自分たちで選ぶ未来
ヴァロリア王国の王都に、穏やかな朝が訪れていた。
王立セイレーン学院の中庭では、朝露をまとった花々が陽光を受けて輝き、噴水の水音が静かに響いている。
リヴィア・アーデントは、いつものベンチに腰を下ろし、一冊のノートを開いていた。
そのページには、次の休日に向けて自分が書き留めた予定がある。
ヴァロリア王都の北側に残る、古い水路。
ルシアン・ヴァルクレストが、次の外出先として選んでくれた場所だった。
かつて街へ水を運んでいた水路や、今も残る古い橋。そこを歩きながら、昔の人々の暮らしや、街がどのように形作られてきたのかを知ることができるらしい。
リヴィアは、ノートの端に描いた簡単な地図を見つめた。
「……どんな場所なのかしら」
思わず呟き、すぐに頬を緩める。
先日の職人街では、自分が選んだ場所をルシアンに案内した。
彼と一緒に工房を見学し、銀細工の職人から話を聞き、不格好ながらも自分の手で小さな花飾りを作った。
あの日のことを思い出すと、今でも自然と笑みが浮かぶ。
そして、次は彼が選んだ場所へ行く番だ。
自分が知らない景色を見せてもらうこと。
彼がどんなところに興味を持ち、何を大切にしているのかを知ること。
それを楽しみにしている自分がいる。
「……少し前までは、こんなふうに考えることもなかったわね」
リヴィアは、そっとノートを閉じた。
かつての彼女は、未来を考えるたびに、失敗しない方法ばかりを探していた。
悪い結末を避けるためには、どうすればいいのか。
誰かを傷つけないためには、どんな選択をすればいいのか。
そのことばかりに気を取られ、自分自身が何を望んでいるのかを、いつも後回しにしていた。
けれど、今は違う。
次の休日が楽しみだと思える。
誰かと一緒に過ごしたいと、自分から願える。
そして、まだ答えが出ていないことがあっても、そのことだけを理由に立ち止まる必要はないのだと、少しずつ理解できるようになっていた。
「リヴィア?」
聞き慣れた声に顔を上げると、エヴリン・ローゼンが立っていた。
明るい茶色の髪が肩の上で揺れ、緑色の瞳には好奇心が浮かんでいる。
「おはよう、エヴリン」
「おはよう。何を見ていたの?」
「次の休日に行く場所のことよ。ルシアン殿下が、王都の古い水路を案内してくださることになったの」
「ああ、前に話していた場所ね!」
エヴリンは嬉しそうに頷いた。
「職人街の次は、古い水路かあ。今度は殿下が案内してくれるのよね?」
「ええ。私が興味を持ちそうな場所を考えてくださったみたいなの」
「素敵ね」
エヴリンは、からかうような笑みを浮かべた。
「リヴィア、ずいぶん楽しみにしているんじゃない?」
「……楽しみなのは事実だけれど、そんなに顔に出ているかしら?」
「うん。とっても」
「もう……」
リヴィアは頬を染めて視線を逸らした。
けれど、否定するつもりはなかった。
ルシアンと過ごす時間が好きだ。
彼の考えを知ることも、一緒に新しい景色を見ることも楽しい。
そうした気持ちを、以前のように無理に否定する必要はないのだ。
「でもね、エヴリン」
リヴィアは、改めて友人の顔を見た。
「楽しみにしているからといって、何か特別な答えが出たわけではないのよ」
「うん。分かっているわ」
エヴリンは、優しく頷いた。
「今は、一緒に過ごす時間を楽しめばいいんじゃないかしら。これから先のことは、その時間の中で少しずつ考えていけばいいのよ」
「……そうね」
「それに、リヴィアが自分の気持ちを大切にできるようになったことが、私は嬉しいの」
その言葉に、リヴィアの胸が温かくなった。
「ありがとう、エヴリン」
「どういたしまして!」
エヴリンは明るく笑い、二人は並んで学院の校舎へ向かった。
◇
昼休みになると、リヴィアは中庭の休憩スペースへ向かった。
そこでは、セレネとフィリア、ノエルたちがテーブルを囲んでいた。
「リヴィア、こちらです!」
フィリアが手を振る。
テーブルの上には、紅茶のポットと焼き菓子が並んでいた。
「今日は何のお菓子なの?」
「果実を使った焼き菓子です。ヴァロリアの職人街で売られているものを参考にしてみました」
「職人街で?」
「はい。あの日に見たお菓子がとてもおいしそうだったので、作り方を調べたのです」
フィリアは誇らしげに胸を張った。
「やはり、おいしいものを知るには、自分で試してみることが大切ですね!」
「……その熱意を、ほかのことにも向けてくれたらいいのに」
ノエルが呆れたように呟く。
「ノエル、それは聞き捨てなりません。食文化を知ることも、立派な勉強です」
