それぞれの一歩
ヴァロリア王国の王都から戻った翌日、リヴィアは王立セイレーン学院の庭園を歩いていた。
昨日の旧水路で見た古い水門や、管理者たちが残した記録が、まだ頭の片隅に残っている。
けれど、それ以上に思い出してしまうのは、帰り道にルシアンと手をつないだときのことだった。
「……もう、本当に」
リヴィアは頬を押さえ、小さく息を吐いた。
あのときは自然に手を握り返せたのに、今になって思い出すと恥ずかしくなる。
結婚については、まだ答えを出せていない。
それでも、彼と過ごす時間をもっと増やしたいと思った。その気持ちだけは、以前よりもはっきりしている。
「リヴィア?」
聞き慣れた声に振り向くと、エヴリンが小走りで近づいてきた。
肩までの明るい茶色の髪が揺れ、緑色の瞳が不思議そうにリヴィアを見つめている。
「朝から何を考えていたの? ずいぶん幸せそうな顔をしていたけれど」
「そ、そんな顔はしていませんわ」
「本当に?」
「本当です!」
即座に答えたリヴィアに、エヴリンはくすりと笑った。
「ふふっ。昨日、ルシアン殿下と出かけたんでしょう?」
「ええ。以前から約束していた場所を案内していただきました」
「楽しかった?」
「……はい」
リヴィアは少しだけ視線を落とした。
「とても、楽しかったです」
その素直な返事に、エヴリンは嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。リヴィアが自分の気持ちを大切にできるようになって、私も嬉しいわ」
「エヴリン……」
「でも、無理に急がなくていいからね。結婚するかどうかだって、あなた自身が決めることなんだから」
リヴィアは目を見開いた。
それは、以前から何度も聞いてきた言葉だった。
けれど、友人の口から改めて告げられると、胸の奥が温かくなる。
「ありがとうございます。私、少しずつ考えてみますわ」
「うん!」
エヴリンは明るく頷いた。
しかし、すぐにその表情がわずかに曇った。
「……実はね、私も最近、考えていることがあるの」
「考えていること?」
「ええ。これからの自分について」
エヴリンは庭園の花壇に目を向けた。
柔らかな風が吹き抜け、色とりどりの花が揺れる。
「私はずっと、周りの人に助けてもらってばかりだったでしょう? もちろん、みんなには感謝しているわ。でも、これからは私自身も、誰かの力になれるようになりたいの」
「それは、とても素敵なことだと思いますわ」
「ありがとう。でも、何をすればいいのか、まだはっきり分からなくて……」
エヴリンは困ったように笑った。
「昔の私は、物語の主人公みたいに、目の前の問題を解決すればいいと思っていたの。でも、現実はそんなに簡単じゃないのね」
リヴィアは静かに彼女の言葉を聞いていた。
かつてゲームの中で決められていた役割を持つ者同士だった二人は、今ではそれぞれ、自分自身の人生を考えている。
「すぐに答えが見つからなくても、いいのではありませんか?」
リヴィアは微笑んだ。
「エヴリンが何をしたいのか、何ができるのか。一緒に探していきましょう」
「……うん。ありがとう、リヴィア」
エヴリンの表情に、いつもの明るさが戻った。
そのとき、庭園の入口から二人を呼ぶ声が聞こえた。
「エヴリン、リヴィア!」
振り向くと、アルベルトがこちらへ歩いてくるところだった。
金色の髪が朝日を受けて輝き、赤い瞳が二人を捉える。
「ここにいたのか。探していたんだ」
「アルベルト様? どうかなさいましたか?」
エヴリンが尋ねると、彼は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「実は、君に相談したいことがあってね。今、少し時間はあるかな?」
「私に、ですか?」
「ああ。君の意見を聞きたいんだ」
エヴリンは驚いたように目を瞬かせた。
王太子であるアルベルトが、自分に意見を求めている。
それは、彼女がこれから何をすべきか考えるうえで、一つのきっかけになるかもしれなかった。
「……分かりました。私でよければ、お話を聞かせてください」
エヴリンはまっすぐに彼を見つめて答えた。
その様子を見て、リヴィアはそっと微笑んだ。
自分だけではない。
エヴリンもまた、自分の未来へ向かって歩き始めている。
そして、その道の先には、まだ知らない出会いや選択が待っているのだろう。
リヴィアは二人を見送りながら、空を見上げた。
未来は、最初から決められているものではない。
誰かに与えられるものでもない。
自分で考え、誰かと話し、ときには迷いながら選んでいくものだ。
「……私も、もう少し頑張らなくてはいけませんわね」
小さく呟いたリヴィアの頬には、穏やかな笑みが浮かんでいた。




