次の休日に、君が見たい景色
ルシアンと市場を訪れた休日から数日が過ぎた。
リヴィアは、学院の授業を終えたあと、教室の窓辺で一枚の紙を眺めていた。
そこには、いくつかの場所の名前が書かれている。
王都の北にある湖。
古い街並みが残る職人街。
季節の花が咲く王立植物園。
そして、ヴァロリアの歴史を伝える小さな博物館。
どれも、次にルシアンと出かけるなら訪れてみたいと思った場所だった。
「……意外と、行ってみたい場所があるものね」
自分で書き出しておきながら、リヴィアは少し驚いていた。
以前なら、休日の予定を考えるときでさえ、余計なことを考えていたはずだ。
人目を引かないだろうか。
誰かに誤解されないだろうか。
その時間を使うことで、何か問題が起きるのではないか。
もちろん、今でも周囲への配慮は必要だと思っている。
けれど、そればかりを気にして、自分が何をしたいのかを後回しにする必要はない。
行ってみたい場所があるのなら、その理由を考えてみればいい。
知りたいことがあるのなら、実際に見てみればいい。
そして、誰かと一緒に過ごしたいと思うのなら、その気持ちを認めてもいいのだ。
リヴィアは紙の端を指で整え、鞄へしまった。
「よし。これで大丈夫ね」
「何が大丈夫なの?」
「きゃっ!」
聞き覚えのある声に驚き、リヴィアは振り返った。
そこには、エヴリンが立っていた。
彼女はリヴィアの鞄と、その手元を交互に見つめている。
「今、何か隠したでしょう?」
「隠したわけではないわ」
「じゃあ、何?」
「……次の休日に行ってみたい場所を書いていたの」
エヴリンの瞳が、ぱっと輝いた。
「ルシアン殿下と?」
「……そうよ」
リヴィアは一瞬だけためらったものの、今回は否定しなかった。
すると、エヴリンは満足そうに頷いた。
「いいじゃない!」
「そんなに喜ぶこと?」
「喜ぶわよ。だって、以前のあなたなら、誰かと出かける予定を立てるだけでも、いろいろ考え込んでいたでしょう?」
「……否定はできないわね」
「それが、自分から行きたい場所を考えるようになったのだもの。大きな変化だと思うわ」
そう言われると、確かにそうかもしれない。
リヴィアは少し照れくさくなり、視線を窓の外へ向けた。
「ただ、次の予定が決まったわけではないのよ。殿下も忙しいでしょうし」
「それなら、まずは聞いてみればいいじゃない」
「簡単に言うわね……」
「簡単なことだもの。都合が合わなければ、別の日にすればいいだけでしょう?」
エヴリンは、まるで当たり前のことを説明するように言った。
「リヴィアは、いつも先のことまで考えすぎるのよ。予定が合わなかったら、そのときに考えればいいじゃない」
「……そうね」
リヴィアは苦笑した。
確かに、まだ何も起きていないのに、断られた場合や予定が合わなかった場合のことまで考えていた。
ルシアンは忙しい。
王族としての仕事もある。
学院での勉強もある。
だから、次の休日が必ず空いているとは限らない。
けれど、それは二人が出かけることを望んでいないという意味ではない。
都合が合わなければ、別の日にすればいい。
ただ、それだけのことだった。
「ありがとう、エヴリン」
「どういたしまして。……ところで、その紙を見せてもらってもいい?」
「えっ?」
「どこへ行きたいのか、気になるじゃない」
「そ、それは……」
リヴィアは鞄を抱え直した。
行き先を見られること自体は問題ない。
しかし、エヴリンに知られれば、どこへ行くにしても余計な意味を持たせてからかわれそうだった。
「……また今度ね」
「あら、残念」
エヴリンは笑いながら、リヴィアの腕を軽くつついた。
「でも、応援しているわ。あなたが自分の気持ちを大切にできるようにね」
その言葉に、リヴィアは柔らかく微笑んだ。
「うん。ありがとう」
◇
その日の放課後。
リヴィアは学院の中庭で、ルシアンを見つけた。
彼は庭園のベンチに腰掛け、書類を一枚ずつ確認していた。隣には閉じられた革張りの鞄が置かれ、時折、風が書類の端を揺らしている。
リヴィアは少し離れたところで立ち止まった。
声をかけていいものか、迷ったのだ。
けれど、彼はすぐに顔を上げた。
「リヴィア?」
「こんにちは、殿下」
「こんにちは。どうしたの?」
「いえ、その……少し、お話ししたいことがあって」
ルシアンは手元の書類をまとめた。
「もちろん。急ぎの用事ではないから、話を聞かせて」
「お仕事の途中ではありませんか?」
「もうすぐ終わるところだったんだ。君が来てくれたおかげで、ちょうどいい休憩になったよ」
そう言って、彼は隣の席を勧めた。
リヴィアは礼を言って腰掛ける。
目の前には、手入れされた花壇が広がっていた。白や青の花が風に揺れ、遠くから学生たちの話し声が聞こえてくる。
彼女は一度、息を整えた。
「実は……次の休日について、少し考えていたんです」
ルシアンの表情が明るくなる。
「次の休日?」
「はい。前回、ヴァロリアの街を案内していただいたでしょう?」
「ああ。市場や川沿いを歩いた日だね」