「分かった、分かった」
ノエルは苦笑した。
その様子に、リヴィアは思わず笑った。
セレネも、紅茶をカップに注ぎながら口を開いた。
「そういえば、次の休日は殿下とお出かけになるのですよね?」
「ええ。今度は、ルシアン殿下が案内してくださるの」
「どのような場所へ?」
「王都の北側にある、古い水路よ。昔の街の様子が分かる場所なのだそうよ」
「興味深いですね」
セレネは淡い金色の瞳を輝かせた。
「今の街並みだけを見ていても、そこに至るまでの歴史は分かりません。過去にどのような暮らしがあり、それが現在にどうつながっているのかを知るのは、大切なことだと思います」
「ええ。私も、そう思うわ」
リヴィアは紅茶を一口飲んだ。
「職人街へ行ったときも、ただ作品を見るだけでは分からないことがたくさんあったの。作り手の考えを聞いたり、実際に手を動かしたりしたことで、初めて気づいたこともあったわ」
「知識として知ることと、経験することは違いますからね」
セレネは穏やかに頷いた。
「それに、人と一緒に経験すると、自分一人では気づかなかったことにも気づけます」
リヴィアは、そっと微笑んだ。
ルシアンと出かけるたびに、自分の知らなかったものが少しずつ見えてくる。
それは、街の歴史や工芸の技術だけではない。
彼が何を大切にしているのか。
何を見て、どのようなことを考えるのか。
そうした彼自身についても、少しずつ知ることができる。
「……私、これからも、いろいろな場所へ行ってみたいわ」
自然と口から言葉がこぼれた。
「もちろん、殿下と一緒に出かけることも楽しみだけれど、それだけではなくて。自分が知らないものを見て、考えて、自分の世界を広げていきたいの」
エヴリンが、隣から嬉しそうに笑った。
「うん。きっと、リヴィアならできるわ」
「私一人では、気づけないこともあると思うけれど」
「だから、私たちがいるんでしょう?」
エヴリンは当然のように答えた。
「一緒に考えたり、意見を出し合ったりすればいいのよ。リヴィアだって、いつも私たちを助けてくれるじゃない」
リヴィアは、少しだけ目を見開いた。
自分は、誰かに頼ることが苦手だった。
迷惑をかけないように。
自分で解決できるように。
弱いところを見せないように。
そうして、一人で抱え込もうとしていた。
けれど、友人たちはいつも自然に手を差し伸べてくれる。
頼ることは、弱さではない。
互いに助け合いながら、それぞれが自分の道を歩いていくこともできるのだ。
「……そうね。ありがとう、みんな」
リヴィアが微笑むと、フィリアが勢いよく手を挙げた。
「では、これからも一緒においしいものを食べましょう!」
「フィリア、話が少し違う気がするわ」
「違いません。楽しい時間を共有することは、とても大切ですから!」
「それは、確かにそうね」
セレネが真面目に頷いたため、今度は全員が笑い出した。
リヴィアも笑いながら、テーブルを囲む友人たちを見渡した。
こうした何気ない時間も、自分が望む未来の一部なのだ。
特別な出来事がなくてもいい。
みんなで話し、笑い、ときには意見をぶつけ合いながら、日々を重ねていく。
そんな未来を、これからも守っていきたいと思った。
◇
放課後。
リヴィアは、交流祭の記録が保管されている学院の図書室を訪れた。
静かな書架の間を進み、目的の本を取り出す。
表紙には、両国の学生たちが作り上げた『交流祭・未来記録』という文字が記されていた。
窓際の机に腰を下ろし、ページをめくる。
そこには、交流祭で交わされた意見や、生徒たちが考えた提案が丁寧に記録されていた。
文化の違いに戸惑ったこと。
伝統を守ることと、新しいものを生み出すことについて話し合ったこと。
相手の国について、初めて知ったこと。
そして、これから先も交流を続けていくために、それぞれが考えたこと。
リヴィアは、一つ一つの文章を読み返した。
交流祭が始まる前、生徒たちは何度も話し合いを重ねた。
国の違いを越えて、互いを理解するにはどうすればいいのか。
大きな行事が終わったあとも、関係を続けるためには何が必要なのか。
簡単には答えが出ない問題もあった。
けれど、彼らは話し合いをやめなかった。
誰かの意見を否定するだけではなく、どうすれば一緒にできるのかを考えた。
その結果、交流祭は無事に終わり、今では日常の中でも交流を続けるための計画が進められている。
最初から、すべてが決まっていたわけではない。
話し合いながら、少しずつ形を作ってきたのだ。
最後のページには、今も空白が残されている。
『ここから先は、あなたたちの未来です』
