知らなかった君の横顔
次の休日まで、あと三日。
リヴィアは授業の合間に、何度も鞄の中の小さな手帳を確認していた。
手帳には、王立植物園について調べたことが書き込まれている。
開園時間。
季節ごとに見られる花。
温室で育てられている珍しい植物。
そして、園内にあるという小さな休憩所。
最初は、行きたい場所を忘れないために書き始めただけだった。
ところが、調べているうちに興味を引かれるものが次々と見つかり、気がつけば手帳の数ページが植物園の情報で埋まっていた。
「……こんなに書くつもりではなかったのだけれど」
リヴィアは自分の筆跡を眺め、小さく苦笑した。
植物の名前を調べるために図鑑を開き、図鑑に載っていた花の原産地が気になって別の本を読み、さらにその植物がヴァロリアへ持ち込まれた経緯まで調べてしまったのだ。
おかげで、植物園へ行く前から、すでにいくつかの花について詳しくなっていた。
けれど、不思議と疲れは感じなかった。
知らないことを調べるのが、楽しかったからだ。
そして、その知識を次の休日にルシアンと共有できると思うと、自然と頬が緩んでしまう。
「リヴィア様」
隣から声をかけられ、彼女は顔を上げた。
そこには、同じ教室で課題に取り組んでいたセレネが立っていた。
銀色の髪が肩の上で揺れ、淡い金色の瞳がリヴィアの手帳に向けられている。
「先ほどから、ずいぶん熱心に何かを書いていらっしゃいますね」
「ええ。今度、植物園へ行くことになったの。それで、少し調べていたのよ」
「植物園……」
セレネは、興味深そうに頷いた。
「実際に見に行く前に調べておくのは、よい方法だと思います。知識があれば、見えるものも変わるでしょうから」
「そうね。ただ、調べすぎてしまった気もするわ」
「それなら、現地で初めて知ることを残しておけばいいのではありませんか?」
リヴィアは目を瞬かせた。
「初めて知ることを、残しておく?」
「はい。すべてを先に調べてしまったら、実際に見たときの驚きが少なくなってしまうかもしれません」
セレネは少し考えてから、言葉を続けた。
「私は、知識として理解することと、実際に経験することは、同じではないと思っています」
リヴィアは、静かに彼女を見つめた。
かつて世界を観察する立場にいたセレネだからこそ、その言葉には特別な意味があるように感じられた。
「……確かに、そうね」
リヴィアは手帳を閉じた。
「花の名前や特徴を知っていても、実際に見たときに何を感じるかまでは、分からないもの」
「ええ。ですから、少しくらい知らないことが残っていても、問題はないと思います」
セレネは穏やかに微笑んだ。
「むしろ、知らないことがあるからこそ、楽しめるのではないでしょうか」
その言葉に、リヴィアは胸の奥が軽くなるのを感じた。
未来についても、同じなのかもしれない。
先のことをすべて調べ、あらゆる可能性を想定し、間違いのない道を探そうとしても、実際に歩いてみなければ分からないことはある。
誰かと一緒に過ごしてみなければ、気づけない感情もある。
だから、すべてを知ってから進む必要はないのだ。
分からないことを残したままでも、一歩を踏み出していい。
「ありがとう、セレネ。少し気が楽になったわ」
「お役に立てたなら、よかったです」
セレネは小さく頷いた。
そのとき、教室の入口から、明るい声が響いた。
「二人とも、ここにいたのね!」
エヴリンだった。
彼女は手にした包みを掲げ、楽しそうに笑った。
「フィリアが、また新しいパンを見つけたそうよ。お昼休みにみんなで食べようって」
「……またパンなのね」
リヴィアが呟くと、セレネは少しだけ口元を緩めた。
「フィリアにとって、パンは日常の大切な一部なのでしょう」
「それは分かるのだけれど、最近は新しいパンを見つけるたびに、学院中へ知らせている気がするわ」
