小さな声を届けるために
王都西部の訪問から二日後。
王立セイレーン学院の図書館では、エヴリン・ローゼンが机いっぱいに広げた資料と格闘していた。
「うーん……やっぱり、難しいわね」
地図に書き込んだ印を見比べながら、エヴリンは小さく唸った。
先日の訪問で分かったことは多い。
子供たちの中には、家の仕事や弟妹の世話で、決まった時間に学習施設へ通うことが難しい者がいる。また、文字を学びたいと思っていても、教わる機会そのものがない者もいた。
ただ施設を建てるだけでは、すべての問題を解決できない。
それなら、どうすればいいのか。
「時間を選べるようにする……でも、先生が足りなくなってしまうかもしれないし」
エヴリンは紙に書いた案を見つめ、鉛筆を置いた。
考えれば考えるほど、簡単にはいかないことが分かってくる。
それでも、諦めたくはなかった。
「ここで悩んでいても、仕方ないわよね。もう一度、話を聞いてみよう」
エヴリンは新しい紙を取り出し、訪問先で聞きたいことを書き始めた。
今度は、こちらの考えを伝えるためではなく、相手の話を聞くために。
◇
「エヴリン、まだ残っていたの?」
声をかけられて顔を上げると、リヴィアが本を抱えて立っていた。
灰金色の髪が窓から差し込む光を受けて柔らかく輝き、青灰色の瞳が机の上の資料へ向けられる。
「ええ。もう少しだけ調べてから帰ろうと思って」
「先日の計画についてですか?」
「うん。実際に行ってみたら、考えなきゃいけないことがたくさんあったの」
エヴリンは訪問先で見聞きしたことを説明した。
子供たちの生活。
学習時間の問題。
そして、荷車から落ちた木箱によって起きた小さな事故。
話を聞き終えたリヴィアは、少し考え込んだ。
「一つの施設で、すべてを解決しようとする必要はないのかもしれませんわね」
「どういうこと?」
「例えば、最初から大きな施設を完成させることだけを目標にするのではなく、小規模な学習会を開いてみるのはいかがでしょう。実際に参加できる子供たちの人数や、必要な時間帯も分かるでしょうし」
エヴリンは目を見開いた。
「あ……そうか!」
思わず身を乗り出す。
「最初から全部を決めようとするから、難しくなっていたのね。小さく始めて、必要なものを少しずつ増やしていけばいいんだわ」
「もちろん、実施するには王宮の方々との調整が必要でしょうけれど」
「うん! ありがとう、リヴィア!」
エヴリンは勢いよく紙を引き寄せ、新しい案を書き始めた。
その様子を見て、リヴィアは微笑んだ。
「お役に立てたのなら嬉しいですわ」
「すごく助かったわ。私、一人で考えていると、どうしても一番いい方法を見つけようとしてしまうの」
「私も、以前はそうでしたから」
リヴィアは少しだけ視線を落とした。
間違えない答えを探し続け、何かを選ぶことそのものを恐れていた頃。
今でも迷いがなくなったわけではない。
けれど、最初から完璧な答えを見つける必要はないのだと、少しずつ理解できるようになった。
「考え続けることも大切ですが、実際に一歩踏み出してみなければ分からないこともありますわ」
「……そうね」
エヴリンは頷いた。
「私、明日アルベルト様に相談してみるわ。まずは小さな学習会を試してみたいって」
「きっと、真剣に聞いてくださると思います」
「うん。私も、ちゃんと自分の考えを伝えてみる」
そう言ったエヴリンの表情には、以前よりも確かな意志が宿っていた。
◇
翌日、エヴリンは王宮の一室でアルベルトと向かい合っていた。
机の上には、彼女がまとめた計画案が置かれている。
「最初から大きな施設を建設するのではなく、まずは週に数回、小規模な学習会を開く……ということだね」
「はい。実際に参加できる子供たちの人数や、必要な時間帯を確認しながら、少しずつ内容を整えていくのがいいと思います」
エヴリンは緊張しながらも、できるだけ落ち着いて説明した。