リヴィアは、その言葉をじっと見つめた。
以前、この空白を見たときには、未来があまりにも広く、どこから手をつければいいのか分からないような気持ちになった。
今は違う。
未来が広いことは変わらない。
分からないことも、まだたくさんある。
それでも、何も決まっていないことを恐ろしいとは思わなくなっていた。
自分で選べる余地がある。
誰かと話し合いながら、新しい道を作っていくこともできる。
その自由を、今は少しだけ嬉しく感じていた。
「……私も、自分の未来を選んでいくわ」
リヴィアは小さく呟いた。
自分の未来も、友人たちの未来も、そしてルシアンと歩むかもしれない未来も。
まだ完成していない。
けれど、完成していないからこそ、これから自分たちの意思を重ねていける。
リヴィアは、自分のノートを取り出した。
交流祭の記録に、新しい文章を書き加えることはしなかった。
この空白は、これから先の生徒たちが、自分たちの言葉を残すためのものだからだ。
代わりに、自分のノートの最後のページを開いた。
そして、ゆっくりとペンを動かした。
『私は、これからも自分で考え、自分で選んでいきたい。
迷ったときには、誰かの言葉に耳を傾ける。
誰かが迷っているときには、その人が自分で選べるように支える。
そして、大切な人と同じ未来を望むのなら、ただ願うだけではなく、互いの気持ちを伝え合いながら、一緒に歩いていきたい』
書き終えたリヴィアは、ペンを置いた。
以前の自分なら、これを未来への誓いと呼んだかもしれない。
けれど、今は違う。
これは、すべてを決めた人間の宣言ではない。
これからも迷い、考え、選び続けていく自分のための言葉だった。
そのことが、今は何よりも大切に思えた。
◇
夕方、学院の中庭には柔らかな橙色の光が広がっていた。
リヴィアは噴水のそばで、ルシアンを待っていた。
朝から何度か思い浮かべていた、次の休日のこと。
彼が選んだ古い水路を一緒に歩き、街の歴史を知る。
その日が来るのが、今はとても楽しみだった。
「待たせたかな?」
声に振り返ると、ルシアンが歩いてくるところだった。
「いいえ。私も今来たところよ」
「それならよかった。今日は、次の休日について、もう少し話しておこうと思ってね」
「古い水路のこと?」
「うん。調べてみたら、近くに昔の水門を管理していた建物が残っているらしい。今は小さな展示室になっているそうだよ」
「まあ。それはぜひ見てみたいわ」
リヴィアは目を輝かせた。
「昔の水路だけでなく、実際に管理していた人たちの暮らしも分かるかもしれないわね」
「僕もそう思ったんだ。君なら、きっと興味を持つだろうと思って」
「……ありがとう、ルシアン」
リヴィアは、心からそう告げた。
自分が興味を持ったことを、彼は覚えていてくれる。
そして、自分が知らない景色を見せようとしてくれる。
それが、嬉しかった。
「当日は、たくさん質問してしまうかもしれないわ」
「構わないよ。僕も、君に聞きたいことがたくさんあるからね」
「……それなら、お互いに覚悟が必要ね」
「そうだね。話が終わらなくなってしまうかもしれない」
二人は顔を見合わせ、笑った。
その笑い声が、夕暮れの中庭に柔らかく響いた。
しばらくして、リヴィアは少しだけ真剣な表情になった。
「……ルシアン」
「うん?」
「私、最近、自分の未来について考えることが、以前ほど怖くなくなったの」
ルシアンは、静かに彼女を見つめた。
「以前は、何かを選ぶことが怖かった。間違えたらどうしよう、誰かを傷つけてしまったらどうしようって、いつも考えていたの」
「うん」
「でも、今は少し違うわ。選んだ結果が思いどおりにならなかったとしても、そこで終わりではないのよね。考え直すこともできるし、誰かと話し合うこともできる」
リヴィアは、ゆっくりと息を吸った。
「だから、これからは、自分が何を望んでいるのかを、もっと大切にしていきたいの」
「それは、とてもいいことだと思うよ」
「……そして、あなたと過ごす時間も、これからも大切にしたいと思っているわ」
言葉にした途端、頬が熱くなった。
それでも、リヴィアは目を逸らさなかった。
「あなたと話すことが好き。あなたの考えを知るのも楽しいし、一緒に新しい景色を見ることも楽しみなの。だから、これからも、たくさんのことを話していきたいわ」
ルシアンは、しばらく黙って彼女の言葉を聞いていた。
やがて、その表情に穏やかな喜びが浮かんだ。
「ありがとう、リヴィア。君がそう思ってくれていることを、僕は大切にしたい」
