二人が選ぶ答え
翌朝、リヴィア・アーデントは、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の向こうには、ヴァロリア王国の王都を包む柔らかな朝日が広がっている。白い石造りの建物の屋根を照らし、遠くに見える尖塔の先端を金色に染めていた。
今日は、ルシアンと出かける約束の日だった。
行き先は、王都の北側に残る古い水路と水門。そして、かつてその管理を担っていた人々の暮らしを紹介する小さな展示施設。
以前、街がどのように発展してきたのか興味があると話したことを、ルシアンは覚えていてくれた。
それが嬉しくて、リヴィアは昨夜から何度も今日の予定を思い返していた。
「……別に、特別なことがあるわけじゃないのよ」
鏡の前で自分に言い聞かせる。
今日はただの外出だ。王族としての公務でもなければ、将来についての正式な話し合いでもない。
それなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
リヴィアは淡い青色のワンピースに袖を通し、襟元に小さな銀色のブローチを留めた。裾には控えめな刺繍が施され、腰の細いリボンが歩くたびに揺れる。長い灰金色の髪は後ろでゆるくまとめ、顔の横に少しだけ髪を残した。
鏡に映る自分を見つめる。
以前の自分なら、こうして誰かとの約束を楽しみにすることさえ、どこか恐ろしく感じていたかもしれない。
期待すれば、失ったときに傷つく。
誰かを大切にすれば、その人の選択に自分の人生まで左右される。
そんな考えばかりが頭の中を占めていた。
けれど、今は違う。
未来が確実でないことは、何も変わっていない。
ルシアンと自分がどのような関係になるのかも、まだ決まっていない。
それでも。
「……楽しみ、なのよね」
口に出してみると、頬がほんのり熱くなった。
リヴィアは鏡から目を逸らし、鞄を手に取った。
今日は今日の時間を、大切にしよう。
そのくらいなら、今の自分にもできるはずだった。
◇
王宮の正門を出ると、すでにルシアンが待っていた。
紺色の上着に銀糸の刺繍。胸元にはヴァロリア王家の紋章を刻んだブローチが輝いている。王族らしい装いではあるが、今日はいつもの儀礼用の服よりも軽やかで、袖口にも動きやすさを考えた工夫が見られた。
濃い青の瞳がリヴィアを見つける。
「おはよう、リヴィア」
「お、おはようございます、ルシアン殿下」
「……今日は少し早かったね」
「それは、殿下も同じではありませんか」
「俺は君を待たせたくなかったから」
「っ……!」
あまりにも自然に言われ、リヴィアは一瞬、返事を失った。
ルシアンはそんな彼女の反応を見て、わずかに口元を緩める。
「どうしたの?」
「何でもありません」
「そう? 顔が少し赤いけれど」
「朝日が強いのですわ」
「なるほど。では、日陰を歩こうか」
「そういう意味ではありません!」
思わず声を上げてしまい、リヴィアは慌てて周囲を見回した。
門の近くにいた護衛たちは、表情を変えずに控えている。けれど、そのうちの一人の肩がわずかに揺れたように見えた。
見なかったことにしよう。
リヴィアは咳払いをして、姿勢を整えた。
「それで、本日はどちらから見て回る予定なのでしょうか」
「まずは北の旧水路だね。王都が今の規模になる前から使われていた水路で、途中に古い橋と水門が残っている。管理棟だった建物も、今は小さな展示施設になっているんだ」
「管理棟まで残っているのですか?」
「うん。建物自体は何度か修繕されているけれど、基礎の一部は古い時代のものらしい」
「それはぜひ見てみたいです」
リヴィアの声が弾んだ。
ルシアンは満足そうに頷く。
「そう言うと思った」
「……殿下は、私が何に興味を持つのか、ずいぶん詳しくなられましたね」
「君が話してくれるからだよ」
ルシアンは歩き始めながら答えた。
「君は自分が興味を持ったものについて話すとき、普段より少しだけ言葉が増える。建物の構造や、物が作られる過程について話すときもそうだ」
