初めて訪れる場所
約束の日の朝、エヴリンは鏡の前で何度も服装を確認していた。
肩までの明るい茶色の髪を整え、学院の制服の襟元を直す。今日は王都の西側にある地区を訪問する予定だった。
王太子アルベルトと、王宮から派遣された担当者たちに同行し、子供たちの学習環境について調べる。
それだけのことなのに、胸の奥には緊張が広がっていた。
「……大丈夫。まずは話を聞くだけなんだから」
自分に言い聞かせ、エヴリンは鞄を手に取った。
誰かの役に立ちたい。
そう願ったのは、自分自身だった。
だからこそ、途中で投げ出したくはなかった。
◇
王宮の正門前では、すでにアルベルトが待っていた。
今日は王太子としての華やかな正装ではなく、白いシャツに落ち着いた色の上着を合わせた、比較的簡素な服装だった。
それでも立ち姿には気品があり、近くに控える護衛たちの存在もあって、彼が王族であることは隠しようがない。
「おはよう、エヴリン」
「おはようございます、アルベルト様。お待たせしてしまいましたか?」
「いや、私も今来たところだよ」
アルベルトは微笑んだ。
「今日はよろしく頼むね」
「こちらこそ。私にできることがあれば、精いっぱいお手伝いします」
その返事を聞くと、アルベルトは満足そうに頷いた。
やがて、王宮の担当者である年配の男性が地図を広げ、訪問先について説明を始めた。
「今回の候補地は、この旧倉庫でございます。建物の広さは十分で、改修費用も比較的少なく済む見込みです」
「周辺には、どのくらいの子供たちが暮らしているのですか?」
エヴリンが尋ねると、男性は手元の資料を確認した。
「正確な人数は把握できておりませんが、一定数の子供がいることは確認しております」
「正確には分からないのですね……」
エヴリンは地図を見つめた。
昨日も同じ疑問を抱いたが、やはり書類だけでは十分な情報が得られないらしい。
「それなら、現地でお話を聞いてみましょう」
アルベルトが穏やかに告げた。
「施設を造ることが目的ではない。必要としている人たちに、きちんと届くものにしたいからね」
その言葉に、エヴリンは力強く頷いた。
◇
王都の中心部を離れるにつれ、街並みは少しずつ変化していった。
大きな商店が並ぶ通りから、狭い路地や小さな工房が集まる地域へ。
建物の壁には年月を感じさせるひびがあり、窓辺には洗濯物が干されている。通りの端では、荷車を押す男性が額の汗を拭っていた。
やがて、一行は目的の旧倉庫へ到着した。
確かに、建物は広かった。
石造りの壁は丈夫で、内部にも十分な空間がある。改修すれば、いくつもの教室を設けられそうだった。
しかし、エヴリンが気になったのは、建物そのものよりも周囲の様子だった。
近くの家から、小さな子供が水桶を運んでいる。
別の家では、少年が大人の仕事を手伝い、木箱を積み上げていた。
少し離れた場所には、数人の子供たちが集まっている。
彼らは一行の姿を見ると、不思議そうにこちらを眺めた。
「……あの子たちに、少し話を聞いてもよろしいでしょうか?」
エヴリンが尋ねると、担当者は戸惑ったようにアルベルトを見た。
「王太子殿下、いかがいたしましょう」
「構わないよ。ただし、無理に聞き出すことはしないように」
「承知いたしました」
アルベルトはエヴリンに目を向けた。
「君が話しやすいと思う方法でいい。私たちも近くにいるから」
「ありがとうございます」
エヴリンは子供たちに近づいた。
「こんにちは。少しお話を聞いてもいいかしら?」
最初、子供たちは警戒していた。
立派な服を着た見知らぬ人々が突然やって来たのだから、当然だろう。
エヴリンは無理に距離を詰めず、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「私たちは、この辺りで子供たちが勉強できる場所を作れないか、考えているの。みんなが普段、どんなふうに過ごしているのか教えてもらえたら嬉しいわ」
「……勉強する場所?」
一人の少年が首を傾げた。
「うん。読み書きや計算を学べる場所よ」
「でも、俺、昼間は父ちゃんの手伝いがあるよ」
少年の言葉に、エヴリンは頷いた。
「そうなのね。毎日、決まった時間に通うのは難しい?」
「うん。仕事が終わる時間も日によって違うし」
隣にいた少女も、小さく口を開いた。
「私も、弟の面倒を見なきゃいけないから……」
エヴリンは二人の言葉を、一つずつ丁寧に聞いた。
学校を造れば、それで全員が通えるわけではない。
学びたいと思っていても、家庭の事情で時間を確保できない子供がいる。
その事実が、彼女の胸に重く響いた。
「教えてくれてありがとう。みんなの話を、ちゃんと持ち帰るわ」
エヴリンが微笑むと、少年は少しだけ表情を和らげた。
「……本当に、聞いてくれるの?」
「もちろんよ」
彼女はまっすぐに答えた。
「せっかく勉強する場所を作っても、みんなが通えなかったら意味がないもの」
少年は照れくさそうに頬を掻いた。
その様子を、少し離れたところからアルベルトが見守っていた。
彼は担当者に指示し、周辺の住民にも話を聞けるよう手配を始めた。
エヴリンの提案を、単なる意見として終わらせるつもりはなかった。
◇
住民たちへの聞き取りを進めていたとき、不意に路地の奥から大きな音が響いた。
ガタンッ!