「それだけ、おいしいものを共有したいのではないかしら」
エヴリンは、包みを机の上に置いた。
「そういうわけで、リヴィアも一緒に来てね。フィリアが、あなたの感想を聞きたいって言っていたわ」
「私の?」
「ええ。以前、あなたが蜂蜜パンを気に入っていたでしょう? それで、今度のパンも好きそうだと思ったらしいの」
リヴィアは思わず笑った。
「……私の好みまで覚えていたのね」
「フィリアは、そういうところだけ妙に鋭いのよ」
「聞こえていますよ、エヴリン!」
教室の外から、フィリアの声が飛んできた。
三人がそちらを見ると、銀色の髪の少女が、紙袋を抱えて立っていた。
「私のパンに対する観察力を、侮らないでください!」
「はいはい。分かったわ」
「その返事は、信頼が足りません!」
フィリアが頬を膨らませ、エヴリンが笑う。
セレネも、どこか楽しそうにその様子を見ていた。
リヴィアは、そんな友人たちの姿を眺めながら、自然と笑みを浮かべた。
特別な出来事がなくても、こうして笑い合える時間がある。
自分が大切にしたい未来には、きっと、こうした何気ない瞬間も含まれているのだろう。
昼休み。
学院の中庭に集まったリヴィアたちは、木陰のベンチに座っていた。
フィリアが持ってきたのは、表面に細かな花の模様が刻まれた小さな焼き菓子パンだった。薄い砂糖の膜が陽光を受け、きらきらと輝いている。
「こちらは、ヴァロリアの職人街にある店で作られているパンです!」
「職人街?」
リヴィアは顔を上げた。
「はい。以前、ルシアン殿下と市場へ行かれたとき、見かけませんでしたか?」
「……どうして、そのことを知っているの?」
「殿下から、少しだけお話を伺いました!」
「えっ?」
リヴィアは思わず背筋を伸ばした。
「殿下と会ったの?」
「はい。昨日、学院の食堂でお会いしたので、おいしいパンについて情報交換をしました!」
「情報交換……」
リヴィアは額に手を当てた。
どうやら、フィリアにとってパンの話題は、王子と話す際にも遠慮なく持ち出せる重要事項らしい。
「それで、殿下が教えてくださったのです。このパンを作っている職人さんは、花の模様を一つずつ手で刻んでいるそうですよ」
フィリアは誇らしげに説明した。
「へえ。細かい仕事なのね」
リヴィアがパンを手に取ると、表面には小さな花びらや葉の模様が丁寧に刻まれていた。
食べ物でありながら、ちょっとした工芸品のようにも見える。
「……きれいね」
「でしょう?」
フィリアは満足そうに頷いた。
リヴィアは一口食べた。
香ばしい生地の中に、木の実と蜂蜜の甘さが広がる。
「おいしいわ」
「ありがとうございます!」
フィリアは両手を握りしめ、嬉しそうに笑った。
「ところで、リヴィア様。植物園へ行かれるのですよね?」
「ええ。今度の休日に」
「どんな植物があるのですか?」
「温室には、ヴァロリアの北部から運ばれた珍しい花があるそうよ。季節の花も見頃らしいわ」
「素敵ですね!」
フィリアは目を輝かせた。
「植物園には、パンを持ち込めるのでしょうか?」
「……フィリア?」
「いえ、植物を眺めながら食べるパンは、きっと普段よりおいしいと思いまして!」
「その発想は、あなたらしいわね……」
リヴィアが苦笑すると、エヴリンが横から口を挟んだ。
「植物園には休憩所もあるそうよ。そこで食べるのなら、問題ないかもしれないわね」
「本当ですか!?」
「でも、今回はリヴィアとルシアン殿下の外出でしょう?」
エヴリンは、わざとらしく首を傾げた。
「フィリアまでついていったら、二人きりではなくなってしまうわね」
「……それは困ります!」
フィリアは真剣な顔で答えた。
「せっかくの外出なのですから、お二人には、ゆっくり花を楽しんでいただきたいです!」
「……っ」
リヴィアは、手にしていたパンを落としそうになった。
「フィリア! そういう言い方をしないで!」
