あなたに見せたい景色
次の休日に向けて、リヴィア・アーデントは机の上に三冊の資料を広げていた。
ヴァロリア王国の工芸史。
王都の職人街についてまとめられた案内書。
そして、交流祭の準備で知り合った学生から借りた、職人たちの工房を紹介する小冊子。
窓から差し込む午後の日差しが、紙面の上に淡い金色の光を落としている。
「……思っていたより、ずっと広いのね」
リヴィアは小冊子のページをめくりながら、小さく呟いた。
ヴァロリアの王都には、金属細工を専門とする職人街、染色や織物を扱う通り、ガラス工芸の工房が集まる地区など、さまざまな場所があるらしい。
中でも彼女の興味を引いたのは、王都の東側にある古い職人街だった。
そこでは、何代にもわたって受け継がれてきた技術を守る職人と、新しい意匠を取り入れようとする若い職人が、同じ通りで店を構えているという。
伝統を守ることと、新しいものを生み出すこと。
それは、先日の交流祭で生徒たちが何度も話し合ったテーマにも似ていた。
「ここなら、ルシアン殿下も楽しめるかもしれないわ」
口にした途端、リヴィアは手を止めた。
自分が興味を持った場所を、彼にも見せたい。
自分が面白いと感じたものを、彼はどう見るのだろう。
反対に、彼が気に入るものを知れば、自分の知らなかった世界が見えるかもしれない。
そんなことを考えていると、胸の奥がくすぐったくなった。
「……別に、おかしなことではないわよね」
誰に言い訳をしているのか、自分でもよく分からない。
リヴィアは頬にかかった灰金色の髪を耳にかけ、再び小冊子に目を落とした。
以前の自分なら、こうして誰かとの休日を計画することさえ、余計なことだと考えていたかもしれない。
未来を考えるたびに、まず思い浮かべていたのは失敗しない方法だった。
誰かの期待を裏切らないこと。
悪い結末を避けること。
自分のせいで誰かを傷つけないこと。
それらは決して無意味ではない。
けれど、それだけを考えていた頃の自分は、自分が何をしたいのかという問いを、いつも後回しにしていた。
今は違う。
まだ答えを出せないことは多い。それでも、行ってみたい場所がある。知りたい人がいる。そして、その人と過ごす時間を、自分から作りたいと思っている。
それは、かつての自分にはなかった変化だった。
「よし……」
リヴィアは小さく息を吸い、机の端に置いてあった便箋を引き寄せた。
次の休日の計画を、ルシアンに伝えなければならない。
それだけのことなのに、なぜか手紙を書くときよりも緊張する。
何度か文章を書いては消し、ようやく納得できる一文にたどり着いた。
『次のお休みには、私がご案内したい場所があります』
読み返したリヴィアは、そっと便箋を伏せた。
「……これでいいわ」
その声は、自分でも驚くほど弾んでいた。
◇
翌日の昼休み。
王立セイレーン学院の中庭では、噴水の水音と生徒たちの楽しげな話し声が響いていた。
リヴィアはいつものテーブルで、エヴリン、セレネ、フィリアと一緒に昼食を取っていた。
「それで、次のお出かけの計画は進んだの?」
サンドイッチを手にしたエヴリンが、何気ない調子で尋ねる。
「ええ。行きたい場所は決まったわ。あとは、どの工房を見学するかを選ぶだけよ」
「工房?」
「ヴァロリアの職人街よ。古い技術を守っている工房もあれば、新しい作品を作っている工房もあるみたいなの」
リヴィアが説明すると、エヴリンの顔がぱっと明るくなった。
「素敵! アクセサリーとか、ガラス細工とかも見られるの?」
「ええ。装飾品を扱う店もあるそうよ。ただ、今回は買い物よりも、実際に作っているところを見てみたいの」
「なるほど。リヴィアが自分で調べて、殿下を案内するのね」
「……そう言ったでしょう?」
「うん。聞いたわ。でも、改めて聞くと、なんだか嬉しくなっちゃって」
エヴリンはにこにこと笑った。
「だって、以前のリヴィアなら、殿下に行き先を決めてもらうほうが気楽だって言いそうだったもの」
リヴィアは返事をしかけて、口を閉じた。
確かに、そうだったかもしれない。
自分で決めるということは、選んだ結果に責任を持つということだ。誰かに任せてしまえば、少なくとも選択そのものに迷う必要はなくなる。
けれど、今回は違った。
「……私が見たいものを、殿下にも見ていただきたいと思ったの」
そう口にすると、エヴリンは目を丸くした。
そして、ゆっくりと笑みを深める。
「うん。それ、とってもいいと思う」
「そ、そう?」
「ええ。相手が好きな場所に連れていってもらうのも楽しいけれど、自分の好きな場所を教えてもらうのも楽しいでしょう?」
エヴリンは自分の胸元に手を当て、少し考えるように首を傾げた。
