次は、あなたが見せてくれる世界へ
職人街を訪れた休日から数日後。
リヴィア・アーデントは、学院の図書室で一冊の本を閉じた。
窓の外では、午後の風に木々の葉が揺れている。静かな室内には紙をめくる音と、遠くから聞こえる生徒たちの声だけが響いていた。
「……これで、ひとまず十分かしら」
机の上には、ヴァロリア王国の歴史書と王都の案内書が積まれていた。
次の休日は、ルシアンが案内してくれることになっている。
まだ行き先は決まっていない。彼は「いくつか考えておく」と言っていたが、具体的な場所については何も教えてくれなかった。
だからこそ、リヴィアは少しだけ落ち着かなかった。
どこへ連れていかれるのだろう。
どんな景色を見せてくれるのだろう。
そして、彼が自分に見せたいと思う場所には、どんな理由があるのだろう。
「……まるで、遠足を待っている子供みたいね」
自分で呟いて、リヴィアは頬を赤くした。
以前なら、こんなふうに誰かとの休日を心待ちにする自分など、想像もしなかった。
未来を考えるとき、彼女の頭に浮かぶのはいつも失敗を避ける方法だった。選択を誤らないためにはどうすればいいのか。誰かの期待を裏切らないためには、どんな行動を取ればいいのか。
そんなことばかり考えていた。
けれど今は、違う。
次にどんな話をしようか。
彼は何を見せてくれるのだろう。
自分はその場所で何を感じるのだろう。
そうした小さな期待が、日常の中に増えていた。
リヴィアは本を閉じ、表紙を指先でなぞった。
知識を得ることは大切だ。
けれど、本を読んでいるだけでは分からないこともある。
それは職人街で、身をもって知ったことだった。
ならば、今度はルシアンが選んだ場所で、彼が見ている世界を知ればいい。
彼の好きなもの。
彼が大切にしているもの。
彼が普段、どんなことを考えているのか。
そのすべてを一度に理解することはできなくても、少しずつ知っていくことならできるはずだった。
「リヴィア?」
聞き慣れた声がして、彼女は顔を上げた。
図書室の入口に立っていたのは、エヴリン・ローゼンだった。
明るい茶色の髪が肩の上で揺れ、緑色の瞳がリヴィアを見つけると、ぱっと笑顔になる。
「やっぱりここにいたのね。探していたのよ」
「エヴリン? どうしたの?」
「一緒にお茶を飲まない? フィリアが、今日のお菓子は特別においしいって言っていたから」
「……フィリアが?」
「ええ。だから、私たちが食べる分まで残っているかは分からないけれど」
「それは、急いだほうがよさそうね」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
リヴィアは本を返却台に置くと、エヴリンと並んで図書室を出た。
次の休日まで、まだ少し時間がある。
それまでの何気ない日々も、今は大切に思えた。
◇
学院の中庭にある休憩スペースでは、セレネとフィリアがテーブルを囲んでいた。
テーブルの中央には、焼き菓子が盛られた皿と、温かな紅茶のポットが置かれている。
「リヴィア! こちらです!」
フィリアが勢いよく手を振った。
銀色の髪が肩からさらりと流れ、淡い金色の瞳がきらきらと輝いている。
「待っていたわ。お菓子は残っている?」
「もちろんです。こちらがリヴィアの分です」
フィリアは誇らしげに皿を差し出した。
その上には、焼き色のついた小さな菓子が二つ並んでいる。
「……二つだけ?」
「はい。残りは私の分です」
「フィリア、さっきは『たくさんあります』と言っていませんでしたか?」
セレネが静かに尋ねる。
「たくさん焼いたことと、たくさん残っていることは別です」
「それは、そうかもしれませんけれど……」
セレネは少し考え込んだ。
リヴィアはとうとう吹き出してしまった。
「もう、フィリアったら。みんなで食べるものなのだから、最初から分けておけばよかったでしょう?」
「ですが、焼きたてのパンやお菓子は、温かいうちに食べるのが最もおいしいのです」
「それは否定しないけれど」
「それに、食べることは大切です。おいしいものを食べると、幸せな気持ちになりますから」
フィリアは真剣な顔で主張した。
その言葉に、エヴリンがくすくすと笑う。
「確かにね。おいしいものを食べているときは、嫌なことも少し忘れられるもの」
「そうでしょう?」
フィリアは満足そうに頷いた。
リヴィアは差し出された菓子を一つ手に取った。
小麦の香ばしい香りが広がり、表面には細かな砂糖がまぶされている。一口食べると、甘さの中にほんのりとした果実の酸味が感じられた。
「……おいしいわ」
「でしょう!」
フィリアの表情が輝いた。
「この菓子は、ヴァロリアの職人街で買ったものを参考にしたのです。向こうの焼き菓子は、果実の風味を生かすものが多いと聞きましたから」