「そ、そんなことまで見ていらっしゃるのですか」
「好きな人のことだからね」
まただ。
この人は、どうしてこうも平然と、こちらの心臓に悪いことを口にするのだろう。
リヴィアは俯き、鞄の持ち手を握り直した。
「……殿下は、もう少し言葉を選ぶべきだと思います」
「選んでいるつもりだけれど」
「選んだ結果がこれなのですか?」
「そうだよ。選ばなかったら、もっと大変なことになっているかもしれない」
「それは、どのような……」
「秘密」
ルシアンは楽しそうに笑った。
リヴィアは、これ以上聞いてはいけないと本能的に悟った。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
からかわれることにも、少しずつ慣れてきたのかもしれない。
それに、こうして他愛のない会話を交わしながら並んで歩けること自体が、彼女にとっては大切な時間だった。
◇
王都の中心部を離れると、街並みは少しずつ変化していった。
王宮周辺に見られる整然とした石造りの建物に代わり、古い商家や小さな工房が目立つようになる。建物の壁には長い年月を感じさせる色むらがあり、窓枠や扉には何度も塗り直された跡が残っていた。
通りの向こうから、荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえる。
焼きたてのパンの香りに混じって、川辺から流れてくる湿った風が頬を撫でた。
「……水の匂いがしますわね」
「もうすぐだよ」
ルシアンが指し示した先に、建物の隙間を縫うようにして流れる水路が見えた。
王都の北側を巡る古い水路。
現在では新しい水路網が整備されているため、すべてが主要な水運に使われているわけではない。それでも、いくつかの区画では今なお生活用水や小規模な運搬に利用されているらしい。
リヴィアは橋の手前で足を止めた。
「まあ……」
目の前には、緩やかな弧を描く石橋が架かっていた。
橋の側面には水の流れを象った古い彫刻が刻まれ、長い年月の間に角が丸くなっている。欄干の隙間から覗く水面には、朝の光が細かな銀色の波となって揺れていた。
橋の向こうには、石造りの水門が見える。
左右の壁は厚く、中央には水量を調整するための古い機構が残されていた。現在は一部が改修されているようだが、周囲の建物とは異なる重厚な造りが、そこに積み重ねられた時間を感じさせる。
「この橋は、今の水門が造られる前からあったそうだよ」
ルシアンが説明した。
「当時は、川の増水によって街の一部が水に浸かることもあったらしい。だから、水路を整備するだけではなく、橋の高さや水門の位置も何度も見直されたんだ」
「一度造って終わり、というわけではなかったのですね」
「そういうこと。地形も水の流れも、時代とともに変わっていくから」
リヴィアは橋の石材を見つめた。
水門の基礎部分には、色の違う石が混じっている。古い石を残しながら、後の時代に新しい石を補ったのだろう。
「……壊れた部分をすべて取り除いて、新しく造り直すのではなく、使えるものは残しているのですね」
「うん。昔の技術を尊重しながら、今の技術で補う。そうしなければ守れないものもあるから」
ルシアンは水路の向こうを眺めた。
「王都も同じだよ。古い制度をすべて残せばいいわけではないし、逆に、古いものだからという理由だけですべて捨てるのも違う。残すべきものと、変えるべきものを見極める必要がある」
「……それは、国の話でしょうか」
「国の話でもあるし、それ以外の話でもある」
彼はリヴィアを見た。
「人の関係も、きっと同じだと思う」
リヴィアは静かに息を呑んだ。
水面を渡る風が、まとめた髪の一房を揺らす。
彼の言葉が、自分たちのことを指しているのだと気づかないほど、リヴィアは鈍くなかった。
けれど、彼はその先を急がなかった。