「その人が何を見て、何に心を動かされるのかって、意外と知らないもの。だから、一緒に出かけるたびに新しい発見があるんじゃないかな」
「……新しい発見」
リヴィアはその言葉を繰り返した。
自分は、ルシアンのことをどれくらい知っているのだろう。
彼が王族として背負っている責任。兄であるレオンハルトとの関係。何気ない会話の中に隠された、彼の優しさや慎重さ。
少しずつ知ってきたつもりだった。
それでも、まだ知らないことはたくさんある。
そして、自分自身についても同じだった。
「……そうね。私も、まだ知らないことがたくさんあるわ」
「でしょう?」
エヴリンは満足そうに頷いた。
その隣で、セレネが紅茶のカップを静かに置いた。
「知識として知っていることと、実際に経験することは違いますから」
「セレネもそう思う?」
「はい。たとえば、工芸品の作り方を本で読むことはできます。でも、職人がどのように道具を持ち、どんな表情で作品に向き合っているかは、実際に見なければ分かりません」
セレネは淡い金色の瞳をリヴィアへ向けた。
「人についても、同じだと思います」
その言葉に、リヴィアは静かに頷いた。
知識だけで未来を決めることはできない。
自分の気持ちも、相手の気持ちも、実際に時間を重ねなければ分からないことがある。
だからこそ、今の自分には、この時間が必要なのだろう。
「……ありがとう、二人とも」
「どういたしまして!」
エヴリンが明るく答えた直後、フィリアが勢いよく手を挙げた。
「ところで、その職人街にはパン屋さんもありますか?」
「……フィリア?」
「いえ、重要な確認です。職人さんたちが働く街なら、きっとお昼を食べる場所もありますよね。ということは、おいしいパン屋さんがある可能性も十分に――」
「工芸品の話はどこへ行ったの?」
リヴィアが思わず尋ねると、フィリアは真剣な顔で答えた。
「工芸品を見て感動した後に、おいしいパンを食べれば、感動がより深まると思います」
「その理屈は初めて聞いたわ」
「では、今回の計画に採用してみましょう」
「セレネまで……」
リヴィアが困ったように眉を下げると、エヴリンが声を立てて笑った。
「いいじゃない。職人街を歩いて、工房を見学して、最後にみんなでおいしいものを食べる。素敵な休日になりそう!」
「……今回は、私とルシアン殿下の二人で出かける予定なのだけれど」
リヴィアが控えめに指摘すると、エヴリンは一瞬だけ口を閉じた。
そして、いたずらっぽく笑う。
「もちろん、分かっているわ。だからこそ、帰ってきたら感想を聞かせてね」
「エヴリン!」
「何かしら?」
「……もう」
リヴィアは頬を赤くして、手元のカップに視線を落とした。
けれど、その表情には以前のような困惑だけではなく、少しの喜びも浮かんでいた。
◇
放課後。
リヴィアは学院の廊下を歩きながら、手にした小冊子を確認していた。
次の休日までに調べておきたいことは、まだ残っている。
見学を受け入れている工房の時間。
職人街の地図。
移動にかかる時間。
そして、ルシアンが興味を持ちそうな場所。
最後の項目を見た瞬間、リヴィアは足を止めた。
「……彼が興味を持ちそうな場所、か」
考えてみれば、今までの外出では、自分が行きたい場所を中心に考えていた。
それは決して悪いことではない。自分の希望を伝えられるようになったのだから、むしろ大切な一歩だ。
けれど、次は彼が何を見たいのかも知りたいと思った。
ルシアンは王族として、さまざまな国の工芸品や美術品に触れる機会があるはずだ。それでも、彼が個人的に興味を持つものは何だろう。
美しい装飾品だろうか。
魔法の仕組みを取り入れた道具だろうか。
それとも、名もない職人が長い年月をかけて作り上げた、実用的な品だろうか。
考えれば考えるほど、答えが分からなくなっていく。
そして同時に、本人に尋ねてみたいという気持ちが強くなった。
「……直接、聞けばいいのよね」
当たり前のことに気づいて、リヴィアは小さく笑った。
相手の気持ちを勝手に想像するだけではなく、言葉を交わして確かめる。
それは、彼女がこれまでの経験から学んできたことの一つだった。
廊下の向こうから、聞き慣れた声がした。
「リヴィア?」
顔を上げると、紺色の上着に銀糸の刺繍を施した制服姿のルシアンが歩いてくるところだった。
黒に近い青色の髪が窓からの光を受け、深い青の瞳が彼女を見つけると、柔らかく細められる。
「何を熱心に読んでいるんだ?」
「次のお出かけの計画よ」
「なるほど。僕の休日は、ずいぶんと忙しくなりそうだね」
「まだ何も決めていないわ」
「君がそうやって真剣な顔をしているときは、たいてい面白いことが待っているからね」
「……それは褒めているの?」
「もちろん」
即答されて、リヴィアは疑わしげに彼を見た。
