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小さな教室に集まる想い

 翌朝、王立セイレーン学院の掲示板に、一枚の募集案内が貼り出された。


 王都西部の子供たちを対象とした、読み書きと計算の学習活動。


 活動内容はまだ試験段階であり、参加する学生には事前説明と簡単な研修が用意されること。活動時間は学業に支障が出ない範囲に限り、参加を強制しないこと。


 そして最後には、エヴリン自身の言葉が添えられていた。


『子供たちに何かを教えるだけではなく、私たちも、彼らの暮らしから学びたいと思っています』


 掲示板の前には、朝から何人もの学生が集まっていた。


「これ、昨日の講堂で話していた活動だよね?」


「王太子殿下も関わっているらしいわ」


「でも、実際に子供たちへ教えるとなると、簡単ではなさそうね」


 興味を示す声がある一方で、慎重な意見も聞こえてくる。


 その少し離れた場所で、エヴリンは両手を胸の前で握りしめていた。


 淡い茶色の髪は肩の上で柔らかく揺れ、緑色の瞳は掲示板に集まる学生たちを落ち着かない様子で追っている。


「……誰も申し込んでくれなかったら、どうしよう」


「そのときは、募集方法を考え直せばいい」


 隣から聞こえた声に、エヴリンはびくりと肩を震わせた。


「アルベルト様! いつからいらしたんですか?」


「今来たところだよ。君が掲示板を睨んでいたから、声をかけるべきか迷っていた」


「睨んでなんていません!」


「では、祈っていたのかな?」


「……少しだけ」


 エヴリンが小さく認めると、アルベルトは笑みをこぼした。


 彼は掲示板へ目を向けた。


「昨日、君は自分の言葉で説明すると決めた。今日も同じだ。申し込んでくれる人がいるかどうかは、君一人では決められない」


「分かっています。でも、やっぱり気になります」


「それなら、気にしながら待てばいい。緊張しない人間になる必要はないよ」


 意外な言葉に、エヴリンは彼を見上げた。


「……アルベルト様も、緊張することがあるんですか?」


「もちろん」


「本当ですか?」


「僕を何だと思っているんだい?」


「何でも完璧にできる方、でしょうか……」


「それは困ったな。君の中で、僕の評価が高すぎる」


 アルベルトは少し困ったように笑った。


「僕だって、判断を誤ることはあるし、知らないことも多い。だから、間違いを指摘してくれる人が必要なんだ」


「……では、私も何か間違っていたら、教えてください」


「もちろん。ただし、僕が間違っていたら、君も遠慮なく教えてほしい」


 エヴリンは、その言葉を心の中で繰り返した。


 王太子と協力するということは、彼の指示に従うことだと思っていた。


 けれど、アルベルトが求めているのは、ただ従う人間ではないらしい。


 彼と同じ方向を見ながら、自分の考えを伝えられる相手。


 そう思うと、胸の奥に小さな勇気が灯った。


     ◇


 昼休みが終わる頃、募集案内の前に一人の女子学生が立っていた。


 肩まで伸びた黒髪を後ろでまとめ、胸元には二年生を示すリボンが結ばれている。


 彼女は申込用紙を手に取り、記入欄をじっと見つめていた。


「あの……」


 エヴリンが声をかけると、女子学生は驚いて振り返った。


「あなたが、この活動を考えたエヴリンさん?」


「はい。そうです」


「私、クララといいます。家の近くに小さな弟がいるんですけど、文字を覚えるのにずいぶん苦労していて……。だから、少し興味があって」


「そうなんですね!」


 エヴリンの表情が明るくなった。


「もしよかったら、どういうところが難しかったのか、教えてもらえませんか?」


「えっ?」


「もちろん、話せる範囲で大丈夫です。私たちが考えている方法が、本当に子供たちの役に立つのか、もっと知りたいんです」