「でも……結婚についての答えは、まだ出せないわ」
「分かっているよ」
「それでも、あなたとの未来を考えることを、やめたいとは思わないの」
リヴィアは、自分の気持ちを確かめるように続けた。
「いつか答えを出すときには、ただ不安だから決められないという理由だけではなく、自分が本当に望んでいることを考えたうえで、あなたに伝えたいの」
彼女は、両手をそっと握りしめた。
「だから、もう少しだけ、時間をください」
ルシアンは迷いなく頷いた。
「もちろん。僕は、君の答えを急がせるつもりはないよ」
彼は少しだけ身をかがめ、彼女の顔を覗き込んだ。
「ただ、一つだけお願いしてもいいかな?」
「……何かしら?」
「これからも、僕を君の未来の話し合いに参加させてほしい」
リヴィアは、思わず目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「……もちろんよ」
「よかった。君が一人で考え込んでしまうと、僕には何も手伝えないからね」
「以前のことを言っているの?」
「さて、どうだろう」
「もう……」
リヴィアは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
ルシアンも、楽しそうに笑い返す。
答えが出ていないことを、二人とも知っている。
それでも、互いの気持ちを話し合うことができる。
そのことが、今のリヴィアには嬉しかった。
「……ルシアン」
「うん?」
「これからも、一緒に歩いてくれる?」
尋ねると、彼は少しだけ目を見開いた。
やがて、穏やかに微笑んだ。
「もちろん。君が望んでくれる限り、僕は何度でも隣を歩くよ」
リヴィアは、そっと手を差し出した。
ルシアンがその手を取る。
二人は、夕暮れの中庭をゆっくりと歩き始めた。
急ぐ必要はない。
今すぐ、すべてを決める必要もない。
ただ、今日の自分が望む一歩を選び、その先でまた考えていけばいい。
リヴィアは、隣を歩くルシアンを見上げた。
彼の向こうには、夕焼けに染まった学院の建物が見える。
ここで過ごした日々も、友人たちと交わした言葉も、すべてが今の自分につながっている。
そして、この先にも、まだ知らない景色が待っている。
次の休日には、ルシアンが選んだ古い水路を歩く。
その先にも、二人で訪れたい場所が見つかるかもしれない。
そこでまた、新しい話をするだろう。
意見が違うこともあるかもしれない。
すぐには答えが出ないこともあるだろう。
それでも、話し合いながら一緒に歩いていくことはできる。
リヴィアは、そう信じられるようになっていた。
やがて、二人は中庭の出口にたどり着いた。
夕暮れの光が、石畳の道を長く照らしている。
「また明日ね、ルシアン」
リヴィアが告げると、彼は微笑んだ。
「ああ。また明日、リヴィア」
二人は手を離した。
けれど、それは別れではない。
明日も、また話すことができる。
次の休日には、また新しい景色を見ることができる。
そして、その先の未来についても、何度でも話し合うことができる。
リヴィアは、歩き出す前に一度だけ振り返った。
ルシアンが、穏やかな笑顔でこちらを見ていた。
彼女もまた、笑顔を返す。
それから、前を向いた。
自分の足で歩くために。
自分の意思で未来を選ぶために。
そして、いつか心から望む答えにたどり着くために。
リヴィア・アーデントの物語は、まだ終わらない。
けれど、彼女はもう、未来を恐れて立ち止まるだけの少女ではなかった。
迷いながらでも、歩いていける。
誰かと話し合いながら、選び直すこともできる。
自分が望む未来を、自分の手で作っていくことができる。
それを知った今、彼女の前には、以前よりもずっと広い世界が広がっていた。
その世界の中で、誰と歩くのか。
何を大切にするのか。
どんな未来を選ぶのか。
その答えを決めるのは、誰かが作った物語でも、過去に定められた運命でもない。
自分自身だ。
そして、隣を歩く人と同じ未来を望むのなら、互いの意思を確かめながら、その未来を一緒に作っていけばいい。
リヴィアは、夕焼けの空を見上げた。
「……私たちで、選んでいきましょう」
その呟きは、誰に聞かせるためのものでもなかった。
それでも、彼女の胸の中には、確かな決意があった。
第三章――自分たちで選ぶ未来。
ここで、その物語は一つの区切りを迎える。
そして、次の休日に訪れる古い水路が、新しい物語の最初の景色となる。
まだ知らない場所へ。
まだ知らない気持ちへ。
そして、自分たちで選んでいく未来へ。
二人の歩みは、これからも続いていく。




