最初の一歩を形にするために
会議から三日後。
王立セイレーン学院の図書室には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
窓際の長机に広げられているのは、エヴリンがまとめた調査記録と、地域学習の試験計画書。それに、アルベルトが用意した予算案だった。
エヴリンは羽根ペンを握ったまま、何度目か分からないため息をついた。
「……やっぱり、先生の協力が必要よね」
計画書の端には、子供たちに読み書きを教える時間、教材の準備、会場の確保、そして参加する子供たちの人数が細かく書き込まれている。
だが、肝心の指導役については、まだ十分な見通しが立っていなかった。
学院の教師に協力を頼むにしても、授業や研究の時間を削ってもらうことになる。学生を募る方法も考えたが、教える経験のない者ばかりでは、子供たちに適切な指導ができるとは限らない。
「大きな計画を立てるより、小さく始めるほうが簡単だと思っていたのに……」
呟いた声は、静かな図書室に吸い込まれていった。
「小さく始めることと、簡単にできることは違うからね」
向かい側から声がした。
顔を上げると、アルベルトが資料を片手に立っていた。金色の髪が窓から差し込む光を受け、赤い瞳には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「アルベルト様。いつからそこに?」
「君が三度目のため息をついたあたりから」
「そんなにため息をついていましたか?」
「少なくとも、僕が数えた分だけで三回は」
「数えないでください……」
エヴリンが恥ずかしそうに頬を膨らませると、アルベルトは小さく笑って向かいの椅子を引いた。
「進み具合を見せてもらえるかな?」
「はい。問題点を整理してみたんですけど、解決策が思いつかなくて」
エヴリンは計画書を彼の前に差し出した。
アルベルトはすぐに読み始めた。彼の視線は、会場の候補、教材費、指導役の確保と、順番に項目を追っていく。
「なるほど。教師を一人、定期的に派遣するのは難しいか」
「はい。現地でお話を聞いたとき、子供たちは毎日同じ時間に集まれるわけではないと分かりました。家の仕事を手伝う子もいますし、弟や妹の面倒を見なければならない子もいます」
エヴリンは現地で出会った少年の顔を思い出した。
学びたいと口にしながら、家族の手伝いを優先しなければならなかった小さな男の子。
彼のような子供たちに、決められた時間に来なければ学べないという条件を課してしまえば、結局、助けを必要としている子供ほど参加できなくなる。
「だから、決まった曜日に一度だけ集まる方法ではなく、何度か短い時間を設けられないかと思ったんです。でも、そうすると教える人も多く必要になりますし……」
「学生の協力を募るのはどうだろう」
「学生、ですか?」
「ああ。ただし、いきなり子供たちを任せるわけじゃない。最初は教師に指導方法を教えてもらい、学生は補助役として参加する。読み書きの練習を手伝ったり、教材を準備したりするところから始めればいい」
エヴリンは目を瞬かせた。
教師を確保できなければ計画そのものが進まないと考えていた。けれど、教師がすべてを担当する必要はないのだ。
「それなら……参加できる学生が多ければ、子供たちの都合に合わせて日程を調整できますね」
「そういうことだ。もちろん、学生の善意だけに頼るわけにはいかない。負担が偏らないように当番を組み、活動時間も記録する必要がある」
「はい。それに、子供たちの年齢によって教える内容も変えたほうがよさそうです」
「君が現地で見てきたことが、ずいぶん役立っているね」
アルベルトの言葉に、エヴリンは少し照れたように笑った。
「私は、ただ話を聞いただけです」
「その『ただ話を聞く』ことが、誰にでもできるわけではないよ」
彼は何気なく言った。
けれど、エヴリンはその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前の自分なら、王太子である彼の隣にいることに恐縮し、自分の考えを口にする前に、間違っていないかどうかを気にしていただろう。
今だって不安はある。
それでも、自分が見たものや聞いたことを、誰かに伝えたいと思えるようになった。
「……ありがとうございます。もう少し、考えてみます」
「一人で全部を考えなくてもいい。僕も一緒に考えるよ」
アルベルトはそう言って、予算案の余白に新しい項目を書き加えた。
