花々が教えてくれること
休日の朝、リヴィアは鏡の前で髪を整えていた。
淡い青色のワンピースに、白いカーディガン。足元には歩きやすい靴を選び、肩には小さな鞄を掛けている。
前回の外出と同じように、派手すぎず、動きやすい服装だ。
それなのに、最後に髪飾りを選ぶ段階になって、彼女は再び迷い始めていた。
「こちらかしら……それとも、前と同じものにしたほうがいいのかしら」
机の上には、青い石をあしらった髪飾りと、銀色の小さな花を模した髪飾りが並んでいる。
どちらも気に入っている。
けれど、今日は植物園へ行くのだから、花の形をしたもののほうが似合うかもしれない。
そう考えて銀色の髪飾りを手に取ったところで、リヴィアはぴたりと動きを止めた。
「……私は、何をそんなに真剣に考えているのかしら」
髪飾り一つで、こんなに迷う必要はない。
けれど、今日の外出を楽しみにしているのは事実だった。
ルシアンと一緒に街を歩いた前回の休日は、思っていた以上に楽しかった。市場で食べた蜂蜜パンも、川沿いの広場で交わした会話も、今では温かな思い出になっている。
だからこそ、今日も素敵な一日になればいいと思ってしまう。
その気持ちを認めると、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
「……これでいいわね」
リヴィアは銀色の髪飾りをつけ、鏡に映る自分を確かめた。
それから鞄を手に取る。
中には手帳と、植物園の案内図が入っていた。
前日までに調べられることは調べた。
あとは、実際に見て、感じるだけだ。
「行ってきます」
誰もいない部屋にそう告げて、リヴィアは扉を開いた。
王立植物園の入口には、色鮮やかな花々が並んでいた。
白い石柱に囲まれた門の上には、蔓植物を模した装飾が施され、左右には季節の花を植えた大きな花壇が広がっている。
奥へ続く小道の両側には、手入れの行き届いた低木と花々が並び、噴水の水音が穏やかに響いていた。
待ち合わせ場所に到着したリヴィアは、思わず足を止めた。
「わあ……」
想像していた以上に、美しい場所だった。
「気に入ってくれた?」
隣から声が聞こえ、リヴィアは振り返った。
ルシアンが、いつもの穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
今日は濃紺の上着に、装飾を抑えた白いシャツを合わせている。王族らしい気品はそのままだが、街を歩いた日と同じく、気軽な装いだった。
「はい。入口だけでも、こんなにきれいなのですね」
「この植物園は、季節ごとに花壇の配置を変えているんだ。何度来ても、違う景色を楽しめるようにね」
「それは素敵ですね」
リヴィアは、門の奥に広がる景色へ目を向けた。
同じ場所でも、季節が変われば見えるものが変わる。
同じ花であっても、咲き始めと満開の頃では印象が違うだろう。
そんな当たり前のことが、今日は妙に心に残った。
「では、行こうか」
「はい!」
二人は並んで門をくぐった。
最初に訪れたのは、季節の花を集めた中央庭園だった。
丸く整えられた花壇には、白や紫、淡い桃色の花が幾重にも咲いている。中央の噴水からは細い水の流れが立ち上り、日差しを受けた水滴が小さな光となって散っていた。
リヴィアは、花壇の前で足を止めた。
「こちらは、何という花なのでしょう?」
「薄青花だね。ヴァロリアの西部でよく見られる花で、朝の光を受けると色が少し明るく見えるんだ」
「朝と昼で色が変わるのですか?」
「花そのものが大きく変わるわけではないよ。光の当たり方で、見え方が変わるんだ」
リヴィアは、花の前に少し身をかがめた。
薄い青色の花びらは、中央へ向かうにつれて白に近づいている。葉には細かな水滴が残り、風が吹くたびに、花が小さく揺れた。
「……本当にきれい」
彼女はしばらく、その花を見つめていた。
図鑑で名前や特徴を読んだときにも、興味深いと思った。
けれど、実際に目の前で見ると、印象はまったく違う。
花びらの繊細な形。
風に揺れる様子。
周囲の緑との色合い。
文字だけでは分からなかったものが、次々と目に入ってくる。
「どうかな。調べていたときの印象と違う?」
ルシアンに尋ねられ、リヴィアは頷いた。