結婚の返事を求めることも、未来を約束する言葉を迫ることもない。ただ、古い橋の上で隣に立ち、同じ景色を見つめている。
「……殿下は、時々ずるいことをおっしゃいますわね」
「そうかな」
「ええ。今のような話をされると、もっと考えたくなってしまいます」
「それなら、今日の目的は半分達成かな」
「半分?」
「君に、この場所を気に入ってもらうこと。もう半分は、俺も君と一緒に楽しむことだから」
ルシアンはそう言って、橋の向こうへ視線を戻した。
「考えるのは、歩きながらでもできるよ。今日は急がずに回ろう」
リヴィアは小さく頷いた。
急がなくていい。
その言葉を、彼は何度も自分に伝えてくれる。
そして、そのたびにリヴィアは、自分の中にある恐れと向き合う時間を与えられているのだと感じた。
◇
水路に沿った道を進むと、やがて小さな建物が見えてきた。
白い石壁に木製の扉。入口の横には控えめな看板が掲げられており、そこには旧水門管理棟を改修した展示施設であることが記されていた。
王宮にある大規模な歴史資料館とは違い、外観は質素だった。
けれど、リヴィアは入口に近づく前から、建物の細部に目を奪われていた。
窓の位置が左右でわずかに異なる。
壁の下部には、外側から補強したと思われる石材が埋め込まれている。
扉の脇には、古い金具を残したまま新しい留め具が取り付けられていた。
「……中に入る前から、見たいところがたくさんありますわ」
「では、外だけで一日が終わらないように気をつけないとね」
「殿下!」
「冗談だよ」
ルシアンは笑いながら扉を開けた。
館内は静かで、木の床からは長年使われてきた建物特有の落ち着いた匂いがした。壁には古い地図や水路の設計図が飾られ、中央の展示台には当時使われていた水門の部品や計測器具が並んでいる。
窓から差し込む光が展示物の表面を照らし、説明板に書かれた文字を柔らかく浮かび上がらせていた。
「こちらをご覧ください」
リヴィアは一枚の設計図の前で足を止めた。
「この部分、最初の設計では水門の位置が少し違っていたようですわ」
「本当だね」
「こちらの記録では、増水時に水が特定の区画へ集中する問題があったと書かれています。おそらく、それを防ぐために設計を変更したのでしょう」
説明板を読み進めるにつれ、彼女の声は自然と弾んでいった。
「それに、変更後の設計図には、最初の案で使われていた部品の一部が残されています。すべてを否定したのではなく、問題のある部分だけを改めたのですね」
「よく気づいたね」
「記録が残っているからこそ、分かることですわ。もし、完成した水門だけしか残されていなかったら、どのような試行錯誤があったのか知ることはできませんもの」
リヴィアは設計図を見つめたまま、そっと微笑んだ。
「完成したものを見るのも好きですが、そこに至るまでの過程を知るのは、もっと興味深いです」
ルシアンはすぐには答えなかった。
代わりに、彼女の横顔を静かに見つめていた。
「……何か?」
視線に気づいたリヴィアが顔を向ける。
「いや。君が楽しそうでよかったと思って」
「それだけですか?」
「それだけだよ」
「本当に?」
「本当に。……ただ、君が何かに夢中になっている姿を見るのは、俺も好きなんだ」
リヴィアの頬が再び赤くなった。
「殿下は、どうしてそう……」
「どうして?」
「いえ、何でもありません」
今ここで言葉を重ねれば、きっと自分が先に困ってしまう。
リヴィアは展示台に向き直り、説明板を読むことに集中しようとした。
しかし、隣に立つルシアンの存在が気になって仕方がない。
彼が少し身を屈めて設計図を覗き込むたび、肩が近づく。
説明を聞こうと顔を向ければ、思ったよりも近いところに彼の顔がある。
そのたびに心臓が小さく跳ねた。
以前のリヴィアなら、こんな自分の反応を恥ずかしく思い、無理に押し込めていたかもしれない。
けれど、今はそうしなかった。
恥ずかしいものは恥ずかしい。
嬉しいものは嬉しい。
その気持ちまで否定する必要はないのだと、少しずつ分かり始めていたから。