「とても楽しかったです。それで、もしご都合が合うようでしたら……また、どこかへ一緒に出かけられたらと思って」
最後のほうは、少しだけ声が小さくなった。
それでも、リヴィアは目を逸らさなかった。
自分から誘うのは、思っていた以上に勇気がいる。
断られたらどうしよう。
忙しいと言われたら、どんな顔をすればいいのだろう。
そんな不安が、ほんの少しだけ胸をよぎった。
けれど、ルシアンの答えは予想以上に早かった。
「ぜひ、一緒に行こう」
「……え?」
「僕も、また君と出かけたいと思っていたんだ」
リヴィアは目を瞬かせた。
「本当ですか?」
「もちろん。前回は君が行きたい場所を中心に回ったけれど、次はどこへ行くつもりなのかな?」
リヴィアは鞄から、先ほど書き出した紙を取り出した。
「まだ、決めきれてはいないのですが……候補はいくつかあります」
紙を差し出すと、ルシアンはそれを受け取った。
書かれた場所を一つずつ目で追っていく。
「北の湖に、職人街、植物園……博物館もあるね」
「はい。どこも、以前から少し気になっていた場所なんです」
「なるほど」
ルシアンは紙を見つめながら、少し考えた。
「今の季節なら、植物園がよさそうだ。温室では珍しい花も見られるし、屋外の庭園にも見頃の花があると思う」
「植物園……」
「それから、職人街もおすすめだよ。小さな工房が多くて、王宮では見られないような道具や装飾品が並んでいる」
リヴィアの目が輝いた。
「どちらも素敵ですね」
「湖は少し遠いから、一日かけて出かけることになる。博物館なら、学院の帰りに寄ることもできるよ」
「そんなに詳しいのですね」
「この国で育ったからね。それに、君に紹介できそうな場所を考えておくのも楽しかった」
その言葉に、リヴィアは思わず顔を上げた。
「……私に紹介するために、ですか?」
「うん。君がどんな場所を気に入るのか、想像していたんだ」
ルシアンは、少し照れたように微笑んだ。
「もっとも、僕の想像が当たっているとは限らないけれどね」
リヴィアの胸が、じんわりと温かくなる。
自分が行きたい場所を考えていたのと同じように、彼もまた、自分と過ごす時間について考えてくれていた。
それが、嬉しかった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。それで、どこへ行こうか?」
リヴィアは候補の紙を見下ろした。
どれも魅力的だった。
けれど、今の自分が最も見てみたいと思う場所は、はっきりしていた。
「植物園へ行ってみたいです」
「分かった。では、次の休日は植物園にしよう」
「よろしいのですか? 殿下のご都合もあるでしょうし……」
「その日は今のところ予定が入っていないよ。もし変更が必要になったら、きちんと君に伝える」
ルシアンは、リヴィアの目を見て言った。
「だから、今は楽しみにしていてくれると嬉しい」
リヴィアは小さく頷いた。
「はい。楽しみにしています」
言葉にした瞬間、胸の奥で期待が膨らんだ。
次の休日。
今度は、自分が選んだ場所へ彼と出かける。
どんな花が咲いているのだろう。
どんな景色が見られるのだろう。
そして、二人でどんな話をするのだろう。
まだ何も始まっていないのに、想像するだけで楽しくなった。
◇
「ところで、リヴィア」
ルシアンが、ふと思い出したように口を開いた。
「一つ、聞いてもいいかな?」
「何でしょう?」
「君は、どうして植物園へ行きたいと思ったの?」
リヴィアは少し考えた。
花が好きだから。
温室を見てみたいから。
珍しい植物に興味があるから。
理由はいくつかあった。
けれど、どれも本当である一方、すべてではない気がした。
「……花を見たいと思ったのも、本当です。でも、それだけではないかもしれません」
「というと?」
「学院の庭園も好きですけれど、植物園なら、もっといろいろな花が見られるでしょう? 自分が知らないものを見て、何を美しいと思うのか、確かめてみたいんです」
リヴィアは、ゆっくりと言葉を続けた。
「最近、自分が何を望んでいるのか、もっと知りたいと思うようになりました。だから、行ってみたい場所や、やってみたいことを、一つずつ試してみたいんです」
ルシアンは、静かに彼女の話を聞いていた。
「そうか」
やがて、彼は優しく微笑んだ。
「君が何を美しいと思うのか、僕も知りたいな」
「……殿下も?」
「うん。君が何かを見て、どんな顔をするのか。何に興味を持って、何に心を動かされるのか。そういうことを知るのも、君を知ることの一つだと思うから」
リヴィアは、胸元が熱くなるのを感じた。
彼は、ただ自分の気持ちを待っているわけではない。
自分がどんな人間なのかを、もっと知りたいと思ってくれている。
そして、自分にも彼を知る機会を与えてくれている。
それが、何よりも嬉しかった。
「……では、当日は私の感想を聞いてくださいね」
「もちろん。遠慮なく聞かせてほしい」
「もしかしたら、花の名前をたくさん質問するかもしれません」
「そのときは、僕も一緒に調べよう」