「わっ!」
積み上げられていた木箱が崩れ、その陰から小さな男の子が飛び出してきた。
どうやら、荷車のそばで遊んでいたらしい。
同時に、荷物を積んだ荷車が傾き、車輪が石畳の段差に引っかかった。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
荷車の上にあった木箱が滑り落ち、男の子の方へ転がっていく。
エヴリンは考えるより先に駆け出していた。
「こっちへ!」
少年の腕を引き、道の端へと誘導する。
その直後、アルベルトも駆け寄り、転がってきた木箱を両腕で受け止めた。
ドンッ、と鈍い音が響く。
護衛たちがすぐに駆けつけ、荷車を支えた。
「殿下、お怪我はございませんか!」
「私は大丈夫だ。それより、この子を確認してくれ」
アルベルトは木箱を地面に下ろし、少年の様子を確かめた。
エヴリンも膝をつき、少年の肩にそっと手を添える。
「大丈夫? どこか痛いところはない?」
少年は驚いた顔で首を横に振った。
「……うん。大丈夫」
「よかった……」
エヴリンは胸を撫で下ろした。
少し遅れて、荷車を押していた男性が駆け寄ってきた。
「す、すみません! 荷物が崩れてしまって……!」
「誰も怪我をしていないなら、まずはよかった」
アルベルトは落ち着いた声で答えた。
「ただ、荷物の積み方と車輪の状態は確認した方がいい。次に同じことが起きないようにしよう」
男性は何度も頭を下げた。
騒ぎが収まると、周囲の住民たちもほっとした様子を見せた。
エヴリンは少年が母親のもとへ戻るのを見届けてから、ゆっくりと立ち上がった。
足が少し震えている。
危険が去ったあとになって、ようやく恐怖が込み上げてきたのだ。
「エヴリン」
アルベルトが心配そうに声をかけた。
「君こそ大丈夫かい?」
「は、はい。私は平気です」
「本当に?」
「……少しだけ、驚きましたけれど」
そう答えると、アルベルトは安堵したように息を吐いた。
「無事でよかった」
その声がいつもより低く、真剣だったため、エヴリンは思わず彼を見つめた。
「アルベルト様も、お怪我はありませんか?」
「ああ。問題ないよ」
彼は微笑んだ。
「それにしても、君は迷わず助けに向かったね」
「そんな……。あの子が危なかったから、つい」
「その判断は間違っていなかったと思う。でも、次からは自分の安全も考えてほしい」
エヴリンは少し驚いた。
叱られると思っていたわけではない。
ただ、彼が自分のことまで気にかけてくれたのが、意外だった。
「……はい。気をつけます」
アルベルトは頷き、彼女の顔をもう一度確かめるように見つめた。
「君が誰かを助けようとする気持ちは、素晴らしいと思うよ。だからこそ、君自身も大切にしてほしいんだ」
エヴリンの頬が、ほんの少し赤くなった。
彼女は何か答えようとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
◇
帰りの馬車の中で、エヴリンは窓の外を眺めていた。
今日、目にしたものが頭の中を巡っている。
学びたくても時間がない子供たち。
生活のために働く人々。
そして、ほんの小さな事故が誰かの怪我につながりかねない日常。
自分が考えていた計画は、まだ入り口に立ったばかりなのだ。
「……もっと、知らなければいけませんね」
呟くと、向かいに座るアルベルトが顔を上げた。
「そうだね。でも、今日だけでも多くのことが分かったと思う」
「はい。私、子供たちが勉強できる場所を作れば、それでいいのだと思っていたのかもしれません」
エヴリンは膝の上で手を重ねた。
「でも、本当に必要なのは、子供たちが無理なく学べる方法を考えることなのですね」
「そのとおりだと思う」
アルベルトは頷いた。
「一つの施設だけで、すべてを解決することは難しいだろう。だから、今回の調査をもとに、いくつかの方法を検討したい」
「私も、もっと考えてみます」
「頼りにしているよ」
その言葉に、エヴリンは微笑んだ。
誰かに頼りにされることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
そして同時に、自分の言葉や行動には責任が伴うのだということも感じていた。
これから、うまくいかないこともあるだろう。
計画が思いどおりに進まないことも、誰かの意見と自分の考えが食い違うこともあるはずだ。
それでも、目を逸らしたくなかった。
「アルベルト様」
「何かな?」
「今日、私を連れてきてくださって、ありがとうございました」
エヴリンはまっすぐに彼を見た。
「私、もっと勉強します。そして、次に来るときには、今日よりも具体的な提案ができるように頑張ります」
アルベルトは一瞬驚いたあと、柔らかな笑みを浮かべた。
「楽しみにしているよ」
馬車は夕日に染まる街並みを進んでいく。
二人の間には、まだ言葉になっていない感情があった。
けれど今は、それを急いで確かめる必要はない。
目の前にある課題に向き合いながら、互いを少しずつ知っていけばいいのだから。
エヴリンは窓の外へ視線を戻した。
自分の選んだ一歩が、いつか誰かの未来につながることを願いながら。