◇
展示施設の奥には、歴代の水門管理者たちが残した記録が保管されていた。
管理者の名前、修繕した箇所、増水した日の水位、近隣の住民から寄せられた報告。
どれも派手な記録ではない。
しかし、一冊の古い帳簿に目を留めたリヴィアは、そこからなかなか動けなくなった。
「……この方は、三十年以上も管理を続けていたのですね」
帳簿には、一人の管理者が若い頃から年老いるまで、同じ水門を見守り続けた記録が残されていた。
最初の頃の文字は力強く、記述も細かい。年月が経つにつれて筆跡は少しずつ変化しているが、点検の項目はほとんど変わっていなかった。
毎年、同じ時期に水位を記録し、石壁の亀裂を確認し、古くなった部品を交換している。
誰かに称賛されるためではなく、目立つ功績を残すためでもなく。
ただ、次の日も街の人々が安心して暮らせるように。
「この方がいなければ、困った人も多かったのでしょうね」
「そうだろうね。記録に残るような大きな功績がなくても、誰かの生活を支えている人はいる」
ルシアンは帳簿の横に置かれた説明文を読んだ。
「この管理者は、退職する直前まで後任の教育をしていたそうだ。自分がいなくなった後も、水門が正しく管理されるように」
「……自分がいなくなった後のことまで、考えていたのですね」
リヴィアはその言葉を繰り返した。
未来。
それは、今の自分にとって簡単には答えを出せない言葉だった。
自分の人生をどうしたいのか。
ルシアンとどのような関係を築きたいのか。
いつか彼の隣に立つことを、心から望めるようになるのか。
考えるほどに、答えは一つではなくなっていく。
けれど、この帳簿に記された管理者も、きっと最初からすべてを知っていたわけではないのだろう。
毎日、目の前にある仕事を続けた。
問題が起これば原因を探し、失敗すれば修正し、次の人へと知識を渡した。
その積み重ねが、長い時間の先へとつながっている。
「……私も、そうやって考えられたらいいのかもしれません」
リヴィアが呟くと、ルシアンは彼女を見た。
「どういう意味?」
「未来を一度に決めようとするのではなく、今できることを一つずつ選んでいく、という意味ですわ」
彼女は帳簿から目を離し、ゆっくりと息を吐いた。
「私はずっと、間違えない答えを探していました。間違えれば、すべてを失うのではないかと思っていたからです」
かつての自分が経験したこと。
何度も繰り返した運命。
自分の選択によって、誰かの人生まで変わってしまうという恐怖。
それらが、今も完全に消えたわけではない。
「でも……間違えないことだけを考えていたら、自分が何を望んでいるのかさえ、分からなくなってしまうのですね」
ルシアンは黙って聞いていた。
リヴィアは彼の顔を見上げた。
「殿下。私はまだ、将来について明確な答えを出せません」
「うん」
「結婚という言葉を考えると、嬉しさだけではなく、不安もあります。殿下のことを大切に思っているからこそ、簡単に返事をしてはいけないとも思っています」
「それでいいよ」
ルシアンは迷いなく答えた。
「君が大切にしたいことを、無理に急いで決める必要はない」
「……それでは、殿下が待つことになってしまいます」
「俺が待つと決めているんだ」
彼の声は穏やかだった。
「もちろん、いつか君の答えを聞きたいとは思っているよ。でも、俺が欲しいのは、君が不安を押し殺して出した返事じゃない」
ルシアンは、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「君自身が考えて、君自身の気持ちとして選んだ答えが欲しいんだ」
リヴィアの胸が、じんわりと温かくなった。
彼は自分の望みを隠しているわけではない。
待つことを、何とも思っていないわけでもないだろう。
それでも、彼女の気持ちを置き去りにしないと決めてくれている。
