あなたの好きなものを知りたい
休日の朝、リヴィア・アーデントは鏡の前で髪を整えていた。
次の外出に向けて、職人街について調べ始めてから数日が経っている。
見学を受け入れている工房の一覧を作り、街の地図に印をつけ、移動に必要な時間まで計算した。準備は順調だったが、昨日から一つだけ気になっていることがあった。
ルシアンは、どんなものが好きなのだろう。
「……装飾品や魔法具に興味があるのは分かったけれど」
鏡に映る自分に向かって、リヴィアは小さく呟いた。
彼は王族として、珍しい品物を目にする機会が多いはずだ。美しいものも、価値のあるものも、きっと数え切れないほど見てきたに違いない。
だからこそ、彼が個人的に心を引かれるものが気になった。
高価だから欲しいのか。
珍しいから見てみたいのか。
それとも、作り手の考えや、そこに込められた工夫に惹かれるのか。
本人に尋ねれば済む話なのに、いざ質問を考えると、どこか落ち着かなくなる。
彼の好きなものを知りたい。
ただそれだけのことが、以前よりもずっと大切なことに思えた。
リヴィアは最後に髪飾りの位置を確かめると、鏡の前から離れた。
今日は、工房の見学予約を確定させるために、ヴァロリア王宮の交流担当者へ届ける書類をまとめる予定だった。
その途中で、ルシアンにも相談できればいい。
そう考えて部屋を出た彼女の足取りは、いつもより少しだけ軽かった。
◇
昼前、リヴィアは王宮の一角にある応接室を訪れた。
学院と王宮の交流事業に関する書類を確認するため、ルシアンと会う約束をしていたのだ。
案内された部屋は、淡い青を基調とした落ち着いた内装だった。窓際には銀細工の花瓶が置かれ、壁にはヴァロリア王都の古い街並みを描いた絵が掛けられている。
テーブルの上には、交流事業の資料と数枚の地図が整然と並んでいた。
「待たせたかな、リヴィア」
扉が開き、ルシアンが姿を現した。
濃紺の上着には銀糸の刺繍が施され、胸元の紋章が窓からの光を受けて静かに輝いている。いつもと変わらない落ち着いた表情だったが、リヴィアを見つけると、その目元がわずかに和らいだ。
「いいえ。私も今来たところよ」
「それならよかった。今日は職人街の計画を持ってきてくれたんだね」
「ええ。こちらが見学できる工房の一覧で、こちらが街の地図よ」
リヴィアは資料を広げ、準備してきた内容を説明した。
最初に訪れるのは、古い技法で銀細工を作り続けている工房。その後、魔法を応用した実用品を制作する若い職人の工房へ向かい、最後にガラス工芸の店を見学する予定だった。
「移動時間も考えると、この順番が一番無理がないと思うの。もちろん、興味のある場所があれば変更しても構わないわ」
説明を終えると、ルシアンは地図をじっくり眺めた。
「よく調べてあるね。工房の間も、歩いて回れる距離なのか」
「ええ。ただ、最後のガラス工房は少し離れているから、時間が足りなければ別の日にしてもいいと思っているわ」
「なるほど。君が考えた計画だから、僕はそのままでも十分楽しめそうだ」
「……まだ、実際に行ってみたわけではないでしょう?」
「そうだね。でも、君が何を見たいと思ったのかは、今の説明だけでも伝わってきたよ」
リヴィアは、返事をするまでに少し時間がかかった。
計画を褒められたことが嬉しかったのもある。
けれど、それ以上に、自分が何を考えて準備したのかを、彼が理解しようとしてくれたことが心に残った。
「ありがとう。そう言ってもらえると、調べた甲斐があったわ」
「こちらこそ。僕のために時間を使ってくれてありがとう」
ルシアンはそう言うと、資料を丁寧に重ねた。
その仕草を見つめながら、リヴィアは思い切って口を開いた。
「……一つ、聞いてもいいかしら」
「もちろん」
「あなたは、どんなものを見るのが好きなの?」
尋ねた途端、ルシアンが少し意外そうな顔をした。
「僕の好きなもの?」
「ええ。せっかく二人で出かけるのだから、私が見たいものだけではなく、あなたが見たいものも知っておきたいの」
最後のほうは、声が小さくなってしまった。
けれど、リヴィアは目を逸らさなかった。
ルシアンはしばらく彼女を見つめていたが、やがて柔らかく笑った。
「そうだな……。完成したものを見るのも好きだけれど、作っている途中を見るほうが、もっと興味深いかもしれない」