「そうだったのね」
リヴィアは、もう一口食べた。
職人街で過ごした時間が、自然と脳裏によみがえる。
銀細工の工房。
職人の手元。
ルシアンと並んで歩いた石畳の道。
思い出すと、胸の奥が温かくなった。
その変化を、エヴリンは見逃さなかった。
「……リヴィア、今、殿下のことを考えていたでしょう?」
「えっ?」
思わず声が裏返った。
エヴリンは楽しそうに笑っている。
「だって、急に嬉しそうな顔をしたんだもの」
「そ、そんなことは……」
「あると思います」
セレネが静かに頷いた。
「職人街へ出かけた日のことを思い出していたのではありませんか?」
「セレネまで……!」
「違いましたか?」
「……違わないけれど」
リヴィアは観念したように肩を落とした。
隠そうとしたところで、この二人にはすぐに見抜かれてしまう。
「次の休日も、殿下とお出かけするのでしょう?」
エヴリンが尋ねた。
「ええ。今度は、ルシアン殿下が案内してくださる予定なの」
「まあ!」
エヴリンの目が輝いた。
「それで、どこに行くの?」
「まだ教えてもらっていないわ。いくつか考えておく、とおっしゃっていたけれど」
「教えてもらっていないの?」
「ええ」
「……それは、楽しみね」
エヴリンはにっこりと笑った。
リヴィアは紅茶のカップを持ち上げた。
「そうね。私も、楽しみにしているわ」
口にしてみると、以前よりも自然に言えることに気づいた。
誰かとの時間を楽しみにしていると認めること。
それだけのことが、今の彼女にとっては大切な一歩だった。
「ところで、リヴィア」
セレネがカップを置いた。
「次の外出では、殿下がどのような場所を選ばれると思いますか?」
「それが分からないのよ」
「王宮の庭園や、美術館でしょうか?」
エヴリンが考え込む。
「あるいは、王都を一望できる高台かもしれません」
セレネも候補を挙げた。
「……どこでも、嬉しいと思うわ」
リヴィアは少し考えてから答えた。
「もちろん、どんな場所なのかは気になるけれど。それよりも、殿下がどうしてそこを選んだのかを知りたいの」
「どうして、ですか?」
「ええ。私が職人街を選んだときは、伝統と新しい技術が同じ場所にあることに興味を持ったからでしょう? 殿下にも、きっと何か理由があると思うの」
自分の言葉を確かめるように、リヴィアはゆっくりと続けた。
「私が見たことのない景色を知りたい。それと同じくらい、殿下がその景色を好きな理由も知りたいのよ」
エヴリンは、少しだけ目を細めた。
「……うん。リヴィアらしい答えね」
「そうかしら?」
「ええ。前よりもずっと、自分から相手を知ろうとしているもの」
リヴィアは頬を染めた。
「……私は、ただ」
「ただ?」
「……もっと、いろいろな話がしたいだけよ」
その言葉を聞いたエヴリンは、今度はからかわなかった。
ただ、優しく微笑んだ。
「それなら、きっと大丈夫。急がなくても、話す時間はこれからもあるんだから」
リヴィアは小さく頷いた。
そうだ。
今すぐ、すべてを知る必要はない。
知りたいことがあれば、また尋ねればいい。
相手の話を聞き、自分の考えも伝える。
その積み重ねが、少しずつ二人の間に新しいものを作っていくのだろう。
「……ありがとう、エヴリン」
「どういたしまして!」
エヴリンは明るく答え、残っていた菓子を一つ手に取った。
その瞬間、フィリアが目を見開く。
「あっ、それは私が最後に食べようと思っていたものです!」
「えっ? でも、みんなで食べるお菓子でしょう?」
「そうですが、最後の一つは別なのです!」
「その理屈はおかしいわよ!」
エヴリンが抗議し、セレネが困ったように二人を見つめる。
リヴィアは笑いながら、もう一つの菓子をそっとフィリアの皿に戻した。
いつものように賑やかな昼下がり。
その何気ない時間もまた、彼女が守りたいと思う未来の一部だった。
◇
数日後の放課後。
リヴィアは学院の正門近くで、ルシアンを待っていた。
今日は、次の休日の予定について話をする約束をしていたのだ。
待ち合わせの時間が近づくにつれ、彼女は何度も時計を確かめてしまう。
別に、急いでいるわけではない。
ただ、どこへ行くのかが気になって仕方がなかった。
「……落ち着きなさい、リヴィア」
自分に言い聞かせていると、遠くから足音が聞こえてきた。
「待たせたね」
ルシアンが、穏やかな笑顔で近づいてくる。
「いいえ。私も今来たところよ」
「それならよかった。今日は、次の休日のことを相談しようと思ってね」
リヴィアの胸が、少しだけ高鳴った。
「……行き先を教えてくださるの?」
「うん。君が楽しみにしてくれているようだから、そろそろ話しておこうと思って」
「そ、そんなに楽しみにしているように見えたかしら?」