「それでも分からなかったら?」
「植物園の職員に聞けばいい」
「……ずいぶん現実的ですね」
「知らないことを知るために行くのだから、詳しい人に聞くのは合理的だろう?」
リヴィアは、思わず笑った。
「ふふっ……そうですね」
ルシアンも笑みを浮かべた。
二人の間には、穏やかな沈黙が流れた。
風が吹き抜け、花壇の青い花が揺れる。
リヴィアは、その景色を眺めながら思った。
こうして一緒に何かを考える時間が好きだ。
自分だけでは思いつかなかったことを、彼が教えてくれる。
彼が知らないことを、自分が伝えられるかもしれない。
どちらか一方がすべてを決めるのではなく、互いに意見を出し合いながら、二人で答えを見つけていく。
それは、交流祭の準備を通じて学んだことにも似ていた。
同じ考えを持っていなくてもいい。
違うからこそ、知ることができるものもある。
そして、相手を知ろうとする気持ちがあれば、その違いは必ずしも壁にはならない。
「ルシアン殿下」
「うん?」
「私、あなたと話をするたびに、新しいことを考えるようになりました」
リヴィアは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「自分が何をしたいのか、何を大切にしたいのか。以前よりも、きちんと考えてみたいと思うようになったんです」
「それは嬉しいね」
「でも、まだ分からないことばかりです」
「分からないことがあるのは、悪いことではないよ」
ルシアンは穏やかに言った。
「知らないことがあるから、知ろうと思える。答えが決まっていないから、自分で考えることができる。僕は、そういう時間も大切だと思っている」
リヴィアは、静かに頷いた。
自分はずっと、正しい答えを探そうとしていた。
間違えないこと。
失敗しないこと。
誰かを傷つけないこと。
それらを大切にするあまり、答えを選ぶこと自体が怖くなっていたのかもしれない。
けれど、未来に正解が一つしかないとは限らない。
何を選ぶにしても、その選択に向き合い、必要なら考え直し、また進めばいい。
自分には、それができる。
そう信じられるようになったのは、周囲の人たちが、自分の選択を尊重してくれたからだった。
「……ありがとうございます、殿下」
「今日は、ありがとうと言われることが多いね」
「それだけ、感謝しているということです」
「なら、僕も一つ伝えておこうかな」
ルシアンは、少しだけ身を乗り出した。
「君が自分の望みを話してくれることが、僕は嬉しいんだ。君が行きたい場所を教えてくれることも、次の休日を楽しみにしてくれることもね」
リヴィアは、彼を見つめた。
「だから、これからも遠慮せずに話してほしい。行きたい場所でも、やってみたいことでも、あるいは不安に思っていることでも」
その言葉は、彼女の心を優しく包んだ。
「……はい」
リヴィアは、今度こそまっすぐに答えた。
「これからも、たくさんお話ししますね」
「楽しみにしているよ」
◇
やがて、帰宅の時間が近づいた。
ルシアンは残っていた書類を鞄にしまい、リヴィアと並んで中庭を出た。
学院の正門へ向かう道には、夕方の光が長い影を落としている。
「では、植物園のことは、また詳しく決めよう」
「はい。私も、開園時間などを調べておきます」
「助かるよ。僕は、植物園までの道を確認しておく」
「……本当に、一緒に計画するのですね」
リヴィアが微笑むと、ルシアンも頷いた。
「もちろん。二人で出かけるのだから、二人で決めたほうが楽しいだろう?」
その言葉に、リヴィアは目を細めた。
「そうですね」
正門の近くで、二人は足を止めた。
それぞれ帰る方向が違うため、ここで別れることになる。
「では、また明日」
ルシアンが言った。
「はい。また明日、殿下」
リヴィアは一歩進みかけた。
けれど、ふと思い出し、再び彼のほうを振り返った。
「……ルシアン殿下」
「どうしたの?」
「次の休日、本当に楽しみにしています」
彼女は少し頬を赤くしながらも、笑顔でそう伝えた。
ルシアンは、驚いたように目を見開いたあと、心から嬉しそうに微笑んだ。
「僕もだよ、リヴィア」
その返事を聞いて、リヴィアは満足そうに頷いた。
今度こそ、彼女は帰路についた。
歩きながら、胸元の鞄にそっと手を添える。
中には、銀の栞が入っている。
選んだ未来の、その先へ。
その言葉が、以前よりもずっと身近に感じられた。
未来を決めることは、まだ怖い。
自分が何を望んでいるのか、すべて分かったわけではない。
けれど、今の自分には、確かに楽しみにしていることがある。
次の休日に見る花。
初めて訪れる植物園。
隣を歩くルシアンと交わす会話。
それらを一つずつ重ねていくうちに、きっと新しい気持ちにも出会えるだろう。
その気持ちを、焦らずに確かめていけばいい。
リヴィアは夕空を見上げ、静かに微笑んだ。
かつての自分は、未来を変えるために戦っていた。
今の自分は、未来を選ぶために歩いている。
その違いを、彼女は確かに感じ始めていた。