その横顔を見つめながら、エヴリンは小さく息を吸った。
彼は王太子として計画を進めている。けれど、彼女の意見をただ聞くだけでなく、一緒に悩み、同じ机の上で解決策を探してくれる。
そのことが、彼女には何より嬉しかった。
◇
翌日の放課後。
学院の小講堂には、地域交流活動に関心のある学生たちが集まっていた。
前方には黒板が置かれ、エヴリンが書き出した活動案が並んでいる。
アルベルトは少し離れた席で様子を見守っていた。今日は、彼が最初から説明するのではなく、エヴリン自身の言葉で計画を伝えることになっていたからだ。
「ええと……集まってくださって、ありがとうございます」
エヴリンは緊張で冷たくなった指をそっと握りしめた。
視線が集まる。
会議で反対意見を受けたときとは違う緊張だった。今度は、自分の提案に賛成してくれる人がいるかもしれない。その期待があるぶん、失望させることが怖かった。
「今回、私たちが考えているのは、王都西部の子供たちを対象にした、小さな学習活動です」
彼女は一度、参加者たちを見渡した。
「子供たちの中には、家の仕事や家族の世話で、決まった時間に学校へ通うことが難しい子もいます。だから、私たちは子供たちが来られる時間に合わせて、読み書きや簡単な計算を学べる場所を作りたいと思っています」
説明を終えると、前列に座っていた男子学生が手を挙げた。
「活動の趣旨は分かりました。ただ、僕たちには教える資格がありません。間違ったことを教えてしまったら、どうするんですか?」
「その点については、教師の方に協力をお願いして、教材と指導方法を確認してもらう予定です。学生は補助役から始めて、できることを少しずつ増やしていきます」
「教師の方が協力してくれる保証は?」
「……まだ、ありません」
エヴリンは正直に答えた。
ざわり、と小さな声が広がる。
彼女は一瞬だけ言葉に詰まったが、逃げるように視線を落とすことはしなかった。
「だからこそ、まずは学院に相談して、どこまで協力していただけるか確認する必要があると思っています。まだ決まっていないことを、決まったように説明するつもりはありません」
男子学生は少し驚いたようだったが、やがて納得したように頷いた。
次に手を挙げたのは、後方に座っていた女子学生だった。
「活動に参加したい気持ちはあります。でも、私たちにも授業や試験があります。続けられなくなったら、子供たちをがっかりさせてしまいませんか?」
「はい。だから、無理に長期間の参加をお願いするつもりはありません。短い時間でも参加できる仕組みにしたいんです。それに、最初から大勢の子供たちを受け入れるのではなく、少人数で試して、問題があれば見直すつもりです」
「それなら、参加する側も予定を立てやすそうですね」
女子学生は、手元の紙に何かを書き留めた。
少しずつ、質問の雰囲気が変わり始めていた。
最初は計画の欠点を探すような問いが多かった。しかし今は、どうすれば実現できるかを考えるための質問も出始めている。
その変化に気づいたエヴリンは、胸の中で張り詰めていたものが、ほんの少し緩むのを感じた。
そのときだった。
「一つ、いいかな」
講堂の入口付近から、落ち着いた声が響いた。
振り返ると、上級生らしい男子学生が立っていた。腕には分厚い資料を抱えている。
「王族の支援があるからといって、善意だけで始めていい活動ではないと思う。教材を用意して、場所を借りて、人を集める。それを続けるには、費用も責任者も必要だ。試験的な活動であっても、失敗すれば子供たちに影響が出る」
講堂が静まり返った。
「君の考えが間違っていると言いたいわけじゃない。ただ、実現できる見通しが曖昧なまま協力者を募るのは、少し無責任ではないかな」
エヴリンの喉が、きゅっと締まった。
彼の指摘は、もっともだった。
自分は子供たちのために何かをしたいと思っている。けれど、その気持ちだけで活動を始めれば、結局は誰かに負担を押しつけることになるかもしれない。
反論したいのではない。
彼の懸念を、なかったことにしたくないのだ。
エヴリンは黒板の前で背筋を伸ばした。
「ご指摘、ありがとうございます」
声は少し震えていた。それでも、最後まで言葉を続けた。
「おっしゃるとおり、今の計画には決まっていないことがたくさんあります。費用も、協力してくださる方の人数も、まだ十分に確定していません」
彼女は手元の資料を見た。
そこには、現地で聞き取った子供たちの生活時間や、必要とされている教材についての記録がある。