だからこそ、リヴィアも彼の気持ちから目を逸らしたくなかった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「でも、いつまでも待たせるつもりはありません」
そう告げた途端、ルシアンの瞳がわずかに見開かれた。
リヴィアは自分の言葉に気づき、慌てて付け加える。
「いえ、その、すぐに答えを出すという意味ではなくて……! ただ、殿下に甘えて何も考えずにいるつもりはない、ということですわ」
「分かっているよ」
「本当に?」
「うん。君が今、自分の未来について考えてくれている。それだけで十分だ」
ルシアンは微笑んだ。
「それに、俺たちには今日のように、一緒に考える時間があるからね」
リヴィアは、彼の言葉を胸の中で繰り返した。
一緒に考える時間。
未来を選ぶということは、一人で答えを探し続けることではないのかもしれない。
自分の気持ちを大切にすることと、誰かの気持ちを大切にすることは、必ずしも相反しない。
そのことを、リヴィアは少しずつ学んでいた。
◇
展示施設を出る頃には、太陽は空の高いところへ昇っていた。
水路沿いの小さな広場には、昼食を売る屋台が並んでいる。焼いた肉の香ばしい匂いに、香草や温めたパンの香りが混じっていた。
「少し休もうか」
ルシアンの提案に、リヴィアは頷いた。
二人は水路を見渡せる木製のベンチに腰を下ろした。護衛たちは少し離れた場所で周囲を見守っている。
ルシアンが買ってきた包みを開くと、中には焼きたてのパンと、野菜を挟んだ軽食が入っていた。
「こちらは、王都の北側で人気の店らしいよ」
「殿下が選んでくださったのですか?」
「そう。君が気に入りそうだと思って」
リヴィアはパンを受け取り、小さく笑った。
「本当に、私の好みをよく覚えていらっしゃいますね」
「君のことを知りたいと思っているから」
「……そのようなことを、食事のたびにおっしゃるおつもりですか?」
「食事のときだけでいいの?」
「そういう意味ではありません!」
ルシアンが楽しそうに笑い、リヴィアは頬を膨らませた。
けれど、彼女も少しだけ笑っていた。
パンを口に運ぶと、外側は香ばしく、中は柔らかかった。挟まれた野菜には薄く味がつけられ、肉の旨味とよく合っている。
「おいしいですわ」
「よかった」
ルシアンも自分の分を食べながら、水路へ目を向けた。
石壁の間を流れる水は、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。橋の上を人々が行き交い、向こう岸では荷物を積んだ小さな船がゆっくりと進んでいた。
王都の中にありながら、そこにはどこか穏やかな時間が流れていた。
「……殿下は、今日のような場所がお好きなのですね」
「うん。大きな式典も嫌いではないけれど、こういう場所の方が落ち着くよ。人々が実際に暮らしている様子が見えるから」
「王族としての生活とは、かなり違うのでしょうね」
「そうだね。でも、王族だってこの街で暮らしている一人だから。街がどのように動いているのかを知るのは、大切なことだと思っている」
ルシアンは少し考えてから、リヴィアを見た。
「君はどう? 今日は楽しめている?」
「はい。とても」
リヴィアはすぐに答えた。
「古い水門も、設計図も、管理者の記録も……どれも興味深かったです。けれど、それだけではありません」
「それだけではない?」
彼女はパンの包みを膝の上に置き、指先をそっと重ねた。
「殿下が、私の興味を覚えていてくださったことが嬉しいのです」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
以前なら、こんな素直な言葉を伝える前に、何度も考え直していただろう。
相手にどう受け取られるのか。
期待を持たせすぎるのではないか。
自分の気持ちを知られることで、何かが変わってしまうのではないか。
けれど、何も伝えなければ、相手には分からない。
その当たり前のことを、今は大切にしたいと思った。
「……ありがとうございます、ルシアン殿下」
