王太子と彼女の約束
翌日の放課後、エヴリンは王立セイレーン学院の図書館にいた。
目の前には、昨日アルベルトから渡された資料が広げられている。王都周辺の地図や施設の候補地を記した書類、そして学習支援の計画案。
普段なら、授業で必要な本を探すだけで満足していたエヴリンにとって、これほど多くの書類を読み込むのは初めての経験だった。
「うーん……やっぱり、地図だけじゃ分からないことが多いわね」
頬杖をつきながら呟く。
昨日、アルベルトと話し合ったときには、いくつもの考えが浮かんだ。けれど、改めて資料を読み返すと、実際に計画を進めるには知らなければならないことが山ほどある。
子供たちが暮らしている地域。
家の仕事を手伝っている子供の数。
教える人を確保できるかどうか。
そして、支援を必要としている人たちが、本当に望んでいること。
どれも簡単には答えが出せそうになかった。
「……でも、分からないからって、何もしないのは違うわよね」
エヴリンは背筋を伸ばした。
まずは実際に現地を見て、そこで暮らす人たちの話を聞いてみよう。
そう決めて資料をまとめていると、向かい側から一冊の本が差し出された。
「その計画について調べているのかい?」
「アルベルト様!」
顔を上げると、金色の髪をした王太子が立っていた。
白と金を基調とした制服姿の彼は、周囲の生徒たちの視線を集めながらも、いつもどおり穏やかな表情を浮かべている。
「昨日の話が気になってね。関連する記録がないか、私も調べていたんだ」
「わざわざ図書館まで?」
「君だけに任せるわけにはいかないだろう?」
アルベルトは向かい側の椅子を引いた。
「それに、私自身も現場について知らないことが多い。王宮の資料だけで判断するより、実際に調べた方がいいと思ったんだ」
エヴリンは少し驚いた。
王太子という立場なら、誰かに調査を任せることもできるはずだ。それでも彼は、自分で資料を探し、計画を理解しようとしている。
「……アルベルト様は、いつもそのように努力されているのですか?」
「いつも、というわけではないよ。私だって、知らないことを知らないままにしてしまうことはある」
アルベルトは苦笑した。
「だからこそ、気づいたときには学ばなければならないと思っているんだ」
その言葉に、エヴリンは小さく微笑んだ。
「私も、もっと勉強しなくてはいけませんね」
「君はすでに十分、真剣に考えてくれていると思うけれど」
「でも、考えるだけでは、何も変わりませんから」
エヴリンは手元の地図を見つめた。
「実際に子供たちが暮らしている場所へ行って、何に困っているのかを聞きたいです。私たちが良いと思っていることと、向こうが必要としていることは、違うかもしれませんから」
「……そうだね」
アルベルトは真剣な表情で頷いた。
「では、明後日、候補地の一つを訪問しよう。王宮の担当者にも同行してもらうつもりだ」
「私もご一緒してよろしいのですか?」
「もちろん。そのために君に相談したのだから」
エヴリンの胸が温かくなった。
自分の意見が、誰かの役に立つかもしれない。
それは、以前の彼女が想像していたよりもずっと大きな喜びだった。
◇
その日の昼休み、エヴリンは庭園でリヴィアと昼食を取っていた。
リヴィアは淡い青色の制服姿で、膝の上に置いた本を閉じると、向かいに座る友人へ視線を向けた。
「それで、昨日のアルベルト様とのお話はどうなりましたの?」
「えっ? ど、どうして知っているの?」
「昨日、お二人が並んで歩いていらっしゃるところを見かけましたから」
リヴィアは微笑んだ。
「何か大切なお話をされているようでしたので、声をかけるのは控えましたの」
「あれは、王都の子供たちのための計画についてなの」
エヴリンは慌てて説明した。
学習支援の施設を増やすこと。
実際に地域を訪問して、住民の意見を聞くこと。
そして、明後日には候補地の一つを見に行く予定であること。
リヴィアは興味深そうに話を聞いていた。