「でも、だからといって、何も確かめないまま諦めてしまえば、子供たちが今どんな状況にいるのか、私たちには分からないままです」
エヴリンは顔を上げた。
「最初の活動で、すべてを解決できるとは思っていません。むしろ、実際に始めてみなければ分からない問題が、きっと出てくると思います。だから、私たちは最初の段階から、活動にかかった費用や時間、子供たちの反応を記録して、続けられる方法を探したいんです」
彼女の緑色の瞳に、迷いはまだ残っていた。
それでも、その奥には自分で選んだ意志があった。
「私が現地で会った子供は、勉強したいと言っていました。でも、その子には家の仕事があって、毎日決まった時間に通うことは難しいんです。私たちが最初から完璧な仕組みを用意できないからといって、その子が学ぶ機会を得られない現状を、そのままにしておきたくありません」
静寂が落ちた。
エヴリンは、ゆっくりと息を吐いた。
「もちろん、無理に賛成してほしいわけではありません。危険や問題があるなら、教えてください。私も、皆さんと一緒に考えたいです」
その言葉を聞いたアルベルトは、静かに目を細めた。
彼女は、反対意見を敵として扱わなかった。
自分の考えを守るために相手を言い負かそうとするのでもなく、かといって、相手の言葉に押し切られて自分の意志を手放すのでもない。
必要な指摘は受け止め、それでも進みたい理由を、自分の言葉で伝えている。
それは、彼が王族として何度も見てきた会議の中でも、簡単にできることではなかった。
「……なるほど」
先ほどの上級生が、ゆっくりと口を開いた。
「それなら、活動を始める前に、実施条件を整理したほうがいい。必要な教材の一覧と、最低限必要な予算。それから、参加する学生の負担を確認するための表があれば、検討しやすくなると思う」
「本当ですか?」
「僕は計画の実現性を確かめたいだけだ。協力できることがあるなら、協力するよ。帳簿の整理なら、多少は経験がある」
エヴリンの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! ぜひ、お願いしたいです」
講堂のあちこちから、控えめな拍手が起こった。
大きな成果が決まったわけではない。
教師の協力も、予算も、まだこれからだ。
それでも、エヴリンの提案は、ただの理想ではなくなり始めていた。
◇
学生たちが帰り始めた頃、エヴリンは黒板に残った文字を消していた。
指先には白いチョークの粉がついている。
「お疲れさま」
アルベルトが隣に立った。
「アルベルト様。ずっと見ていらしたんですね」
「君が自分の言葉で説明すると決めたのだから、僕が先に話すわけにはいかないだろう?」
「……途中で、助けてほしいと思いました」
「そうか」
「でも、助けてもらう前に、自分で答えたいと思ったんです」
アルベルトは、彼女の横顔を見つめた。
「それで、十分だと思うよ」
「十分……ですか?」
「最初から完璧な答えを持っている人間なんていない。分からないことを認めて、それでも考え続ける。君は今日、それを皆に見せたんだ」
エヴリンは、手に持っていた布を胸元で握った。
褒められることには、少しずつ慣れてきたつもりだった。
けれど、アルベルトの言葉はいつも、表面的な成果ではなく、自分が努力した過程を見てくれているように感じられた。
「……アルベルト様は、どうしてそんなに私を信じてくださるんですか?」
思わず口から出た質問だった。
言ってから、エヴリンは慌てて視線を逸らした。
「す、すみません。変なことを聞いてしまって」
「いや」
アルベルトは少しだけ考えた。
彼女のように、自分の考えが足りないことを認めながら、それでも誰かのために行動しようとする人間を、彼は以前から知っていただろうか。
答えは、すぐには見つからなかった。
ただ、彼女が会議で反対意見を受け止めていた姿が、何度も頭に浮かんでくる。
「君が、僕の考えを変えてくれるからかもしれない」
「私が……?」
「僕はこれまで、計画を立てるとき、まず実現できるかどうかを考えてきた。もちろん、それは必要なことだ。でも君は、実現できるかを考える前に、誰がその計画を必要としているのかを確かめようとする」
彼はわずかに笑った。
「君と話していると、僕が見落としていたものに気づかされるんだ」
エヴリンは、返事ができなかった。
頬が熱くなっていく。
王太子から評価されているから、嬉しいのだろうか。
それだけではない気がした。
自分が大切にしているものを、彼も大切にしようとしてくれる。そのことが、胸の奥をくすぐるように温かかった。
