子供たちの声を聞く日
教師たちとの事前相談は、翌日の午後に行われた。
王立セイレーン学院の会議室には、数名の教師と学生代表、それにアルベルトとエヴリンが集まっていた。
長い机の上には、試験活動の計画書と教材の見本が並んでいる。
木片を使った計算用の教材。日常生活で目にする文字を集めたカード。簡単な文章を書き込める小さな練習帳。
どれも、エヴリンと参加希望者たちが話し合いながら用意したものだった。
「それでは、まず活動の目的を確認しましょう」
年配の女性教師が眼鏡の位置を直し、計画書に目を落とした。
「王都西部の子供たちを対象に、読み書きと簡単な計算を学ぶ機会を設ける。参加する子供たちの生活時間に配慮し、最初は少人数で試験的に実施する……ということで間違いありませんね?」
「はい」
エヴリンは背筋を伸ばして答えた。
「ただ、今回は最初から授業を始めるのではなく、子供たちと話す時間も設けたいと思っています。どんなことを学びたいのか、何が難しいと感じているのか、実際に聞いてみたいんです」
教師の一人が、興味深そうに彼女を見た。
「それは大切なことですね。こちらが必要だと思う内容と、本人が必要だと感じている内容は、必ずしも同じではありませんから」
エヴリンの表情が明るくなった。
「はい。私も、そこを大切にしたいと思っています」
「ですが、子供たちが集まる場所は、もう決まっているのでしょうか?」
別の教師が尋ねた。
エヴリンは用意していた地図を広げた。
「地域の方に相談したところ、以前、共同作業のために使われていた建物の一室を借りられる可能性があると分かりました。広さは十分ではありませんが、最初の活動なら、机を並べて使えると思います」
「建物の安全性は?」
「現在、確認をお願いしています。使用できるかどうかが分かるまでは、確定した場所として扱わないつもりです」
教師は満足そうに頷いた。
その後も、活動時間、教材の管理、学生の役割分担について、いくつもの質問が出された。
エヴリンは緊張しながらも、一つずつ答えていった。
分からないことは、分からないと認める。
まだ決まっていないことは、これから確認すると伝える。
そして、質問の中に新しい問題を見つけたら、必ず書き留める。
会議が始まった頃に比べて、彼女の声は少しずつ落ち着いていた。
「……分かりました。学院としても、試験活動に協力しましょう」
最後に、女性教師がそう告げた。
「ただし、最初の活動には私も立ち会います。学生だけで指導を行うことは認められません。それから、教材についても事前に確認させてください」
「ありがとうございます!」
エヴリンは思わず椅子から立ち上がりかけ、慌てて座り直した。
教師たちの間から、微笑ましそうな笑い声が漏れた。
隣に座っていたアルベルトも、彼女にだけ分かる程度に小さく笑った。
会議の最後には、最初の活動日を一週間後に設定することが決まった。
ようやく、計画が実際の形を持ち始めたのだ。
◇
会議が終わると、エヴリンは教材を一つずつ箱に戻し始めた。
木片を布袋に入れ、文字カードを種類ごとに分け、練習帳の枚数を確認する。
「エヴリン嬢」
声をかけられ、彼女は顔を上げた。
先ほどまで会議に参加していた女性教師が、穏やかな表情で立っていた。
「今日はよく準備できていましたね。最初に比べれば、計画もずいぶん具体的になりました」
「ありがとうございます。でも、まだ足りないところばかりです」
「それでいいのですよ。初めからすべてを理解している人などいません。大切なのは、問題に気づいたときに、見ないふりをしないことです」
教師は文字カードを一枚手に取った。
そこには、簡単な単語と、その意味を示す小さな絵が描かれている。
「この教材は、あなたが考えたのですか?」
「いいえ。参加を希望してくれた学生の一人が、弟さんに教えるときに使った方法を教えてくれたんです。それを参考にして、みんなで作りました」
「なるほど。実際に教える経験のある人の工夫を取り入れたのですね」
「はい。私一人では、きっと思いつかなかったと思います」
教師はカードを箱に戻した。
「ならば、これからも周囲の人の知恵を借りなさい。責任を持つことと、すべてを一人で背負うことは違いますからね」
その言葉に、エヴリンは目を瞬かせた。
責任者になった以上、何もかも自分で把握しなければならない。
どこかで、そんなふうに考えていたのかもしれない。
けれど、彼女が作りたいのは、一人の力だけで成立する活動ではない。
子供たちの暮らしを知っている人。教えることを学んできた人。自分にはない経験を持つ人。
そうした人々が力を持ち寄ることで、初めて続けられる場所になるのだ。
「……はい。忘れないようにします」
エヴリンは、今度こそ自然な笑顔で答えた。
教師が会議室を出ていくと、入れ替わるようにアルベルトが近づいてきた。
「いい助言をもらったね」
「はい。私、少し力が入りすぎていたのかもしれません」
「君は、誰かの期待を裏切りたくないと思っているんだろう?」
エヴリンは返事をせず、手元の箱を見つめた。
図星だった。
協力してくれる学生たちにも、教師たちにも、そしてアルベルトにも。
自分のせいで計画が失敗したらどうしよう。
そんな不安が、いつも心のどこかにあった。
「でも、期待に応えるために一人で抱え込んでしまったら、君自身が先に疲れてしまう」
アルベルトは、箱の蓋を閉めるのを手伝った。
「困ったときは、僕にも相談してほしい」
「……王太子殿下に、そんなに頼ってもいいんでしょうか?」
「今さらだね。計画の最初から一緒に取り組んでいるのに」
「そ、それはそうですけど……」
「それとも、僕では頼りにならないかな?」
「そんなことありません!」
エヴリンは勢いよく顔を上げた。
あまりに真剣な返事だったので、アルベルトは一瞬だけ驚き、それから柔らかく笑った。