彼はしばらく彼女を見つめていた。
それから、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「どういたしまして。君が喜んでくれるなら、次も何か考えておくよ」
「次も、ですか?」
「もちろん。まだ見せたい場所はたくさんあるからね」
リヴィアは思わず笑った。
「では、私も次の行き先を考えておきますわ」
「それは楽しみだ」
「ただし、殿下が興味を持ってくださらなかったら困りますので、慎重に選ばなくては」
「君が選んだ場所なら、きっと興味を持つよ」
「……また、そのようなことを」
そう言いながらも、リヴィアの口元から笑みは消えなかった。
次の約束。
その言葉が、こんなにも自然に二人の間に生まれるようになった。
まだ、結婚の返事はしていない。
未来についての結論も出ていない。
それでも、これから先の時間を一緒に過ごすことを、二人とも当たり前のように考えている。
その事実が、リヴィアには何よりも嬉しかった。
◇
昼食を終えた二人は、再び水路沿いを歩いた。
今度は先ほどの橋を渡り、対岸から水門を眺める。こちら側には小さな階段があり、水面に近いところまで下りられるようになっていた。
リヴィアは足元に気をつけながら、一段ずつ階段を下りた。
「滑りやすいから、気をつけて」
「大丈夫ですわ」
そう答えた直後、靴底が石の上でわずかに滑った。
「きゃっ……!」
身体が傾く。
すぐにルシアンの手が伸び、彼女の腕を支えた。
「ほら、言っただろう?」
「……今のは、石が悪いのです」
「そういうことにしておこうか」
「本当にそうなのです!」
リヴィアは抗議したものの、支えられた腕に彼の手が添えられていることに気づき、声を小さくした。
ルシアンは彼女がしっかり立てることを確かめると、無理に手を離さず、そっと尋ねた。
「このまま手をつないでいてもいい?」
リヴィアは目を瞬いた。
以前なら、きっと戸惑いが先に立っただろう。
どう答えればよいのか分からず、視線を逸らし、何か別の話題を探していたかもしれない。
けれど、今日は違った。
彼女は彼の手を見つめたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい」
小さな声だった。
けれど、確かな返事だった。
ルシアンは嬉しそうに目を細め、彼女の手を取った。
二人はそのまま、ゆっくりと階段を上った。
手のひらから伝わる温もりが、リヴィアの意識を何度も引き戻す。
ただ手をつないでいるだけなのに、歩く速度まで自然と揃っていく。
どちらかが急げば、もう一方が少し歩調を合わせる。
道が狭くなれば、相手が歩きやすいように立ち位置を変える。
その小さな繰り返しが、まるで二人の関係そのもののように思えた。
完璧に同じ歩幅でなくてもいい。
違うところがあっても、相手の存在を確かめながら歩けばいい。
リヴィアは、つないだ手にほんの少しだけ力を込めた。
ルシアンも、同じように握り返した。
言葉はなかった。
けれど、それで十分だった。
◇
帰り道、王宮へ続く大通りに差しかかった頃、リヴィアはふと足を止めた。
「殿下」
「どうしたの?」
「今日は、本当にありがとうございました」
ルシアンも立ち止まり、彼女へ向き直った。
「私が興味を持っていたものを見せてくださったことも、私の話を聞いてくださったことも……どれも嬉しかったです」
リヴィアは一度、言葉を切った。
そして、少しだけ勇気を出して続けた。
「それに、今日の時間を通して、私はまた一つ、考えられたことがあります」
「聞いてもいいかな?」
「はい」
彼女は水路の方を振り返った。
遠くに見える古い橋は、午後の光を受けて静かに佇んでいた。
「未来は、一度決めたら変えられないものではないのですね。考え直すことも、誰かと話し合うことも、必要なら修正することもできる。……それでも、自分で選んだことには、自分で向き合わなくてはいけない」