「……私も、アルベルト様と一緒に考えるのは、好きです」
ようやく口にした言葉は、思っていたよりも小さかった。
アルベルトは一瞬、目を見開いた。
そして、いつもより少し柔らかな笑みを浮かべた。
「それは、嬉しいな」
それ以上、彼は何も言わなかった。
エヴリンも、何も聞かなかった。
ただ、二人で並んで黒板を片づけ、残った資料をまとめた。
窓の外では、夕暮れの光が学院の尖塔を金色に染めていた。
◇
その夜。
リヴィアは、王宮の庭園に面した回廊でルシアンと落ち合っていた。
夜風が花壇の白い花を揺らし、石畳にはランタンの光が淡く落ちている。
「それで、エヴリンは自分の言葉で計画を説明したのね」
「ええ。まだ課題は多いですけど、協力してくれる学生も現れました」
リヴィアは嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。最初から何もかも上手くいく必要はないものね」
「私もそう思います。以前の私なら、失敗するかもしれないことを始めるのが怖かったと思います。でも今は、分からないことがあるなら、確かめればいいんだって思えるようになりました」
「ずいぶん成長したわね、エヴリン」
「……はい。私も、少しだけそう思います」
エヴリンの変化を喜びながら、リヴィアはふと、彼女の言葉を自分自身に重ねた。
分からないことがあるなら、確かめればいい。
未来が見えないからといって、選ぶことを恐れ続ける必要はない。
けれど、彼女が向き合っているのは、学習活動のように一つずつ確認できる問題だけではなかった。
ルシアンとの未来。
王族同士の婚姻。
そして、リヴィア自身が、何を望んでいるのかという問い。
「……リヴィア?」
考え込んでいた彼女を、ルシアンが覗き込んだ。
「今度は君が、難しい顔をしているね」
「そ、そんな顔はしていません」
「そうかな。君が考え込むと、指先が落ち着かなくなる」
言われて、リヴィアは慌てて両手を重ねた。
「観察しすぎです」
「君のことだからね」
さらりと言われて、リヴィアの頬が熱くなった。
ルシアンはからかうように微笑んだが、すぐにその表情を和らげた。
「何かあった?」
リヴィアは少し迷ったあと、正直に答えた。
「エヴリンを見ていて、思ったんです。彼女は不安があっても、自分がしたいことを一つずつ形にしようとしている。私も、未来が分からないことを理由に、考えるのを先延ばしにしてはいけないのかもしれないって」
ルシアンは黙って聞いていた。
「でも、結婚については……まだ、答えを出せません」
「うん」
彼は、驚くほどあっさりと頷いた。
「それは、前にも聞いたよ」
「……怒っていませんか?」
「どうして?」
「いつまでも待たせてしまうから」
ルシアンは少しだけ首を傾げ、それから回廊の手すりに片手を置いた。
「僕は、君に急いで答えてほしいわけじゃない。君が自分の意思で選んでくれることが大切なんだ」
夜風が、彼の黒みがかった青い髪を揺らした。
「ただ、一つだけお願いしてもいいかな」
「お願い?」
「答えを出すまでの間も、僕と一緒に新しいことをしてほしい。行ったことのない場所へ行ったり、知らないものを見たり。君が何を好きで、何を嫌だと思うのか、もっと知りたいんだ」
リヴィアは目を見開いた。
それは、答えを迫る言葉ではなかった。
今すぐ未来を決めるのではなく、未来を選ぶための時間を、彼と一緒に過ごしてほしいという願いだった。
「……それなら、私も」
リヴィアは、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
「私も、あなたのことをもっと知りたいです。王子としてのあなたではなく、ルシアン自身のことを」
ルシアンの瞳が、優しく細められた。
「それは楽しみだな。君の知らない僕を、少しずつ見せていくよ」
「変なことを企んでいませんか?」
「さて、どうだろう」
「ルシアン!」
彼が楽しそうに笑い、リヴィアも思わず笑ってしまった。
二人の手は、しばらく重なったままだった。
結婚の答えは、まだ出ていない。
それでも、答えを出すまでの時間をどう過ごすかなら、今ここで選ぶことができる。
リヴィアは、彼の手を握り返した。
未来はまだ、はっきりとは見えない。
けれど、見えないからこそ、自分の足で確かめながら進んでいきたい。
誰かに決められた物語ではなく、自分たちが選んだ物語を。
その最初の一歩は、もう始まっていた。