「ええ。図鑑で見たときは、もっと単純な色だと思っていました。でも、実際には花びらの先と中央で色が違いますし、光が当たると、少し透き通って見えるのですね」
「僕も、初めてここで見たときは驚いたよ」
「殿下もですか?」
「うん。知識として知っていることと、実際に目にすることは違うからね」
リヴィアは、その言葉に微笑んだ。
数日前、セレネが話していたことと同じだった。
知識だけでは分からないことがある。
実際に経験してみて、初めて気づけるものがある。
今日、ここへ来たことにも、きっと意味があるのだろう。
「……もっと、いろいろな花を見てみたいです」
「もちろん。まだ先にも、たくさんあるよ」
ルシアンは、彼女の歩調に合わせて進み始めた。
リヴィアも、その隣を歩いた。
中央庭園を抜けると、二人は温室へ向かった。
大きなガラス屋根から差し込む光が、内部の植物を明るく照らしている。
外よりも少し暖かく、湿り気を含んだ空気が肌に触れた。
温室の中には、見たことのない形の葉を持つ植物や、細長い茎の先に小さな花を咲かせる植物が並んでいた。
背の高い木々の間には、木製の通路が続いている。
「こちらは、南方の植物を育てている区画なんだ」
ルシアンが説明した。
「気候が違うから、外では育てにくいものも多い。温度や湿度を調整して、できるだけ原産地に近い環境を保っているんだよ」
「植物のために、そこまで工夫しているのですね」
「そうしなければ、花を咲かせることができない種類もあるからね」
リヴィアは、通路の脇にある説明板へ目を向けた。
そこには、植物の原産地や育成方法、ヴァロリアへ運ばれてきた経緯などが記されている。
彼女は一つずつ読み進めながら、ときおりルシアンへ質問した。
「この植物は、どうして葉がこんなに大きいのでしょう?」
「強い日差しを受ける環境で育つ種類だからだね。葉の形にも、育った場所の特徴が表れているんだ」
「では、こちらの細い葉は?」
「風の強い地域に自生しているそうだよ。詳しいことは、あそこの説明板に書かれているね」
「……殿下、ずいぶん詳しいのですね」
「昔、植物園の職員にいろいろ教えてもらったんだ。全部覚えているわけではないけれど」
「それでも、私よりずっと詳しいです」
「君は君で、図鑑を読んで得た知識があるだろう?」
「そうですが……」
リヴィアは、少し考えてから微笑んだ。
「では、お互いに知らないことを教え合えますね」
「そういうことだね」
二人は、また歩き始めた。
しばらくすると、リヴィアは一つの植物の前で足を止めた。
細い枝の先に、白い小さな花がいくつも咲いている。花びらは五枚で、中央には淡い黄色の模様があった。
説明板によれば、花が開くまでに長い時間を必要とする種類らしい。
「……時間をかけて、咲くのですね」
リヴィアは、文字を読みながら呟いた。
「そうみたいだね。育てるのも、簡単ではないらしい」
「それでも、きちんと花を咲かせるのですね」
彼女は、白い花をじっと見つめた。
時間がかかることと、意味がないことは違う。
すぐに結果が出なくても、少しずつ成長しているものがある。
そのことを、花が教えてくれているような気がした。
「……私も、焦らなくていいのかもしれませんね」
思わず口にした言葉に、ルシアンが視線を向けた。
「何について?」
リヴィアは、すぐには答えなかった。
けれど、彼が静かに待ってくれているのを感じ、少しずつ言葉を探した。
「自分の気持ちについてです。私は、早く答えを出さなければいけないと思うことがありました。でも、時間をかけなければ分からないこともあるのですよね」
「そうだね」
ルシアンは、花から目を離さずに答えた。
「時間をかけることが、いつも正しいとは限らない。でも、急いで答えを出すことが、いつも正しいわけでもない」
そして、リヴィアへ視線を戻した。
「大切なのは、君が自分で納得できることだと思うよ」
リヴィアは静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
ルシアンは、いつものように穏やかに微笑んだ。
けれど、彼はそれ以上、何も尋ねなかった。
彼女が何を考えているのか、すべてを聞き出そうとはしない。
自分から話したいと思うまで、待ってくれている。
その距離感が、今のリヴィアには心地よかった。
◇