言葉にしながら、リヴィアは自分の胸の奥を確かめるように息を吸った。
「私はまだ、答えを出せていません。でも、答えを出せないことを理由に、殿下との時間まで避ける必要はないのだと思いました」
ルシアンは、静かに彼女を見つめていた。
「これからも、一緒に出かけたいです。いろいろな場所を見て、話をして……殿下のことをもっと知りたいですし、私のことも知っていただきたいと思っています」
頬が熱くなる。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「だから……これからも、私と一緒にいてくださいますか?」
問いかけた瞬間、胸の奥で何かが震えた。
これは結婚の返事ではない。
未来をすべて約束する言葉でもない。
けれど、今の自分が差し出せる、偽りのない気持ちだった。
ルシアンは一歩近づき、彼女の手をそっと包み込んだ。
「もちろんだよ、リヴィア」
その声は、どこまでも優しかった。
「俺も、君と一緒にいたい。これから先も、君と話をして、君の知らない景色を見せて、君が見つけたものを一緒に見ていきたい」
彼は微笑んだ。
「君が答えを出すまでの時間も、君が自分の未来を考える時間も、俺にとっては大切な時間だから」
リヴィアの目元が、少しだけ熱くなった。
「……殿下は、本当にお優しいのですね」
「君に対しては、特にそうありたいと思っているよ」
「また、そういうことを……」
リヴィアは困ったように笑った。
けれど、その手は離さなかった。
ルシアンも、無理に何かを求めることはしなかった。
二人は再び歩き始めた。
王宮へ続く道の先には、まだ知らない景色がいくつも待っている。
その中には、楽しいものもあれば、簡単には答えを出せない問題もあるだろう。
いつか、二人の関係について決断しなければならない日も来る。
そのとき、自分がどのような答えを選ぶのか。
リヴィアには、まだ分からない。
けれど、もう以前のように、答えが見つからないことを恐れて立ち止まり続けるつもりはなかった。
自分の気持ちを見つめること。
相手の気持ちを聞くこと。
そして、一緒に考えること。
それらを重ねた先にこそ、自分が選びたい未来があるのかもしれない。
リヴィアは隣を歩くルシアンを見上げた。
彼もまた、彼女の視線に気づいてこちらを見る。
「何かあった?」
「いいえ。ただ……今日、殿下と出かけられてよかったと思っただけです」
「俺もだよ」
ルシアンはそう答え、二人の手をつないだまま歩き続けた。
夕方の光が、王都の街並みを柔らかく染め始めている。
古い水路を流れる水が、橋の下で静かな音を立てていた。
何度も未来をやり直してきたリヴィアにとって、未来とは、失敗を避けるために正解を探し続けるものだった。
けれど、今は少し違う。
未来は、まだ決まっていないからこそ、自分で選ぶことができる。
そして、その選択を誰かと分かち合うこともできる。
彼女は、つないだ手の温もりを確かめた。
今日の答えは、まだ小さなものだ。
これからも一緒に歩きたい。
もっと相手を知りたい。
自分の気持ちから逃げずに、ゆっくり考えていきたい。
それだけだった。
けれど、その小さな答えを一つずつ重ねていけば、いつか本当に望む未来へたどり着けるかもしれない。
リヴィアは、隣を歩くルシアンの手を握り返した。
彼もまた、何も言わずに微笑んだ。
第四章――二人が選ぶ答え。
その物語は、まだ始まったばかりだった。
読者の皆様へ
いつも読んでくださり、本当にありがとうございます!
第三章が終わり、いよいよ第四章が始まりました!
第四章では、リヴィアとルシアンの恋愛をさらに深く描きながら、エヴリンたち仲間の新たな一面や、それぞれが選ぶ未来にも焦点を当てていきます。
甘い時間だけでなく、少しのドラマや笑い、そして仲間たちの成長も楽しんでいただけたら嬉しいです。
二人がどんな答えを選ぶのか、ぜひ最後まで見守ってくださいね!
これからも応援よろしくお願いします!