「なら、よかった」
その笑顔を見て、エヴリンは自分の言葉を思い返した。
頼りにならないなんて、思ったこともない。
むしろ、彼が一緒に考えてくれるから、もう少し頑張ってみようと思えるのだ。
それを口にするのは、まだ少し恥ずかしかった。
◇
一週間後の試験活動に向けて、エヴリンたちは王都西部の建物を訪れることになった。
学院から派遣された教師も同行し、地域の責任者と一緒に、実際に使用できる場所を確認するためだった。
建物は、石造りの通りから少し奥に入った場所にあった。
以前は共同作業のために使われていたらしく、外壁には古い修繕の跡が残り、木製の扉もところどころ色が剥がれている。
しかし、窓は大きく、昼間なら十分な光が入る。
「思っていたより、明るいですね」
エヴリンが室内を見渡しながら言った。
部屋の隅には使われなくなった棚があり、壁際には古い長机が二つ置かれていた。
「掃除をして、机を整えれば、使えそうです。ただ、こちらの窓の留め具は修理が必要ですね」
教師が確認しながら記録をつけた。
地域の責任者も頷いた。
「修繕については、こちらで手配できると思います。ですが、机と椅子は数が足りません」
「学院から運べるものがないか、確認してみます」
エヴリンが答えると、アルベルトが地図を広げた。
「学院からここまでの運搬経路も確認しておこう。道幅が狭い場所があるから、大きな荷車は使わないほうがよさそうだ」
「そうですね。教材も、最初から全部運ぶのではなく、必要な分だけ持ってきたほうが安全だと思います」
彼女は建物の広さを見直した。
ここに、子供たちが集まる。
文字を覚えようとする子。計算に挑戦する子。最初は緊張して、なかなか話せない子もいるかもしれない。
その光景を想像すると、胸の奥が温かくなった。
けれど、同時に気づいたこともあった。
「……あの、少し気になることがあるんです」
エヴリンは、窓の外へ視線を向けた。
建物の前の通りを、小さな男の子が走っていく。その後ろから、年下の子供が一生懸命に追いかけていた。
「この場所まで来るのが難しい子も、いるんじゃないでしょうか」
アルベルトは彼女の視線を追った。
「確かに。家から遠ければ、ここまで来るだけでも時間がかかる」
「それに、弟や妹の面倒を見ている子は、一緒に連れてこなければならないかもしれません」
エヴリンは、室内の机を見つめた。
今まで考えていたのは、ここに何人の子供が座れるかということだった。
けれど、子供たちがここまで来られるかどうかは、別の問題だ。
「最初の活動では、参加できる子供たちの家から、ここまでどれくらいかかるのかも確認したいです。もし来るのが難しい子が多ければ、場所や時間を見直す必要があると思います」
「いい考えだね」
アルベルトは、地図の上に指を置いた。
「地域の方に協力してもらって、希望する家庭の場所を確認しよう。ただし、住所や家族の事情を必要以上に集めないようにする。まずは、通うのにどれくらい時間がかかるかを尋ねる程度でいい」
「はい。本人や家族が話したくないことまで、聞かないようにします」
教師も同意するように頷いた。
「学ぶ場所を用意するだけではなく、そこへ来るまでの事情にも目を向ける。大切な視点ですね」
エヴリンは、手元の記録帳を開いた。
新しい課題が一つ増えた。
それは、計画が後退したということではなかった。
今まで見えていなかったものが、少しずつ見えるようになっているのだ。
◇
帰り道。
学院へ戻る馬車を待つ間、エヴリンは通りの端にある小さな店の前で足を止めた。
店先には、パンと焼き菓子が並んでいる。
その前で、一人の少女が弟らしい男の子の手を引いていた。少女は店の看板を指さし、男の子に何かを説明している。
男の子は看板を見上げたあと、得意そうに笑った。
エヴリンは、その光景をしばらく見つめていた。
「どうしたの?」
アルベルトが隣に立った。
「……文字を教える方法って、本当にいろいろあるんですね」
彼女は、店の看板を見つめたまま答えた。
「私たちは教室を作ろうとしているけれど、子供たちは、もう暮らしの中で学んでいるのかもしれません」
「そうだね」
「だから、私たちが用意した教材だけが正しいわけじゃない。子供たちが知っていることを、そこから少しずつ広げていけたらいいなと思います」
アルベルトは、彼女の横顔を見た。
夕方の光が、淡い茶色の髪を柔らかく照らしている。
「君は、現地へ来るたびに新しいことを見つけるね」
「私が知らないことばかりだからです」
「それなら、これからも一緒に見つけていこう」
何気ない言葉だった。
けれど、エヴリンはすぐに返事ができなかった。
一緒に。
その言葉が、胸の奥で静かに響いた。
活動を成功させるために、彼と一緒に考えていく。
それは、今の自分にとって大切なことだ。
そして、それとは別に、彼と同じ景色を見て、同じものについて話す時間そのものが、少しずつ特別になっている気がした。
「……はい。ぜひ」
エヴリンが微笑むと、アルベルトも頷いた。
遠くで馬車の車輪が石畳を踏む音がした。
二人は並んで歩き出す。
まだ、教室の準備は終わっていない。
子供たちが何人集まるのかも、どんな問題が起こるのかも分からない。
それでも、最初の活動日へ向けて、確かな一歩を踏み出していた。
その一歩が、子供たちの未来を変えるものになるのか。
それは、まだ誰にも分からない。
けれど少なくとも、エヴリンはもう、誰かに用意された役割を演じるだけの少女ではなかった。
自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の言葉で伝える。
そして、自分が選んだ道を、誰かと一緒に歩いていく。
そんな未来を、彼女自身の手で作り始めていた。