温室を出た二人は、園内の小道を進み、木々に囲まれた休憩所へ向かった。
木製の屋根の下には、いくつかのテーブルと椅子が置かれている。近くには小さな売店があり、飲み物や焼き菓子を販売していた。
「少し休もうか」
「はい。ちょうど、喉が渇いてきたところです」
二人は売店で飲み物を購入し、庭園を見渡せる席に腰掛けた。
リヴィアが選んだのは、花の香りを移した淡い色の茶だった。ルシアンは、香ばしい香りのする茶を選んでいる。
一口飲むと、リヴィアはほっと息をついた。
「おいしい……」
「気に入った?」
「はい。花の香りが強すぎなくて、飲みやすいです」
「それなら、よかった」
テーブルの上には、小さな焼き菓子も並んでいた。
リヴィアは一つ手に取り、表面に刻まれた模様を眺めた。
「……フィリアが見たら、きっと喜びそうですね」
「フィリア?」
「ええ。以前、花の模様を刻んだパンを持ってきてくれたことがあったんです。こういう細かい装飾が好きなのだと思います」
「なるほど。では、次に会ったときに教えてあげよう」
「ふふっ。きっと、パンの話が始まりますね」
「それは楽しみだ」
ルシアンの返事に、リヴィアは笑った。
フィリアの姿を想像するだけで、自然と楽しい気持ちになる。
彼女だけではない。
エヴリンの明るい声も、セレネの落ち着いた言葉も、学院で交わす何気ない会話も、今のリヴィアにとっては大切なものだった。
以前は、未来のことを考えるとき、危険や失敗ばかりが頭に浮かんでいた。
けれど今は、失いたくないものだけでなく、これからも続けていきたいものが少しずつ見えてきている。
友人たちと笑う時間。
自分の知らないことを学ぶ時間。
誰かと一緒に、新しい景色を見る時間。
そして、隣にいる彼と過ごす時間。
「ルシアン殿下」
「うん?」
「今日は、ありがとうございます」
リヴィアは、焼き菓子を皿に戻してから言った。
「私が行きたいと言った場所へ、一緒に来てくださって」
「僕も来たかったからね。お礼を言われるようなことではないよ」
「それでも、嬉しかったんです」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「前回の外出も楽しかったですけれど、今日はまた違う楽しさがあります。自分が興味を持ったものを見て、分からないことを質問して、殿下からいろいろ教えていただいて……」
リヴィアは、ゆっくりと顔を上げた。
「こうして一緒に過ごす時間を、これからも大切にしたいと思いました」
ルシアンは、彼女を見つめていた。
その瞳には、驚きと喜びが静かに浮かんでいる。
「……ありがとう、リヴィア」
彼は、少しだけ声を柔らかくした。
「君がそう思ってくれることが、僕にとっても嬉しいよ」
リヴィアは頬を赤くしながらも、微笑んだ。
今の自分には、まだ分からないことがたくさんある。
彼を好きだという気持ちが、これからどんな形になっていくのかも、まだはっきりとは分からない。
けれど、彼と過ごす時間を大切にしたい。
もっと知りたい。
そして、自分の気持ちも、少しずつ確かめていきたい。
その願いなら、もう自信を持って口にできた。
休憩を終えた二人は、植物園の奥にある小さな池へ向かった。
池の周囲には白い花が咲き、水面には木々の影が映っている。小さな魚が泳ぐたびに、静かな波紋が広がった。
リヴィアは池のほとりで立ち止まり、水面を見つめた。
「……静かな場所ですね」
「うん。僕も、この場所が好きなんだ」
「よく来られるのですか?」
「子供の頃は、ときどきね。人が多い場所に疲れたとき、ここで休んでいたことがある」
リヴィアは彼の横顔を見た。
「殿下も、人が多い場所に疲れることがあるのですね」
「もちろん。王族だからといって、いつも人と話すのが好きなわけではないよ」
「……少し安心しました」
「どうして?」
「私も、一人で静かに過ごしたいと思うことがあるからです。人と話すのは好きですけれど、ずっと誰かと一緒にいると、少し疲れてしまうこともあります」
「分かるよ」
ルシアンは、池の向こうへ視線を向けた。
「一人で考える時間も必要だし、誰かと過ごす時間も必要だ。どちらか一方だけでいい、というものではないのだろうね」
「……そうですね」
リヴィアは頷いた。