「それから、読み書きや計算を教えるだけでなく、子供たちが家庭の事情で来られない場合には、別の日に学べるようにすることも検討したいです」
アルベルトは資料に目を通し、何度か頷いた。
「なるほど。施設を整える前に、実際の需要を確かめるわけだね」
「はい。ただ、先生の確保や教材の費用など、まだ解決しなければならない問題はあります」
「その点は王宮で調整しよう。君の案なら、既存の建物の一室を借りて試験的に始められる可能性もある」
エヴリンの顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ。もちろん、関係者との協議は必要だけれどね」
アルベルトは資料を机に置いた。
「よく考えてくれたね、エヴリン。君が現地で話を聞いてくれたからこそ、見えてきた問題だと思う」
「私は、ただ話を聞いただけです」
「その『ただ』が大切なんだよ」
アルベルトは穏やかな声で続けた。
「相手の立場に立って考えようとすることは、簡単なようで難しい。まして、王宮にいると、報告書の数字だけで状況を理解したつもりになってしまうこともあるからね」
エヴリンは彼を見つめた。
王太子であるアルベルトも、完璧な答えをすべて知っているわけではない。
分からないことを認め、必要ならば他人の意見を聞き、より良い方法を探している。
それは、彼女が思っていたよりもずっと身近な姿だった。
「……アルベルト様も、迷われることがあるのですね」
「もちろん。私だって一人の人間だからね」
彼は苦笑した。
「王太子だからといって、何でも正しく判断できるわけではないよ。だからこそ、周囲の人々の声を聞かなければならないんだ」
「私も、もっといろいろなことを学びたいです」
「それなら、これからも一緒に考えていこう」
アルベルトは自然にそう告げた。
エヴリンは一瞬、返事に詰まった。
何気ない言葉だったのだろう。
それでも、自分の意見を必要としてくれることが嬉しかった。
「……はい。よろしくお願いします」
彼女は微笑んだ。
◇
相談を終えて王宮の廊下を歩いていたとき、エヴリンは窓の外に小さな庭園を見つけた。
そこには、手入れをする庭師と、花壇の周りを走り回る子供たちの姿があった。
彼らの笑い声が、開いた窓から微かに聞こえてくる。
エヴリンは足を止めた。
自分が考えている計画が、すぐに大きな成果を生むとは限らない。
すべての子供に学ぶ機会を与えるまでには、長い時間がかかるかもしれない。
それでも、最初の一歩を踏み出すことには意味がある。
「……頑張ろう」
小さく呟いたときだった。
「エヴリン?」
振り返ると、アルベルトが少し離れたところに立っていた。
「どうしたんだい?」
「いえ、何でもありません。これからのことを考えていただけです」
「そうか」
彼は彼女の隣に並び、窓の外を眺めた。
「君と話していると、私も考えさせられることが多いよ」
「私と、ですか?」
「うん。君は、自分にできることを探そうとしているだろう。それを見ると、私も王太子として何をすべきなのか、改めて考えたくなるんだ」
エヴリンは頬を赤らめた。
「そ、そんな大げさなことでは……」
「大げさではないよ」
アルベルトは微笑んだ。
「君の考えは、君自身が思っている以上に、誰かの力になるかもしれない」
エヴリンは、しばらく言葉を返せなかった。
そして、やがて小さく笑った。
「……それなら、もっと自信を持てるように頑張ります」
「楽しみにしているよ」
二人は再び歩き始めた。
まだ、この計画がどこまで実現するのかは分からない。
けれど、エヴリンはもう、誰かに答えを与えてもらうのを待つだけの少女ではなかった。
自分で考え、行動し、必要ならば間違いを認めてやり直す。
それが、彼女の選んだ一歩だった。
そして、その歩みを見守るアルベルトの胸にも、少しずつ新しい感情が芽生え始めていた。
それが何なのか。
二人とも、まだはっきりとは気づいていなかった。




