私が望む未来を探して
休日の外出から二日後。
リヴィアは、王立セイレーン学院の図書館で一冊の本を前にしていた。
窓から差し込む午後の光が、机の上に広げられた紙と羽根ペンを照らしている。周囲では学生たちが静かに読書を楽しみ、ときおりページをめくる音が聞こえていた。
リヴィアの目の前にあるのは、ヴァロリアの歴史や文化をまとめた書物だった。
休日にルシアンと訪れた市場のことを思い出しながら、彼女は本の一節に目を落とした。
王族として国を守ること。
その国に暮らす人々の生活を守ること。
そして、次の世代へ未来をつないでいくこと。
どれも大切な役割だ。
けれど、あの日のルシアンの話を聞いてから、リヴィアの中には新しい疑問が生まれていた。
彼が王子としての責任を果たそうとする一方で、一人の人間として望んでいるものは何なのだろう。
彼は、どんな場所で暮らしたいのか。
どんな一日を過ごしたいのか。
何を失いたくないと思っているのか。
自分は、そうしたことをどれだけ知っているのだろう。
「……まだまだ知らないことばかりね」
リヴィアは羽根ペンを置いた。
ルシアンと過ごす時間は楽しい。
それは、もう疑いようのない気持ちだった。
けれど、楽しいという感情だけで、相手のすべてを理解したつもりになってはいけない。
彼にも、彼だけの考えがある。
王子として生きてきた彼だからこそ、誰にも話していない迷いや悩みがあるかもしれない。
自分が彼を知ろうとするのなら、彼が自分を知ろうとするのと同じように、少しずつ時間を重ねていけばいい。
そう考えたところで、リヴィアはふと顔を上げた。
「……あら?」
図書館の入口から、エヴリンがこちらへ歩いてくるのが見えた。
彼女はリヴィアを見つけると、手にしていた本を軽く掲げた。
「やっぱりここにいたのね」
「エヴリン。どうしたの?」
「先生に頼まれた資料を探していたの。それで、あなたを見つけたから声をかけようと思って」
エヴリンは向かいの椅子に腰を下ろし、リヴィアの前にある本へ視線を向けた。
「ヴァロリアの歴史?」
「ええ。少し気になることがあって」
「へえ……」
エヴリンの口元に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「ヴァロリアについて知りたいの? それとも、ヴァロリアの王子様について?」
「エヴリン!」
「ふふっ、ごめんなさい」
謝りながらも、彼女はまったく反省していない様子だった。
リヴィアは小さくため息をついた。
「ルシアン殿下のことも、もちろん知りたいわ。でも、そういう意味だけではないの」
「そういう意味だけでは、ね」
「……もう、話を聞く気がないでしょう?」
「あるわよ。ちゃんと聞いているわ」
エヴリンは笑みを収め、少しだけ真剣な表情になった。
「それで、何が気になっているの?」
リヴィアはすぐには答えなかった。
自分の考えを言葉にするのは、思っていた以上に難しかった。
「……私、自分がどんな未来を望んでいるのか、もう少し考えてみたいの」
「未来?」
「ええ。今までは、悪い結末を避けることばかり考えていたから」
リヴィアは、机の上に置いた指先を見つめた。
前世の記憶を取り戻したばかりの頃、彼女にとって最も重要だったのは、ゲームで決められていた運命から逃れることだった。
断罪を避ける。
攻略対象たちと距離を取る。
誰かの恋路を邪魔しない。
そして、破滅する未来を迎えないようにする。
それらは、当時の自分にとって必要なことだった。
けれど、運命に抗い、数えきれない出来事を乗り越えた今、同じ考え方だけでは足りないと感じていた。
「破滅しないことと、幸せになることは、同じではないでしょう?」
エヴリンは静かに頷いた。
「そうね」
「危険を避けることばかり考えていたら、何をしたいのか分からなくなってしまう。何を失いたくないのかは考えてきたけれど……何を手に入れたいのかは、あまり考えてこなかったの」
リヴィアは顔を上げた。
「だから、これからは自分が望むものも、きちんと考えたいと思っているわ」
エヴリンはしばらく彼女を見つめていた。
やがて、柔らかな笑みを浮かべる。
「それなら、いいことじゃない」
「そう思う?」
「もちろん。だって、リヴィアはもう、何かから逃げるためだけに生きているわけではないのでしょう?」
その言葉に、リヴィアは目を瞬かせた。
逃げるためだけに生きているわけではない。
それは、今まで自分がはっきりと意識していなかった変化だった。
以前の自分なら、将来の話をするたびに、失敗した場合のことを先に考えていた。
誰かを傷つけてしまったら。
自分の選択が間違っていたら。
取り返しのつかない結果になったら。
けれど、今は少し違う。
失敗する可能性があると分かっていても、やってみたいことがある。
知りたい人がいる。
これからも一緒に笑っていたいと思う友人たちがいる。
そして、自分の気持ちを確かめながら、もう少し近づいてみたいと思う人がいる。
「……そうね」
リヴィアは、ゆっくりと頷いた。
「私は、もう少し自分のためにも未来を考えてみたい」
「うん。それがいいわ」
エヴリンは嬉しそうに笑った。
「それに、未来って一人で考えなければいけないものでもないでしょう?」
「一人で考えなくてもいい?」
