響いていた。


「その机は、窓際ではなく壁側にお願いします。通り道を広くしたいんです!」


「分かった。こちらに運べばいいんだね?」


「はい、ありがとうございます!」


 エヴリンは、運び込まれた机の位置を確認しながら、参加した学生たちに声をかけていた。


 肩までの淡い茶色の髪は、今日は邪魔にならないよう紺色のリボンで後ろにまとめている。動きやすい落ち着いた色のワンピースに、薄手の上着。手には、活動記録を書き込むための帳面を抱えていた。


 普段の学院生活では、ここまで大勢に指示を出す機会はない。


 机を並べるだけでも、思った以上に時間がかかった。


 小さな子供が座るには椅子が高すぎる。教材を置く棚は、子供たちの手が届く位置にない。入口近くの机は、人が出入りするたびに邪魔になりそうだった。


 気づくたびに配置を変え、ようやく落ち着いた頃には、エヴリンの額にうっすら汗が浮かんでいた。


「……これで、なんとか準備できたでしょうか」


「十分だと思うよ」


 背後から声がした。


 振り返ると、アルベルトが扉のそばに立っていた。


 今日は王太子としての威厳を前面に出すのではなく、動きやすい濃紺の上着に白いシャツという、普段より控えめな装いだった。それでも、金色の髪と赤い瞳は人目を引く。


「アルベルト様。そちらの準備は?」


「地域の責任者との確認は終わった。予定していた子供たちにも、活動の内容を改めて説明してもらっている。参加するかどうかは、それぞれの意思に任せることになったよ」


「ありがとうございます」


 エヴリンはほっと息をついた。


 今日は、子供たちにとっても初めての場所だ。


 無理に参加させることはしたくなかった。学ぶことが楽しいと感じる前に、ここへ来ること自体が負担になってしまえば意味がない。


「エヴリン」


「はい?」


「君も、少し座ったほうがいい」


「でも、まだ教材の確認が……」


「教材は逃げないよ」


「そうですけど……」


「責任者が倒れたら、今日の活動はどうなるのかな?」


「うっ……」


 反論できず、エヴリンは頬を膨らませた。


 アルベルトは苦笑しながら、窓際の椅子を引いた。


「五分だけ。これは責任者からの命令だ」


「アルベルト様は責任者ではありません」


「では、協力者からのお願いということにしよう」


 そう言われてしまうと、断りにくい。


 エヴリンは小さくため息をつき、椅子に腰を下ろした。


「……五分だけですからね」


「もちろん」


 アルベルトは向かいの机に腰を預けた。


「緊張している?」


「はい。とても」


 今度は、素直に答えた。


「昨日までは、準備を進めれば何とかなると思っていました。でも、実際に子供たちが来ると思うと……何を話せばいいのか、分からなくなってしまって」


「最初から、うまく教えようとしなくてもいいんじゃないかな」


「え?」


「まずは、彼らの名前を聞いて、君の名前を伝える。それだけでも、立派な最初の一歩だと思うよ」


 エヴリンは目を瞬かせた。


 彼女は教材の内容や活動の手順について、何度も確認してきた。


 けれど、肝心の子供たちと、どんなふうに出会うのかは、十分に考えていなかったのかもしれない。


「……そうですね。私、少し難しく考えすぎていたみたいです」


「君はいつも、相手のために何ができるかを一生懸命考えるからね」


 アルベルトの声は穏やかだった。


「でも、相手が君に何を望んでいるのかは、会ってみなければ分からない。今日は、それを知る日でもあるんだろう?」


「はい」


 エヴリンは、ようやく自然な笑顔を浮かべた。


「ありがとうございます。少し、落ち着きました」


「それはよかった」


 彼が微笑んだ、そのときだった。


 入口の向こうから、遠慮がちな声が聞こえてきた。


「あの……ここで、勉強ができるって聞いたんですけど」


 エヴリンは、勢いよく立ち上がった。


     ◇


 扉の前に立っていたのは、十歳くらいの少女と、その後ろに隠れるように立つ小さな男の子だった。


 少女は色あせた茶色の服を着て、片手で男の子の手を握っている。男の子は少女の背中から顔を半分だけ出し、見慣れない室内を不安そうに見回していた。


 エヴリンは、二人の前にしゃがみ込んだ。


「こんにちは。来てくれてありがとう。私はエヴリンっていうの。あなたたちのお名前を聞いてもいい?」


 少女は少し警戒した様子で彼女を見つめた。


「……マリーです。こっちは弟のトム」


「マリーちゃんと、トムくんね。よろしくね」


 エヴリンが笑いかけると、マリーは小さく頷いた。


「ここでは、本当に勉強できるの?」


「うん。でも、今日は無理に勉強しなくても大丈夫よ。まずは、どんなことをしたいか、一緒に考えたいの」


「……怒られたりしない?」


 思いがけない言葉に、エヴリンは一瞬、息を止めた。


「どうして、そう思ったの?」


「前に、字を読めなくて笑われたことがあるから。弟も、数字を間違えて……」


 マリーは言葉を途切れさせ、トムの手を強く握った。


 トムは姉の後ろに隠れたまま、俯いている。


 エヴリンは、二人を急かさなかった。