「どうしてですか? 私は応援していますよ!」
「応援しなくても大丈夫だから!」
「そうなのですか?」
「そうなの!」
リヴィアが真っ赤になって反論すると、エヴリンが吹き出した。
セレネも、目元を柔らかくしている。
「リヴィア様」
セレネが静かに声をかけた。
「植物園で何を感じるか、楽しみですね」
「……セレネまで」
「私は、リヴィア様が楽しみにしていらっしゃることを、嬉しく思っているだけです」
その言葉に、リヴィアは反論できなくなった。
友人たちは、自分をからかっているだけではない。
自分が何かを楽しみにしていること。
自分の気持ちを少しずつ言葉にできるようになったこと。
その変化を、喜んでくれているのだ。
「……ありがとう」
リヴィアが小さく呟くと、エヴリンは優しく微笑んだ。
「どういたしまして」
フィリアは、残っていたパンを紙袋へ戻しながら頷いた。
「では、植物園の感想を、後日ぜひ聞かせてください!」
「ええ。ちゃんと話すわ」
「花の話もお願いします!」
「分かったわ」
「できれば、休憩所で何を召し上がったかも!」
「……フィリア」
「はい!」
「パンの話に戻っているわよ」
「当然です!」
その答えに、四人の笑い声が中庭へ広がった。
午後の授業が終わる頃には、リヴィアの気持ちはすっかり落ち着いていた。
手帳を開けば、植物園について調べた情報が並んでいる。
けれど、セレネの言葉を思い出し、彼女は新しい項目を一つだけ書き加えた。
『実際に見て、自分が何を感じるのか確かめる』
書き終えたリヴィアは、しばらくその文字を眺めた。
花の名前を覚えることも、植物の歴史を知ることも、決して無駄ではない。
けれど、知識を集めることだけが目的ではないのだ。
自分の目で見て、自分の心で感じる。
その経験を通して、初めて気づけることもある。
それは、ルシアンとの関係についても同じだった。
彼が自分を大切にしてくれていることは、もう分かっている。
けれど、その気持ちを知っているからといって、自分の答えまで決まるわけではない。
自分が彼と過ごす時間をどう感じるのか。
彼のどんなところに惹かれているのか。
これからも一緒にいたいと思う理由は何なのか。
それらは、実際に時間を重ねながら、自分で確かめていく必要がある。
「……少しずつ、ね」
リヴィアは手帳を閉じた。
そのとき、机の上に置いていた別の紙が目に入った。
以前、交流祭の未来記録を整理したときに書いた、自分の言葉だった。
『ここから先は、あなたたちの未来です』
誰かが決めた結末をなぞるのではなく、自分たちで選び、歩いていく。
その考え方は、今の自分にもつながっている。
かつてのリヴィアは、運命を変えるために必死だった。
けれど今は、変えた未来の中で、自分が何を望むのかを考えようとしている。
そこには、以前にはなかった自由があった。
何を選ぶのかは、自分で決めていい。
すぐに答えが出なくてもいい。
誰かと話し、迷い、時には考え直しながら、それでも前へ進めばいいのだ。
リヴィアは鞄を手に取り、教室を出た。
廊下の窓からは、夕暮れの光が差し込んでいる。
次の休日には、植物園でどんな花に出会えるだろう。
そして、隣を歩くルシアンと、どんな話ができるだろう。
考えるだけで、胸が少し弾んだ。
その感情を、今はもう否定しなかった。
彼と過ごす時間が楽しみだということ。
彼のことをもっと知りたいということ。
そして、自分自身の気持ちも、もっと知りたいということ。
そのどれもが、今の自分にとって大切なものだった。
リヴィアは夕空を見上げ、小さく微笑んだ。
まだ、未来の答えは分からない。
けれど、次の一歩を楽しみにすることはできる。
知らない花に出会うように、知らなかった自分の気持ちにも出会えるかもしれない。
その日を迎えることが、今のリヴィアには何よりも楽しみだった。