「作っている途中?」
「うん。どうしてその形にしたのか。どこを工夫したのか。最初に考えたものから、どんなふうに変わっていったのか。そういう話を聞くと、同じ品物でも違って見えるんだ」
彼は窓の外へ目を向けた。
「王宮にいると、完成した品物が運ばれてくることが多い。もちろん、それも大切な仕事の結果だ。でも、実際に作っている人の話を聞ける機会は、思ったほど多くないんだよ」
「……そうなのね」
「だから、職人街では、可能なら作り手の話を聞いてみたい」
リヴィアは手元の資料を見下ろした。
彼女が選んだ工房の一つは、まさにその希望に合っていた。代々受け継がれた銀細工の技術を守りながら、今の暮らしに合う道具も作っている工房だ。
「それなら、最初の工房がよさそうね。予約の際に、作業を見学できるか聞いてみるわ」
「ありがとう。でも、無理に頼まなくてもいいからね。職人にも都合があるだろうし」
「分かっているわ。できる範囲でお願いするつもりよ」
そう答えてから、リヴィアはふと気づいた。
彼の好みを知ったことで、計画の一部が少し変わった。
自分が見たいものを選ぶだけではなく、彼の興味を知り、それを計画に取り入れる。
どちらかが一方的に合わせるのではなく、二人の希望を並べて、ちょうどいい形を探していく。
その過程そのものが、思いのほか楽しかった。
「……聞いてみてよかったわ」
「何が?」
「あなたの好きなものを知ることができたから」
ルシアンは一瞬だけ黙った。
そして、少しだけ意地悪そうに目を細める。
「それなら、もう一つ教えておこうかな」
「もう一つ?」
「僕は、君が興味を持ったものについて話してくれる時間も好きなんだ」
「……ルシアン殿下」
「君が何を見つけて、どうしてそれを気に入ったのか。聞いていると、僕も実際に見てみたくなるからね」
「それは……」
リヴィアは言葉に詰まった。
頬が熱くなるのを感じながら、手元の地図へ視線を落とす。
「……そういうことを、さらりと言わないでちょうだい」
「本当のことなんだけれど」
「分かっているから、困っているのよ」
思わず本音がこぼれた。
ルシアンは声を立てずに笑った。
その笑い方が楽しそうで、リヴィアはますます顔を上げられなくなる。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
彼が自分の話を聞きたいと思ってくれることも、自分が彼の好みを知りたいと思うことも、どちらも無理に作った気持ちではない。
それを少しずつ確かめていく時間が、今の二人にはある。
「……当日は、ちゃんと案内するから」
「楽しみにしているよ」
「それから、あなたが見たいものも遠慮なく教えてね」
「分かった。では、当日は僕からも一つ提案していいかな」
「ええ。もちろんよ」
そう答えたとき、リヴィアの胸の中に小さな期待が生まれた。
自分の計画だけでは終わらない休日。
彼の提案によって、思いがけない場所へ足を運ぶことになるかもしれない。
そう考えると、予定表には書かれていない時間まで、楽しみになってきた。
◇
書類の確認を終えた二人は、応接室を出て、王宮の回廊を並んで歩いていた。
窓の外には整えられた庭園が広がり、低い生け垣の向こうでは庭師が花壇の手入れをしている。石畳には木々の影が揺れ、風が通るたびに葉の擦れる音が聞こえた。
「そういえば、リヴィア」
「何かしら?」
「君は、工房を見学したあと、何か買いたいものはあるの?」
「今のところ、特には考えていないわ。実際に見てみて、気に入ったものがあれば別だけれど」
「そうか。僕も同じだよ」
ルシアンは歩く速度を少し緩めた。
「品物を買うことが目的ではないからね。作り手の話を聞いて、どんな考えで作られたものなのかを知れたら、それだけでも十分だと思う」
「……あなたらしい考え方ね」
「そうかな?」
「ええ。王族だから高価なものを見たい、という話になるかと思っていたわ」
「それは、僕がどれだけ贅沢な人間だと思われているのかな」
「そ、そういう意味ではなくて……!」
慌てて弁解するリヴィアを見て、ルシアンは楽しそうに笑った。
「冗談だよ。君が何を考えていたのか、少し気になっただけだ」
「……本当に、あなたは時々意地悪ね」