「ここでは、間違えても笑わないわ。私だって、分からないことはたくさんあるもの」


「エヴリンお姉ちゃんも?」


「ええ。だから、一緒に考えたいの」


 マリーは、彼女の顔をじっと見つめた。


 やがて、トムが姉の後ろから一歩だけ前に出た。


「……パンの絵、ある?」


「パンの絵?」


「お店の看板に、パンの絵があるんだ。あれ、好き」


 エヴリンの表情がぱっと明るくなった。


「あるわよ。ちょうど、見てもらいたいカードがあるの」


 彼女は棚から一枚のカードを取り出した。


 そこには、丸いパンの絵と、その下に大きく書かれた文字があった。


 トムは、カードを見つめた。


「……パン!」


「そう。よく分かったね」


「これ、読めるよ!」


 トムの顔が、初めて明るくなった。


 エヴリンはカードを少しだけ傾けた。


「じゃあ、この下の文字はどうかな?」


 トムは首を傾げた。


「分かんない……」


「大丈夫。じゃあ、一緒に見てみようか」


 彼女は文字を指でなぞりながら、ゆっくりと読み方を伝えた。


 トムは、何度も口を動かして真似をする。


 最初は小さな声だった。


 けれど、三度目には、はっきりとその文字を読めるようになった。


「読めた!」


「読めたね!」


 エヴリンが笑うと、トムは誇らしそうに姉を振り返った。


「マリー姉ちゃん、読めたよ!」


「うん……すごいね、トム」


 マリーの顔にも、少しずつ笑顔が広がっていく。


 その様子を見ていたアルベルトは、静かに視線を落とした。


 たった一つの文字。


 それを読めたからといって、二人の暮らしがすぐに変わるわけではない。


 それでも、トムが見せた笑顔は、確かなものだった。


 エヴリンが作ろうとしている場所には、こういう瞬間があるのだ。


     ◇


 午前の活動が始まると、少しずつ子供たちが集まり始めた。


 読み書きに興味を持つ子もいれば、数字を覚えたいという子もいた。


 最初は入口から中を覗くだけだった少年が、木片を使った計算を見て、恐る恐る机に近づいてくる。


「これ、何に使うの?」


「数を数えるために使うのよ。例えば、ここに木片が三つあるでしょう?」


 学生の一人が木片を並べた。


「そこに、もう二つ加えると、いくつになるかな?」


 少年は木片を指で動かしながら、真剣に数え始めた。


 別の机では、クララが少女たちと一緒に文字カードを並べていた。


 教師はそれぞれの様子を確認しながら、必要なところで助言をしている。


 エヴリンは部屋の中を回り、子供たちが困っていないか確かめた。


 ただし、彼女が最も気をつけていたのは、すぐに答えを教えないことだった。


 子供が考え込んでいると、つい助けたくなる。


 けれど、少し待ってみると、自分で答えを見つけることもある。


 トムが文字カードを見つめていたときも、エヴリンはすぐには声をかけなかった。


 彼は眉を寄せ、カードと自分の指を交互に見つめている。


 やがて、小さな声がした。


「……これ、さっきの文字と同じ?」


「そうだね。よく気づいたね」


 トムは嬉しそうに頷いた。


 エヴリンは、その様子を記録帳に書き留めた。


 パンの絵から興味を持ったこと。


 同じ文字を見つけ、自分で読み方を思い出したこと。


 その記録は、彼女にとって、どんな立派な計画書よりも価値のあるものに思えた。


 しかし、活動が始まって一時間ほど経った頃、部屋の隅で小さな問題が起こった。


「違うよ! その数じゃない!」


 少年の声が響いた。


 見ると、木片を使って計算していた二人の子供が、言い争っていた。


「だって、こっちが正しいもん!」


「違うってば!」


 一人が木片を払いのけ、机の上に散らばった。


 もう一人は悔しそうに唇を噛み、椅子から立ち上がった。


「もう、やらない!」


 エヴリンはすぐに近づいた。


「ちょっと待って。どうしたの?」


「こいつが、僕の答えは間違ってるって言うんだ!」


「だって、間違ってるんだもん!」


 二人とも、相手の言葉を聞こうとしない。


 エヴリンは、床に落ちた木片を拾いながら考えた。


 正しい答えを教えるだけなら、簡単だ。


 けれど、今ここで必要なのは、答えを決めることだけではないのかもしれない。


「ねえ。二人とも、もう一度、一緒に数えてみない?」


「……でも」


「どちらが正しいかを決める前に、どうしてその答えになったのか、教えてほしいの」


 二人は顔を見合わせた。


 エヴリンは、机の上に木片を並べ直した。


「まず、最初に何個あったのかな?」


「三つ」


「そこに二つ増やしたんだよ」


「そうね。じゃあ、合わせていくつになるか、二人で数えてみよう」


 少年たちは、まだ少し不満そうだったが、木片に手を伸ばした。


 一つ、二つ、三つ。


 そこに、もう一つ。


 さらに、もう一つ。


「……五つ」


 二人の声が重なった。


 最初に怒っていた少年が、ばつの悪そうな顔で相手を見た。


「……五つだった」


「うん」


「ごめん。ちゃんと数えてなかった」


 もう一人も、少しだけ笑った。


「僕も、怒りすぎた」