 クララは少し考えたあと、申込用紙を胸元で持ち直した。


「弟は、文字を一度にたくさん覚えるのが苦手なんです。でも、買い物についてきたときに、お店の看板に書いてある文字を見つけると、すごく嬉しそうにするんですよ」


「看板の文字……」


「はい。だから、教科書だけじゃなくて、普段の暮らしにあるものを使って教えたら、楽しいんじゃないかと思って」


 エヴリンは、思わず手元の資料を開いた。


 今まで用意していた教材案には、文字の練習帳や数字を書き込む紙が中心に並んでいた。


 けれど、子供たちが毎日目にするものを教材にするという考えは、十分に取り入れていなかった。


「それ、とても素敵な考えだと思います!」


「そ、そうかな?」


「はい。文字を覚えることが、自分の暮らしとつながっていると分かれば、きっと学ぶのが楽しくなります」


 エヴリンは急いで資料の余白に書き込んだ。


 その様子を見て、クララはくすりと笑った。


「エヴリンさんって、話を聞くとすぐに書き留めるんですね」


「あっ……すみません。つい」


「謝らなくてもいいですよ。私の考えが役に立つなら嬉しいです」


 クララは申込用紙に名前を書き始めた。


 その横に、もう一人の男子学生が近づいてくる。


「僕も参加したいんだけど、算術の補助でも構わないかな?」


「もちろんです!」


「よかった。実は、弟に計算を教えるとき、物を数えながら説明したら分かりやすかったんだ。教科書だけで説明するより、豆や木片を使ったほうが理解しやすいみたいで」


「豆や木片……!」


 エヴリンの手が、また資料の上を走った。


 少し離れたところで、その様子を見ていたアルベルトは、静かに微笑んだ。


 彼女は学生たちに参加を頼むだけではなく、彼らの経験から新しい方法を見つけている。


 最初に計画書を見せられたとき、彼は実現のための条件を考えた。


 しかし今、彼女が作り出そうとしているのは、ただの学習計画ではないのかもしれない。


 教師が一方的に知識を与える場所ではなく、子供も学生も、それぞれの経験を持ち寄る場所。


 それならば、協力する意味は十分にある。


     ◇


 放課後、エヴリンはリヴィアを学院の中庭へ呼び出した。


 木々の間を抜ける風が、花壇に植えられた白い花を揺らしている。


「リヴィア様、聞いてください! 今日、三人も参加を申し込んでくれたんです!」


「まあ、よかったわね!」


 リヴィアは心から嬉しそうに笑った。


 エヴリンは、クララと男子学生から聞いた話を順番に説明した。


 看板の文字を使って読み書きを教えること。豆や木片を使って計算を練習すること。


 そして、学生たちがそれぞれ自分の経験を生かしたいと考えてくれたこと。


「まだ三人だけですけど、昨日よりも、少しだけ前に進めた気がします」


「三人だけ、なんて言わないで。三人も、よ」


 リヴィアは穏やかな声で言った。


「その三人が参加してくれたことで、今まで考えつかなかった方法が見つかったのでしょう?」


「はい」


「なら、もう成果は出ているわ」


 エヴリンは、嬉しそうに頷いた。


 けれど、すぐに表情を曇らせた。


「実は、もう一つ考えていることがあるんです」


「何か問題があったの?」


「はい。子供たちに合わせて教材を工夫するのは大切だと思うんです。でも、私たちが子供たちのことを知ったつもりになって、勝手に決めてしまうのも違う気がして」


 リヴィアは、彼女の言葉を静かに聞いていた。


「例えば、私たちが楽しいと思う教材でも、子供たちは興味を持たないかもしれません。それに、勉強よりも先に、話を聞いてほしい子だっているかもしれない。だから、最初の日は教えることばかり考えずに、子供たちと話す時間を作りたいんです」