彼と一緒にいることが楽しいからといって、いつでも一緒にいたいと思わなければならないわけではない。
一人で過ごす時間も、自分の考えを整理する時間も、大切にしていい。
そして、彼にも同じように、一人で過ごしたい時間があるだろう。
互いの時間を尊重しながら、それでも一緒にいたいと思えること。
それもまた、相手を知るということなのかもしれない。
「ルシアン殿下」
「うん?」
「いつか、殿下が一人で静かに過ごしたいと思う日があったら、遠慮なく言ってくださいね」
ルシアンは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「君は、僕と出かけるのが嫌になったら、そう言ってくれるのかい?」
「ち、違います!」
リヴィアは慌てて首を振った。
「そういう意味ではありません! お互いに、無理をしないで過ごせたらいいと思っただけです!」
「分かっているよ」
ルシアンは笑いをこらえるように口元を押さえた。
「君は、本当に一生懸命だね」
「……殿下が、わざと誤解させるような言い方をするからです」
「それは失礼した」
そう言いながらも、彼は楽しそうだった。
リヴィアは小さくため息をついた。
けれど、すぐに自分も笑ってしまった。
こうして、言葉を交わす。
時にはからかわれ、時には真剣に話し、互いの考えを知っていく。
その時間が、少しずつ二人の間に積み重なっている。
リヴィアは、池の水面に映る青空を眺めた。
今すぐに、未来の答えを決める必要はない。
今日見た花の名前を覚えるように。
新しい景色を知るように。
自分の気持ちも、少しずつ確かめていけばいい。
そうすれば、いつか自分が本当に望むものが、今よりもはっきりと見えてくるだろう。
植物園を出る頃には、空が淡い橙色に染まり始めていた。
門の外へ出たリヴィアは、名残惜しそうに振り返った。
「……また来たいですね」
「気に入ってくれたなら、いつでも来よう」
「本当ですか?」
「うん。次は、季節が変わってからでもいい。今日とは違う花が咲いているだろうから」
リヴィアは、嬉しそうに微笑んだ。
「では、次に来るときは、今日見られなかった場所も回ってみたいです」
「いいね。次は君が案内してくれる?」
「えっ、私がですか?」
「今日、いろいろ調べてきたのだろう?」
「そ、それはそうですが……」
「君がどんなふうに説明してくれるのか、楽しみにしているよ」
リヴィアは、しばらく彼を見つめたあと、少し照れたように笑った。
「……分かりました。次は、私が案内します」
「約束だね」
「はい。約束です」
二人は、顔を見合わせて微笑んだ。
それは、大げさな約束ではなかった。
将来を決める言葉でも、二人の関係を定義する言葉でもない。
ただ、また一緒に来ようという約束。
次の季節に、今日とは違う花を見ようという約束。
けれど、リヴィアにとっては、それで十分だった。
未来に何が待っているのかは分からない。
いつか、彼との関係について答えを出さなければならない日も来るだろう。
そのとき、自分がどんな選択をするのか、今はまだ分からない。
それでも、今日という一日が楽しかったことは確かだ。
彼と花を見て、知らないことを教わり、自分の考えを話した。
そして、次に一緒に過ごす日を楽しみにしている。
その気持ちを、今は大切にしたかった。
「ルシアン殿下」
「何かな?」
「今日は、本当に楽しかったです」
リヴィアは、まっすぐに彼を見つめた。
「また、一緒に来てくださいね」
ルシアンは、優しく微笑んだ。
「もちろん。君が望んでくれるなら、何度でも」
その言葉に、リヴィアの胸が温かくなった。
彼の隣を歩きながら、彼女は夕暮れの空を見上げた。
かつての自分は、決められた運命から逃れることばかり考えていた。
けれど今は、違う。
自分が見たい景色がある。
知りたい人がいる。
そして、もう一度訪れたい場所がある。
それらを一つずつ増やしていくことが、いつか自分の望む未来につながるのかもしれない。
リヴィアは、隣を歩くルシアンをそっと見上げた。
彼は、何かを尋ねることもなく、ただ彼女の歩調に合わせていた。
その横顔を見ていると、また次の休日が楽しみになった。
まだ、答えは出ていない。
けれど、答えを探す時間さえも、今の自分には大切なものになり始めていた。