 エヴリンは、ほっと息をついた。


「分からないときは、何度でも数えていいのよ。間違えることより、間違えたまま確かめないことのほうが、もったいないから」


 二人は、今度は木片を散らかさずに並べ直した。


 その様子を見ていた教師が、エヴリンに静かに頷いた。


 彼女は少し照れながら、記録帳に新しい項目を書き加えた。


 子供同士で考える時間を作ること。


 答えだけでなく、考えた過程も聞くこと。


 活動は、用意した教材どおりには進まない。


 けれど、その予想外の出来事から学べることもある。


     ◇


 昼前、最初の活動が終了した。


 子供たちが帰り支度を始めると、エヴリンは一人ずつ声をかけた。


「今日は来てくれてありがとう。また来たいと思ったら、いつでも来てね」


「うん!」


「次は、もっと難しい計算をやりたい!」


「私は、文字をもっと覚えたい!」


 そんな声が聞こえるたび、エヴリンの顔には自然と笑みが浮かんだ。


 最後まで残っていたトムは、入口のところで何度も振り返っていた。


「トムくん、忘れ物?」


 エヴリンが尋ねると、彼は首を横に振った。


「……また、来てもいい?」


 その声は、最初に会ったときよりもずっとはっきりしていた。


 エヴリンは、しゃがんで彼と目線を合わせた。


「もちろん。また一緒に勉強しようね」


「うん!」


 トムは笑顔で駆けていった。


 マリーも、扉の外から小さく頭を下げた。


「ありがとうございました」


「こちらこそ、来てくれてありがとう」


 二人の姿が見えなくなってからも、エヴリンはしばらく扉の前に立っていた。


 胸がいっぱいだった。


 今日一日で、すべてが変わったわけではない。


 教材には改善が必要だし、子供たちが参加できる時間についても、もっと調べなければならない。


 費用や人員の問題も残っている。


 それでも、トムは文字を一つ読めるようになり、マリーは弟の笑顔を見て笑った。


 その小さな変化を、彼女は確かに目にしたのだ。


「……よかった」


 エヴリンは、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「本当に、よかった……」


 目元が熱くなり、慌てて顔を伏せた。


 泣くつもりなんてなかったのに。


「エヴリン」


 振り返ると、アルベルトが立っていた。


 彼は彼女の赤くなった目元を見て、何も言わずにハンカチを差し出した。


「……すみません」


「謝ることじゃないよ」


 エヴリンはハンカチを受け取り、目元をそっと押さえた。


「私、ずっと失敗したらどうしようって思っていました。でも、今日、子供たちが笑ってくれて……それだけで、こんなに嬉しいんですね」


「君が、その笑顔を大切にしてきたからだと思う」


 アルベルトは、部屋の中へ視線を向けた。


 机の上には、使い終わった教材が残っている。床には、子供たちが動かした椅子の跡があり、黒板には、まだ消されていない数字が書かれていた。


 どれも、今日という一日が確かに存在した証だった。


「最初の活動としては、十分な成果だと思う。もちろん、改善するところは多いけれどね」


「はい。記録をまとめて、次回までに見直します」


「僕も手伝うよ」


 エヴリンは顔を上げた。


 彼はいつもと同じように、穏やかな表情でこちらを見ていた。


 その姿に、彼女は自然と笑顔になった。


「……ありがとうございます、アルベルト様」


「どういたしまして」


 ほんの短い沈黙が訪れた。


 エヴリンは、手の中のハンカチを見つめた。


「これ、お返しします。洗ってから……」


「急がなくていいよ」


「でも」


「次に会ったときで構わない」


 何気ない言葉だった。


 それなのに、エヴリンはなぜか、その約束が少し嬉しかった。


 次に会う理由が、一つできたような気がしたから。


「……はい。では、次にお会いするときに」


 彼女が微笑むと、アルベルトも微笑み返した。


 窓の外では、午後の光が街並みを照らしていた。


 小さな教室の最初の日は、こうして終わった。


 そこに集まった子供たちが、これからどんな未来を歩いていくのか。


 まだ、誰にも分からない。


 けれど、今日この場所で生まれた笑顔は、エヴリンに一つのことを教えてくれた。


 未来を変えるというのは、必ずしも大きなことを成し遂げることではない。


 誰かが昨日までできなかったことを、今日、一つできるようになる。


 誰かが不安を抱えたままでも、もう一度挑戦してみようと思える。


 そして、その小さな一歩を、誰かと一緒に喜ぶことができる。


 その積み重ねが、いつか大きな未来につながっていくのだ。


 エヴリンは、片づけの終わった机を見つめ、静かに決意した。


 この教室を、一日だけの場所にはしない。


 子供たちが、また来たいと思える場所にする。


 そして、自分自身も、この活動を通して成長していこう。


 彼女の新しい物語は、確かに次の一歩へ進んでいた。

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