次は、私があなたを案内します
植物園を訪れた休日から、三日が過ぎた。
リヴィアは、王立セイレーン学院の図書館で一冊の植物図鑑を開いていた。
机の上には、植物園で見た花の名前を書き留めた手帳が置かれている。薄青花、南方の白い小花、そして温室の奥で見つけた珍しい葉を持つ植物。
その中でも、彼女が特に気に入ったのは、細い枝の先に白い花を咲かせていた植物だった。
長い時間をかけて、ようやく花を開く。
その説明を読んだとき、リヴィアは不思議と心が落ち着いたのを覚えている。
「……あの花、もう一度見たいわね」
呟いてから、彼女は小さく笑った。
また植物園へ行きたいと思うのは、花が気に入ったからだけではない。
ルシアンと一緒に歩いたこと。
知らない植物について話したこと。
自分が感じたことを、彼が急かさずに聞いてくれたこと。
そうした記憶も、あの場所と結びついていた。
けれど、今度はただ彼に案内してもらうだけではなく、自分も何かを伝えられるようになりたい。
植物園で彼が教えてくれたように、自分が知っていることを説明し、彼が知らない景色を見つける手助けをしてみたいと思った。
リヴィアは手帳の新しいページを開いた。
そこに、次の休日に向けて調べたいことを書き始める。
植物の名前だけではない。
ヴァロリアの歴史。
学院の近くにある古い建物。
王都で暮らす人々の習慣。
自分が知っているエルディアのことも、いつか彼に話してみたい。
「……今度は、私が案内する番ね」
そう口にすると、胸の奥が少しだけ弾んだ。
何かをしてもらうばかりではなく、自分からも何かを差し出したい。
それは、彼に何かを返さなければならないという義務感ではなかった。
ただ、自分が楽しかった時間を、今度は彼にも楽しんでもらいたい。
その気持ちが、自然と生まれていた。
「リヴィア様、また何か調べていらっしゃるのですか?」
顔を上げると、セレネが机の向かい側に立っていた。
腕には数冊の本を抱えている。
「ええ。次にルシアン殿下と出かけるとき、私が案内できる場所を探しているの」
「そうなのですね」
セレネは手帳を覗き込むことなく、静かに微笑んだ。
「楽しそうです」
「……そう見える?」
「はい。以前よりも、未来について考えているときの表情が柔らかくなったように思います」
リヴィアは、少し驚いた。
「そんなに変わったかしら?」
「私には、そう見えます」
セレネは椅子を引き、リヴィアの隣に座った。
「以前のリヴィア様は、何かを選ぶ前に、選んだ場合の危険や、その先に起こる可能性を一つずつ確認していらっしゃいました」
「……否定できないわね」
「もちろん、それが必要な場面もあります。ですが、今はそれだけではないのでしょう?」
リヴィアは手帳へ視線を落とした。
以前の自分は、失敗しないことを何よりも優先していた。
自分の選択によって誰かが傷つくことを恐れ、間違いを避けようとするあまり、何も決められなくなることもあった。
けれど、今は違う。
何かを選ぶことには、分からないことも、予想外の出来事もついてくる。
それでも、自分が望むことなら、一度は手を伸ばしてみたいと思えるようになった。
「……ええ。今は、何が起こるか分からないことも、少し楽しみなの」
リヴィアは照れくさそうに微笑んだ。
「もちろん、不安がなくなったわけではないわ。でも、知らないことがあるからこそ、知りたいと思えるのでしょう?」
「はい。私も、そう思います」
セレネは、穏やかに頷いた。
「自分で選んだ道であれば、途中で考え直すこともできます。最初から最後まで、すべてを正しく選ばなければならないわけではありませんから」
その言葉に、リヴィアは静かに頷いた。
選択とは、一度決めたら絶対に変えてはいけないものではない。
進んでみて、違うと感じたなら、立ち止まって考え直せばいい。
誰かと話し、別の考え方を知り、それでも自分が望む道を選び直せばいいのだ。
「ありがとう、セレネ」
「どういたしまして」
セレネは、リヴィアの手帳に視線を向けた。
「ところで、次はどちらへ案内する予定なのですか?」
「まだ決めていないの。いくつか候補を探しているところよ」
「それなら、ヴァロリアの古い街並みはいかがでしょう。以前、交流祭の資料で紹介されていた地域がありましたよね」
「職人街のことかしら?」
「はい。昔から続く工房が多く残っているそうです。歴史を知ることもできますし、実際に作業を見学できる場所もあると聞きました」
リヴィアの目が輝いた。
「それは素敵ね。ルシアン殿下も、きっと興味を持ってくださると思うわ」
「では、候補に加えておきましょうか」
「ええ。ありがとう」
リヴィアは手帳を開き、職人街の名前を書き加えた。
自分一人では思いつかなかった場所だった。
誰かと話すことで、新しい選択肢が生まれる。
それもまた、今の自分が大切にしたいことの一つだった。
◇
放課後、リヴィアは学院の中庭でルシアンと顔を合わせた。
彼は王宮から届いた書類を従者に渡し、ちょうど学院を出る準備をしているところだった。
「リヴィア。今日は図書館にいたの?」
「はい。少し調べものをしていました」
「植物園のことかな?」
「それもありますけれど、今日は別のことも」
ルシアンは興味深そうに眉を上げた。
「別のこと?」
「次に出かけるなら、どこへ行きたいか考えていたんです」
リヴィアがそう告げると、彼の表情が柔らかくなった。
「それは楽しみだね。何か気になる場所が見つかった?」
