王太子の知らない一面
エヴリンが王宮での相談を終えてから、三日が経った。
王都西部で始める予定の学習会については、少しずつ準備が進んでいた。王宮の担当者たちが使用できる建物や教材を調べ、エヴリンも引き続き住民から話を聞くための計画を立てている。
まだ決まっていないことは多い。
それでも、以前のように何をすればいいのか分からず立ち止まることは少なくなっていた。
そして今日、エヴリンはアルベルトから再び呼び出されていた。
「……今度は何の相談かしら」
学院の廊下を歩きながら、エヴリンは小さく呟いた。
王太子から声をかけられること自体には、少しずつ慣れてきた。けれど、彼と二人で話す機会が増えるたび、以前とは違う緊張を覚えるようになっていた。
それがなぜなのか、エヴリン自身にもよく分からない。
学習会の準備について考えているだけなのに、アルベルトの笑顔を思い出すと、なぜか胸が落ち着かなくなるのだ。
「……きっと、慣れないことをしているからよね」
そう結論づけ、エヴリンは指定された教室へ向かった。
◇
教室に入ると、アルベルトが窓際の机に腰掛けていた。
金色の髪に赤い瞳。いつものように整った姿勢で資料を読んでいた彼は、エヴリンに気づくと顔を上げた。
「来てくれてありがとう」
「お待たせいたしました。学習会について、何か問題がありましたか?」
「いや、準備は順調だよ。今日は少し別の話をしたくてね」
「別の話、ですか?」
エヴリンは首を傾げた。
アルベルトは手元の書類を片付け、彼女に椅子を勧めた。
「実は、来週の学院行事について相談があるんだ」
「学院行事?」
「来週、各学年の代表が集まって、地域との交流活動について意見を出し合う会議があるだろう?」
「ああ、はい。掲示板で見ました」
エヴリンは頷いた。
学院では、学業だけでなく、地域社会への貢献も重視されている。毎年、生徒たちが地域の施設を訪問したり、必要な支援について話し合ったりする機会が設けられていた。
「今回、私は王宮の計画と学院の活動をうまく連携させられないかと考えているんだ。君が関わっている学習会も、その一つとして提案できるかもしれない」
「私たちの計画を、学院の皆さんにも手伝っていただくということですか?」
「そう。もちろん、無理に協力を求めるつもりはないよ。生徒たちが自分の意志で参加できる形にしたい」
エヴリンは少し考え込んだ。
学院には、教えることが得意な生徒もいれば、教材を作ることに向いている生徒もいるだろう。複数の人が協力すれば、自分一人では思いつかなかった方法も見つかるかもしれない。
「それは、とても良い考えだと思います」
「君も会議に参加してみないか?」
「えっ、私がですか?」
エヴリンは目を丸くした。
「でも、私は学年代表ではありませんし、王宮の計画についても、まだ勉強している途中です」
「だからこそ、参加してほしいんだ」
アルベルトは穏やかに答えた。
「君は実際に現地へ行き、住民の話を聞いてきた。資料だけでは分からないことを知っている。そうした経験は、会議でも役に立つはずだよ」
エヴリンは戸惑った。
自分の経験が役に立つと言われるのは嬉しい。
けれど、大勢の生徒たちの前で意見を述べるとなれば、話は別だった。
「……少し、考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろん。無理に決める必要はないよ」
アルベルトは即座に頷いた。
「君自身が、参加したいと思うかどうかが大切だからね」
その言葉に、エヴリンはほっと息を吐いた。
彼はいつも、自分に選択を委ねてくれる。
だからこそ、期待に応えたいという気持ちも強くなっていた。
◇
その日の放課後、エヴリンはリヴィアと学院の中庭で待ち合わせていた。
リヴィアは木陰のベンチに座り、膝の上で本を開いていたが、エヴリンの姿を見つけると顔を上げた。
「お待ちしていましたわ、エヴリン」
「ごめんね、少し遅くなっちゃった」
「構いませんわ。それで、今日は何かご相談があるのでしょう?」
リヴィアは本を閉じ、微笑んだ。
長い付き合いの中で、彼女はエヴリンが何かを話したそうにしていると、すぐに気づくようになっていた。