「かなりね」
即答だった。
リヴィアは思わず口元を押さえた。
「……もう。あなたは、どうしてそういうことにすぐ気づくの?」
「君のことを見ているから、かな」
何でもないことのように言われ、リヴィアは言葉を失った。
ルシアンは、そんな彼女の反応を見て、少しだけ笑みを深めた。
「さて。次に案内したい場所だけれど……」
彼は、手に持っていた小さな地図を広げた。
そこに描かれていたのは、王都の北側にある地区だった。
「ここは、王都の古い水路が残っている場所なんだ。昔は街へ水を運ぶために使われていたけれど、今は一部が整備されて、散策路になっている」
「古い水路……?」
「うん。今の王都とは少し違う街の姿が見られると思う。古い橋や水門も残っているし、当時の暮らしを知ることができる場所もあるんだ」
リヴィアは地図を覗き込んだ。
そこには、水路に沿って続く道と、小さな橋、古い建物の位置が記されていた。
「……どうして、この場所を選んだの?」
尋ねると、ルシアンは地図から顔を上げた。
「君が職人街を案内してくれたとき、街がどのように成り立っているのかにも興味を持っただろう?」
「ええ」
「だから、今度は僕が、ヴァロリアの街がどのように形作られてきたのかを見られる場所へ案内したいと思ったんだ」
リヴィアは、しばらく言葉を失った。
彼は、覚えていてくれたのだ。
職人街で自分が何に興味を持ったのか。
どんな話を楽しんでいたのか。
そのことを覚えていて、次の場所を選んでくれた。
「……ありがとう」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
ルシアンは不思議そうに首を傾げた。
「どうしてお礼を?」
「私が興味を持ったことを、覚えていてくださったから」
リヴィアは、地図に目を落としたまま続けた。
「私が何を見たいと思っているのかを考えて、場所を選んでくださったのでしょう?」
「そうだよ。せっかく二人で出かけるのだから、君にも楽しんでほしいからね」
彼は少し間を置いてから、優しく微笑んだ。
「それに、僕自身も君と一緒に見てみたいんだ。昔の水路が今の街にどう残っているのか、君ならどんなところに気づくのか、興味があるから」
リヴィアの胸の奥に、温かなものが広がった。
自分が彼の好きなものを知りたいと思ったように、彼もまた、自分が何を感じるのかを知りたいと思ってくれている。
それが、嬉しかった。
「……私、楽しみにしているわ」
リヴィアは顔を上げ、彼の目を見た。
「今度は、あなたが見せてくれる景色を、ちゃんと見てみたいの」
ルシアンは、ゆっくりと頷いた。
「うん。一緒に歩こう」
その言葉は、穏やかで、温かかった。
彼は決して、未来の答えを急がせない。
代わりに、次の休日を約束してくれる。
次の会話を楽しみにしてくれる。
そして、彼女が自分で選ぶ時間を大切にしてくれる。
リヴィアは、その優しさに甘えるだけではなく、自分からも何かを返していきたいと思った。
今度は、彼が見せてくれる景色を知ろう。
彼が何を大切にしているのかを知ろう。
そのうえで、自分がどんな未来を望んでいるのかを、少しずつ考えていこう。
それは、まだ遠い先まで続く道のように思えた。
けれど、最初の一歩は、もう始まっている。
「……ルシアン殿下」
「うん?」
「当日は、いろいろと質問してしまうかもしれないわ」
「構わないよ。僕も、君に聞きたいことがたくさんあるからね」
「……それなら、お互いに覚悟が必要ね」
「そうだね。話が終わらなくなってしまうかもしれない」
二人は顔を見合わせ、笑った。
次の休日には、古い水路を歩く。
そこに残された歴史を知り、今の街とのつながりを見つける。
そして、隣にいる人が何を感じるのかを、ゆっくりと聞いてみる。
その一日が、どんな思い出になるのかはまだ分からない。
それでも、リヴィアは楽しみだった。
誰かに決められた未来ではなく、自分が望んで歩き出した時間だから。
彼と同じ景色を見て、違う感想を持つことがあってもいい。
考えが食い違ったら、話し合えばいい。
知らないことがあれば、尋ねればいい。
そうして少しずつ互いを知りながら、これからのことを考えていけばいいのだ。
夕暮れの光が、学院の正門を柔らかく照らしていた。
リヴィアは、手元の地図を大切に受け取った。
その地図には、まだ訪れたことのない場所が描かれている。
けれど、その場所へ向かう道を、今は一人で歩くわけではない。
「……次の休日が、待ち遠しいわね」
小さな呟きに、ルシアンが微笑んだ。
「僕もだよ、リヴィア」
二人は並んで歩き出した。
まだ知らない景色へ。
まだ知らない気持ちへ。
そして、自分たちで選んでいく未来へ。