「素晴らしいことですわね。エヴリン自身が、計画に関わることになったのですね」
「うん。でも、私に何ができるのか、まだよく分からないの」
「それでも、やってみたいと思ったのでしょう?」
「……うん」
エヴリンは頷いた。
「誰かに助けてもらうだけじゃなくて、私も誰かの役に立ちたいの。もちろん、すぐに何かができるようになるとは思っていないけれど」
リヴィアは優しく微笑んだ。
「でしたら、まずは一歩ずつ進めばよいのではありませんか。私も、そうすることにしたのですから」
「リヴィアも?」
「ええ。自分の未来について、一度にすべてを決めようとするのはやめましたの」
リヴィアは、昨日の水路で見た古い帳簿を思い出した。
「分からないことがあれば調べる。迷ったら考える。必要なら、誰かに相談する。そうやって少しずつ進めばいいのだと思いますわ」
「……そっか」
エヴリンは目を細めた。
「なんだか、リヴィアらしい答えね」
「そ、そうでしょうか?」
「うん。前だったら、もっと難しく考えていた気がするもの」
リヴィアは思わず口を閉じた。
確かに、以前の自分なら、失敗しないための答えを探し続けていたかもしれない。
けれど、今は違う。
間違えることを恐れて何もしないより、選んだことに責任を持ちながら進んでいきたい。
「……少しは成長できたのでしょうか」
「もちろん!」
エヴリンは笑顔で答えた。
「それに、私も頑張るからね。今度は、リヴィアに頼ってばかりじゃなくて、私から相談に乗れるようになりたいもの」
「それは心強いですわ」
二人は顔を見合わせ、笑い合った。
そのとき、庭園の向こうからアルベルトの姿が見えた。
彼は数人の生徒と言葉を交わしたあと、こちらに気づくと軽く手を上げた。
「エヴリン、リヴィア。ここにいたのか」
「アルベルト様?」
「明後日の訪問について、担当者との調整が済んだんだ。詳しい予定を伝えておこうと思ってね」
エヴリンは立ち上がり、彼の話を聞こうとした。
その様子を見ていたリヴィアは、そっと一歩下がった。
「では、私は先に教室へ戻りますわね」
「リヴィア、ありがとう!」
エヴリンが振り返ると、リヴィアは優しく微笑んだ。
「頑張ってくださいませ。エヴリンなら、きっと大丈夫ですわ」
そう言い残し、リヴィアは庭園を後にした。
◇
夕方、学院の廊下を歩いていたアルベルトは、ふと足を止めた。
窓の外では、エヴリンが教師と話しながら、明後日の訪問に必要な資料を確認している。
彼女は何度も頷き、ときには分からないことを尋ね、ときには自分の考えを伝えていた。
その表情は真剣で、けれど楽しそうでもあった。
アルベルトは、知らず知らずのうちに微笑んでいた。
彼女は、誰かに言われたから動いているのではない。
自分で考え、自分で選び、自分の意志で前に進もうとしている。
それが、彼には眩しく感じられた。
「……本当に、不思議な人だな」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
王太子として、彼はこれまで多くの人々と接してきた。
自分に賛同する者もいれば、利益を求めて近づく者もいる。王族という立場に期待を寄せる者も少なくない。
しかし、エヴリンは違った。
彼女は彼を王太子として敬いながらも、必要ならば疑問を口にする。そして、自分にできることを探そうとする。
そんな彼女と話していると、アルベルト自身も、ただ与えられた役目を果たすだけではなく、自分が本当に何をしたいのかを考えたくなるのだった。
彼は窓から離れ、再び歩き始めた。
まだ、彼女に伝えたいことは言葉になっていない。
今はまず、二人で取り組む計画を成功させたい。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
けれど、焦る必要はないのだろう。
自分の未来を自分で選ぶのは、リヴィアだけではないのだから。
アルベルトは、夕日に染まる廊下を静かに進んでいった。