「実はね、アルベルト様から学院の会議に参加してみないかって誘われたの」
「まあ。それは素晴らしいことですわね」
「でも、私なんかが参加していいのかなって……」
エヴリンは膝の上で指を組んだ。
「学年代表でもないし、専門的な知識もないでしょう? みんなの前で変なことを言ってしまったらどうしようって思うの」
リヴィアは、すぐには答えなかった。
代わりに、庭園を吹き抜ける風に揺れる花々へ目を向けた。
「エヴリンは、どうして参加するのが不安なのですか?」
「え?」
「知識が足りないからでしょうか。それとも、失敗するのが怖いからでしょうか?」
エヴリンは口を閉じた。
どちらも当てはまる。
けれど、本当に怖いのは、失敗して誰かを失望させることなのかもしれなかった。
「……両方、かな」
小さく答えると、リヴィアは頷いた。
「でしたら、一つずつ考えてみましょう」
「一つずつ?」
「知識が足りないのなら、これから学べばいいのです。失敗するのが怖いのなら、失敗したときにどうすればよいのかを考えておけばいい」
リヴィアは、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「私も、以前は失敗しないために、何も選ばない方がいいと思っていました。でも、それでは何も変わらないのですよね」
「リヴィア……」
「それに、アルベルト様は、エヴリンに完璧な答えを求めているわけではないと思いますわ」
エヴリンは目を伏せた。
確かに、彼は一度も完璧であれとは言わなかった。
ただ、自分の意見を聞きたいと言ってくれた。
「……そうね。私、少し難しく考えすぎていたのかもしれない」
「そうかもしれませんわね」
「リヴィア、そこは否定してくれてもいいのに!」
エヴリンが頬を膨らませると、リヴィアは楽しそうに笑った。
「ふふっ。ですが、難しく考えてしまうのも、エヴリンが真剣だからでしょう?」
「……もう。そういうところ、ずるいわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがてエヴリンは、ゆっくりと顔を上げた。
「私、会議に参加してみる。まだ分からないことは多いけれど、現地で見たことを伝えるくらいなら、できると思うから」
「ええ。応援していますわ」
「ありがとう、リヴィア!」
エヴリンの表情には、先ほどまでの迷いとは違う明るさが戻っていた。
◇
一方、その頃。
学院の別棟にある生徒会室では、アルベルトが一人、窓の外を眺めていた。
机の上には、来週の会議に関する資料が並んでいる。
彼はそのうちの一枚を手に取り、エヴリンの名前が記された参加予定者の欄に目を落とした。
彼女が参加すると決めたのかどうか、まだ正式な返事は届いていない。
それなのに、彼は気づけば、彼女が会議でどんな意見を述べるのかを考えていた。
「……少し、期待しすぎているのかもしれないな」
自分に言い聞かせるように呟く。
エヴリンは、彼にとって興味深い存在だった。
身分や立場だけで人を判断せず、自分の目で見たことを大切にする。分からないことがあれば、素直に尋ねることができる。
そして、自分の考えが間違っている可能性も受け入れようとする。
王太子として多くの人と接してきたアルベルトにとって、そうした姿勢は新鮮だった。
だが、最近はそれだけではない。
彼女が笑うと、なぜか自分まで嬉しくなる。
彼女が困っていると、力になりたいと思う。
その感情を、彼はまだ明確な言葉にできずにいた。
「……今は、考えるべきことがほかにもある」
アルベルトは資料を机に置いた。
まずは、目の前の計画を成功させること。
それから、エヴリンが自分自身の意志で歩いていけるよう、必要なときに支えられる人間でありたい。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
けれど、分からないからこそ、急いで答えを決める必要はないのだろう。
窓の向こうでは、夕日が学院の屋根を赤く染め始めていた。
アルベルトは静かに息を吐き、再び書類へと視線を戻した。
来週の会議は、きっと彼にとっても新しい一歩になる。
そして、その一歩がエヴリンとの関係を少しずつ変えていくことになるのかもしれなかった。