「とてもいいと思うわ」


「本当ですか?」


「ええ。ただ、子供たちが話したくないことまで、無理に聞き出さないように気をつければいい。話すかどうかを決めるのも、その子自身なのだから」


 エヴリンは、はっとしたように顔を上げた。


 子供たちのために何かをしたい。


 その気持ちが強くなるほど、何をしてあげるべきか、自分たちで決めてしまいそうになる。


 けれど、本当に相手を大切にするなら、相手が何を望んでいるのかを知ることから始めなければならない。


「……ありがとうございます。私、最初の日の計画をもう一度考えてみます」


「その前に、一つだけ聞いてもいい?」


「はい?」


 リヴィアは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。


「アルベルト様とは、今日も一緒に活動していたの?」


「えっ?」


 エヴリンの頬が、瞬く間に赤くなった。


「そ、それは、計画を進めるためです! 王太子殿下ですし、責任者のお一人ですから!」


「そう。責任者の一人なのね」


「リヴィア様、その言い方は何か含みがあります!」


「何もないわよ?」


 リヴィアは澄ました顔で答えたが、目元には笑みが残っていた。


「ただ、最近のエヴリンは、アルベルト様のお話をするとき、とても楽しそうだと思っただけ」


「そ、そんなこと……!」


 否定しかけたエヴリンは、ふと口を閉じた。


 アルベルトと一緒に計画を考える時間は、確かに楽しかった。


 意見が食い違うこともある。自分の考えが足りないと気づかされることもある。


 それでも、彼は自分の話を聞いてくれる。


 自分が気づかなかったことを教えてくれる一方で、自分の意見によって考えを変えてくれることもある。


 彼の前では、何も知らない自分を恥じるより、知らないことを知りたいと思えた。


「……一緒に考えていると、安心するんです」


 エヴリンは、小さな声で呟いた。


「私が分からないことを、すぐに否定しないで、どうすればいいか一緒に考えてくださるから」


 リヴィアは、からかうのをやめた。


「そうなのね」


「はい。でも、これは……」


「うん。今すぐ答えを出さなくてもいいと思うわ」


 リヴィアは、エヴリンの手にそっと触れた。


「自分が誰といるときに安心できるのか。誰と一緒にいると、もっと頑張りたいと思えるのか。そういうことも、少しずつ知っていけばいいのよ」


 エヴリンは、頬を赤くしたまま俯いた。


 胸の奥に浮かんだ感情には、まだ名前をつけられない。


 けれど、無理に消そうとも思わなかった。


     ◇


 同じ頃、王宮の執務室では、アルベルトが試験活動の実施条件をまとめていた。


 机の上には、学生たちの参加申込書と、教材案、そして必要経費の見積もりが並んでいる。


 書類を確認していた彼は、ふと手を止めた。


 参加予定者の一覧に、エヴリンの名前は責任者として記されている。


 その下には、彼女が自ら追加した注意事項があった。


 子供たちの事情を決めつけないこと。


 本人の意思を尊重すること。


 活動の内容を一方的に押しつけないこと。


 アルベルトは、その文字をしばらく見つめていた。


「……本当に、君らしいな」


 誰もいない執務室で、彼は小さく呟いた。


 彼女と出会う前なら、これほど細かな注意事項を、最初の計画に盛り込んだだろうか。


 必要な予算と人員を確保し、実施の手順を整えること。それが彼にとっての計画だった。


 しかし、エヴリンはその先にいる人々の表情まで想像しようとしている。


 彼女の言葉を聞くたびに、自分の見ている世界が、少しずつ広がっていく。


 それが嬉しい。


 そして、彼女と話す時間が終わると、もう少し話していたかったと思う自分がいる。


 アルベルトはペンを置き、窓の外へ視線を向けた。


 夕暮れの空には、淡い橙色の雲が広がっていた。


 自分は、いつから彼女の言葉を待つようになったのだろう。


 いつから彼女が笑うと、安心するようになったのだろう。


 答えを考えかけて、彼は小さく息を吐いた。


「……今は、計画を進めることが先だな」


 そう言いながらも、口元にはわずかな笑みが残っていた。


 明日は、教師たちとの事前相談が予定されている。


 そこで協力が得られれば、いよいよ試験活動の具体的な日程を決められるだろう。


 子供たちが学ぶための、小さな教室。


 その準備は、確実に進み始めていた。


 そしてアルベルト自身もまた、エヴリンと過ごす時間の中で、自分が何を望んでいるのかを、少しずつ考え始めていた。

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