「はい。ヴァロリアの職人街です。昔から続いている工房が多く残っているそうですね」
「ああ。工芸品や装飾品を作っている工房がいくつもあるよ。実際に作業を見せてもらえる場所もある」
「やはり、そうなのですね」
リヴィアは嬉しそうに頷いた。
「以前、市場で見た品物の中にも、あの街で作られたものがあったのかもしれませんね」
「そうだね。君が興味を持ちそうな場所もあると思う」
ルシアンは少し考えてから、付け加えた。
「ただ、工房によっては見学できる時間が決まっているから、事前に確認しておいたほうがいい」
「分かりました。私も調べておきます」
「では、次の休日は職人街にしようか?」
リヴィアは、すぐには答えなかった。
行ってみたい場所は見つかった。
けれど、前回のように彼にすべてを任せるのではなく、今回は自分が計画を立てたいと思っていた。
「……殿下」
「うん?」
「もしよろしければ、今回は私に計画を立てさせていただけませんか?」
ルシアンは一瞬だけ目を見開いた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろん。喜んで任せるよ」
「本当に、よろしいのですか?」
「君が案内してくれると約束しただろう?」
「それはそうですが……」
「それに、君がどんな場所を選んで、どんな順番で回ろうと考えるのか、興味があるんだ」
リヴィアの胸が、温かくなった。
彼は、ただ自分の計画に付き合ってくれるだけではない。
自分が考えたことそのものを、楽しみにしてくれている。
「……ありがとうございます。頑張りますね」
「頑張りすぎないようにね」
「大丈夫です。無理のない予定にしますから」
「それなら安心だ」
ルシアンは、どこか楽しそうに笑った。
リヴィアも微笑み返した。
自分で計画を立てることに、少し不安はある。
道を間違えたらどうしよう。
予定どおりに回れなかったら、どうしよう。
けれど、そんなことがあっても、きっと大丈夫だ。
予定が変わったなら、その場で考え直せばいい。
彼も一緒に考えてくれるだろう。
完璧な計画を立てることが目的ではない。
二人で過ごす時間を、自分の考えで作ってみたいのだ。
「……では、次の休日のことは、私に任せてください」
リヴィアは、少しだけ胸を張った。
「期待しているよ、リヴィア」
ルシアンは、そう言って微笑んだ。
◇
その日の夜。
リヴィアは自室の机に向かい、手帳を開いていた。
職人街へ行くための道順。
見学できる工房。
途中で立ち寄れそうな広場。
昼食を取る場所。
必要な情報を書き込みながら、彼女は何度も考え直していた。
この順番なら、無理なく回れるだろうか。
歩く距離は長すぎないだろうか。
途中で休める場所も、きちんと確保しておきたい。
気づけば、手帳には細かな予定が並んでいた。
「……少し、詰め込みすぎかしら」
リヴィアは眉を寄せた。
興味のある場所を見つけるたびに、予定へ加えてしまったのだ。
これでは、職人街をゆっくり楽しむ余裕がなくなってしまうかもしれない。
彼女はペンを置き、最初から予定を見直した。
絶対に訪れたい工房を二つ。
時間があれば見たい店をいくつか。
途中で休憩する時間。
それだけに絞ることにした。
「……これなら、大丈夫そうね」
完璧ではないかもしれない。
けれど、余裕があるからこそ、予定外の発見を楽しむこともできるだろう。
リヴィアは満足そうに頷いた。
そして、手帳の最後に、小さな文字で書き加えた。
『ルシアン殿下が興味を持った場所にも、立ち寄る』
書き終えた瞬間、彼女は少し照れくさくなった。
自分が行きたい場所を考えることに夢中になっていたけれど、彼にも楽しんでほしい。
それを忘れたくなかった。
リヴィアは、ペンを置いて窓の外を見た。
夜空には星が瞬き、遠くの街並みには明かりが灯っている。
その景色を眺めながら、彼女は今日一日のことを思い返した。
セレネとの会話。
自分が考えた計画を、ルシアンが喜んで受け入れてくれたこと。
そして、次の休日を楽しみにしている自分の気持ち。
以前の自分なら、誰かのために何かを計画するとき、失敗しないことばかりを考えていたかもしれない。
けれど今は、少し違う。
相手に喜んでもらいたい。
一緒に楽しみたい。
自分が見つけたものを、彼にも見てほしい。
そんな気持ちが、自然と湧いてくる。
「……次の休日が、待ち遠しいわね」
リヴィアは小さく呟いた。
彼女はまだ、ルシアンとの未来について答えを出していない。
彼を選ぶのか。
どんな形で隣に立つのか。
二人がどのような生活を望むのか。
考えなければならないことは、たくさんある。
けれど、答えを急ぐ必要はない。
まずは、一緒に過ごす時間を大切にしよう。
自分が見つけた景色を、彼にも見てもらおう。
そして、彼が見せてくれるものを、自分の目で確かめよう。
そうして互いを知っていくことが、いつか未来を選ぶときの力になるはずだ。
リヴィアは手帳を閉じ、机の上に置いた。
次の休日、彼を案内するのは自分だ。
そのことを思うと、胸の奥が少しだけ誇らしくなった。
誰かに決められた道を歩くのではなく、自分で道を調べ、自分で選び、隣にいる人と一緒に進んでいく。
それは、以前の自分が想像していた未来とは、少し違うものだった。
けれど、今のリヴィアは、その未来を悪くないと思っている。
むしろ、どんな景色が待っているのか、知りたくてたまらなかった。