「君が素直に答えてくれるから、つい聞きたくなるんだ」
リヴィアは口を尖らせたものの、すぐに表情を和らげた。
以前の自分なら、こんなやり取りをしているだけで、彼の真意を探ろうと必死になっていたかもしれない。
今も、彼の言葉のすべてが分かるわけではない。
それでも、分からないことがあるたびに不安になる必要はないのだと、少しずつ思えるようになっていた。
分からなければ尋ねればいい。
言葉を交わして、時間を重ねて、それでも分からないことがあれば、また考えればいい。
未来についても、きっと同じなのだろう。
「……ルシアン殿下」
「うん?」
「私、最近、あなたと出かけるたびに思うことがあるの」
ルシアンは足を止めず、静かに彼女のほうを向いた。
「どんなこと?」
「同じ場所にいても、見ているものは人によって違うのね。私は花の色や形が気になるけれど、あなたはその場所の歴史や、そこに関わった人のことを考えていたりする」
「そうかもしれないね」
「だから、一緒にいると、自分だけでは気づかなかったことを知ることができるの」
言葉にしてみると、胸の中にあった感覚が、少しずつ輪郭を持ち始めた。
「今回の職人街でも、私が見たいと思っていたものだけではなく、あなたが見たいものも知ることができたでしょう? そうしたら、私一人で考えていたときとは違う計画になったわ」
「うん」
「それが……楽しいの」
最後の一言を口にしたとき、リヴィアは恥ずかしさに頬を染めた。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
ルシアンはしばらく彼女を見つめていた。
その瞳に浮かんでいるのは、からかうような色ではなかった。
「僕も同じだよ」
彼は穏やかに答えた。
「君と一緒にいると、今まで当たり前だと思っていたものを、別の角度から見ることがある。君が気づいたことを聞いて、初めて考えることもあるんだ」
「……本当に?」
「もちろん。だから、これからも君の考えを聞かせてほしい」
その言葉は、決して大げさなものではなかった。
将来の約束でも、結婚への返事を求める言葉でもない。
ただ、これからも話をしたいという願いだった。
リヴィアはその言葉を、胸の奥でゆっくりと受け止めた。
「……ええ。私も、あなたの考えを聞きたいわ」
そう答えると、ルシアンは満足そうに微笑んだ。
二人は再び歩き始めた。
回廊の先には、王宮の庭園へ続く扉が見えている。扉の向こうでは、色とりどりの花が風に揺れていた。
リヴィアはその景色を眺めながら、ふと思った。
未来を共にするというのは、いつも同じものを見て、同じ考えを持つことではないのかもしれない。
違うものを見て、違うことを考えて、それでも相手の話を聞きたいと思うこと。
自分の希望を伝えながら、相手の希望にも耳を傾けること。
そして、二人で話し合いながら、次の一歩を決めていくこと。
それならば、自分にも少しずつできるような気がした。
まだ、すべての答えは出ていない。
けれど、答えを探す時間まで、怖がらなくてもいい。
「リヴィア?」
呼びかけられて、彼女は顔を上げた。
「何かしら?」
「ずいぶん嬉しそうな顔をしているね」
「……そう?」
「うん。何かいいことでも思いついた?」
リヴィアは少し考えたあと、穏やかに笑った。
「ええ。次の休日が、今までよりも楽しみになったの」
「それはよかった」
ルシアンも笑った。
彼はそれ以上、理由を尋ねなかった。
そのさりげない気遣いが、リヴィアには嬉しかった。
今すぐ言葉にできない気持ちがあってもいい。
自分の中で大切に育てながら、いつか伝えられる日が来るかもしれない。
その日がいつになるのかは、まだ分からない。
だからこそ、今は目の前にある時間を大切にしよう。
リヴィアは、隣を歩くルシアンをそっと見上げた。
彼がどんな景色を好み、何を大切にしているのか。
自分が何を望み、どんな未来を歩みたいのか。
その二つを知るために、これからも一緒に歩いていきたい。
そう思えたことが、今日の彼女にとって何よりの収穫だった。
次の休日まで、あと少し。
リヴィアは心の中で、もう一度その日を数えた。
今度は、自分の選んだ場所へ彼を案内するために。
そして、彼が見せてくれる景色を知るために。