「本当に?」
「少なくとも、僕は楽しみにしているよ」
そう言って、ルシアンは彼女の手元を覗き込んだ。
「職人街か。ずいぶん詳しく調べているんだね」
「まだ途中よ。見学できる工房を探しているの。古くから続いているところもあれば、新しい技術を取り入れているところもあるみたいだから」
「それは興味深いな」
「本当に?」
今度はリヴィアが尋ねる番だった。
ルシアンは一瞬だけ目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「うん。伝統を守ることと、変化を受け入れること。その両方を続けるのは簡単ではないからね。どうやって折り合いをつけているのか、実際に見てみたい」
「……よかった」
思わずこぼれた言葉に、ルシアンが首を傾げた。
「何が?」
「あなたにも楽しんでもらえそうだと思ったの」
口にした瞬間、リヴィアの頬が熱くなった。
以前なら、こんなに素直に言えただろうか。
自分の選んだ場所を彼が気に入ってくれたら嬉しい。自分が考えた計画を、彼にも楽しんでほしい。
その気持ちは、もう隠す必要のないもののように思えた。
ルシアンは彼女を見つめ、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「楽しみにしているよ、リヴィア。君が僕に見せたいと思ってくれた場所なら、なおさらね」
「……そういう言い方は、ずるいわ」
「どうして?」
「分かっていて尋ねているでしょう?」
「さて。何のことかな」
彼は涼しい顔で答えた。
その表情を見て、リヴィアは小さく息を吐く。
相変わらず、彼は時々こうして意地悪なことを言う。
けれど、以前のように彼の言葉一つで、自分の心がどこへ向かうのか分からなくなることは少なくなっていた。
恥ずかしいものは恥ずかしい。
嬉しいものは嬉しい。
その二つを、同時に感じていてもいいのだ。
「……それなら、当日まで楽しみにしていてちょうだい」
「分かった。君の案内に従うよ」
「本当に、私の案内に従ってくれるの?」
「もちろん。道に迷ったら、君と一緒に迷うことにする」
「迷わないように調べているのよ!」
リヴィアが声を上げると、ルシアンは楽しそうに笑った。
その笑顔につられて、彼女の口元にも笑みが浮かぶ。
何か特別な約束をしたわけではない。
将来について、新しい答えが出たわけでもない。
それでも、こうして一緒に笑いながら、次の休日を楽しみにできることが、今のリヴィアには大切だった。
◇
その日の夜。
自室に戻ったリヴィアは、机の上に地図を広げた。
職人街の位置を確かめ、見学したい工房に印をつけていく。移動に必要な時間を考えながら、無理のない順番を決めた。
それから、予定表の最後に小さく書き加えた。
『ルシアン殿下が興味を持った場所にも、立ち寄る』
書き終えたリヴィアは、しばらくその文字を見つめていた。
自分の行きたい場所だけではなく、彼の行きたい場所も知りたい。
彼が何を大切にし、何に心を動かされるのかを、これからも少しずつ知っていきたい。
そう考えることが、今は自然だった。
「……私は、何を望んでいるのかしら」
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
以前の自分なら、すぐに答えを出そうとしていたかもしれない。
けれど今は、急いで言葉にする必要はないと思えた。
彼と過ごす時間が好きだ。
一緒に話すことが楽しい。
新しい景色を見たとき、彼が隣にいてくれたらいいと思う。
そうした小さな気持ちを、一つずつ確かめていけばいい。
未来を選ぶというのは、ある日突然、すべての答えを手に入れることではないのかもしれない。
今日の自分が選んだ小さな一歩が、明日の自分につながっていく。
そして、その明日をどう生きるかは、また自分で選べばいい。
リヴィアは予定表を丁寧に畳み、引き出しにしまった。
窓の外には、静かな夜空が広がっている。
その向こうにあるヴァロリアの街を思い浮かべながら、彼女はそっと微笑んだ。
次の休日には、彼に新しい景色を見せよう。
自分が見つけたものを伝え、彼が見つけたものを教えてもらおう。
そして、帰り道には今日より少しだけ、彼のことを知っていたらいい。
それは、まだ名前の定まらない未来だった。
けれど、今のリヴィアは、その未来を考えることが怖くなかった。
自分で選びたいと思えたから。
自分で選んだ明日を、楽しみにできるようになったから。
「……早く、休日にならないかしら」
誰もいない部屋で呟いた声は、夜の静けさに溶けていった。
そしてリヴィアは、次に彼と会う日のことを思い浮かべながら、ゆっくりと明かりを落とした。