「ええ。自分の気持ちは自分で決めるものだけれど、誰かと話すことで気づけることもあるわ。私だって、リヴィアと話しているうちに、自分では考えもしなかったことに気づくことがあるもの」
エヴリンは窓の外へ視線を向けた。
「交流祭だって、そうだったでしょう? 最初から全員が同じ考えを持っていたわけではないわ。でも、違う考えを聞いたからこそ、できたことがあった」
「……ええ」
「だから、リヴィアも焦らなくていいと思う。自分の未来を考えながら、周りの人たちとも話してみればいいのよ」
その言葉は、リヴィアの胸にすっと染み込んだ。
自分の未来を決めるのは自分だ。
けれど、それは誰の助けも借りずに答えを出さなければならない、という意味ではない。
迷ったときには相談してもいい。
知らないことは教えてもらってもいい。
誰かの考えを聞いたうえで、自分の考えを変えたっていい。
そうして選んだ答えなら、きっと自分自身のものになる。
「ありがとう、エヴリン」
「どういたしまして。……ところで」
エヴリンの表情が、再びいたずらっぽいものに変わった。
「その未来を考えるとき、ルシアン殿下のことも含まれているのよね?」
「……っ」
「今の反応で分かったわ」
「まだ何も答えていないでしょう!」
「答えなくても分かることはあるのよ」
「そんなこと、ありません!」
リヴィアは声を潜めながら反論した。
図書館であることを思い出し、慌てて周囲を見回す。幸い、近くの学生たちはそれぞれの本に集中していた。
エヴリンは、くすくすと笑った。
「でも、よかった。あなたが殿下のことを考えるとき、以前みたいに困った顔ばかりしなくなったから」
リヴィアは反論をやめた。
「……以前は、困ってばかりだったわね」
「ええ。殿下が話しかけてくるたびに、どうやって逃げようか考えているみたいだったもの」
「それは……仕方がなかったのよ」
「分かっているわ」
エヴリンの声が、少しだけ優しくなる。
「でも、今は違うのでしょう?」
リヴィアは、すぐには答えなかった。
窓から差し込む光が、机の上の本を照らしている。
彼と過ごした休日のことを思い出す。
市場で買った蜂蜜パン。
昔の話を聞いたときの、少し照れたような彼の笑顔。
川沿いのベンチで、何も急がずに話をした時間。
そして、また誘ってほしいと、自分から伝えたこと。
思い出すたびに、胸の奥が温かくなった。
「……今は、次に会える日が楽しみよ」
リヴィアは、素直にそう答えた。
エヴリンは驚いたように目を見開き、それから、心から嬉しそうに笑った。
「そう。なら、十分に前へ進んでいるわ」
「これだけで?」
「これだけでも、よ」
エヴリンは立ち上がり、本を抱え直した。
「結婚するかどうかの答えは、まだ先でもいいじゃない。今は、あなたが自分の気持ちを知っていくことが大切なのでしょう?」
「……そうね」
「それじゃあ、私は資料を届けてくるわ。またあとでね」
「ええ。またあとで」
エヴリンは軽く手を振り、図書館の奥へ歩いていった。
その背中を見送りながら、リヴィアは静かに息を吐いた。
友人に話してみたことで、自分が何を考えているのか、少し整理できた気がした。
答えは、まだ出ていない。
けれど、答えが出ていないことを、もう以前ほど恐れてはいなかった。
◇
その日の放課後。
リヴィアが図書館を出ると、学院の中庭にルシアンの姿があった。
彼は庭園の端に立ち、手元の書類に目を通していた。ヴァロリアから届いた公務関係の資料だろう。時折、近くに控えていた従者と短く言葉を交わしている。
リヴィアは少し離れた場所で足を止めた。
声をかけようか、迷った。
公務の最中なら、邪魔をするべきではない。
そう考えていると、ルシアンが顔を上げた。
目が合う。
彼は従者に何かを伝えたあと、こちらへ歩いてきた。
「リヴィア。もう帰るところ?」
「はい。殿下はお仕事ですか?」
「少しだけね。急ぎのものではないから、今日中に確認しておけば大丈夫だよ」
「そうなのですね」
リヴィアは彼の手元にある書類へ視線を落とした。
「お忙しいのに、学院にも来られているのですね」
「学院にいる間は、できるだけ学生として過ごしたいと思っているよ。もちろん、公務を放っておくわけにはいかないけれど」
「大変そうです」
「慣れているからね。それに、忙しいからこそ、休む時間も必要だ」
ルシアンはそこで言葉を切り、リヴィアを見つめた。
「そういえば、先日の外出は楽しめた?」
「はい。とても」
今度は、迷わず答えられた。
「市場も楽しかったですし、街のこともたくさん知ることができました。それに……殿下のお話も聞けて、嬉しかったです」
ルシアンの目元が柔らかくなる。
「それならよかった」
「また、知らないことを教えていただけますか?」
「もちろん。僕も、君のことをもっと知りたいからね」
リヴィアは小さく微笑んだ。
以前なら、その言葉を聞いただけで、どう返事をすればいいのか分からなくなっていたかもしれない。
けれど今は、彼の言葉をそのまま受け止められる。
「では、次は私からも何かお話ししますね」
「楽しみにしているよ」
短い会話だった。
けれど、それだけで十分だった。
彼と話す時間を、もっと増やしていきたい。
自分のことも知ってもらいたい。
その願いを、少しずつ言葉にしていけばいい。
ルシアンは書類を従者へ預け、リヴィアの隣に並んだ。
「途中まで一緒に歩こうか」
「はい」
二人は中庭を抜け、学院の正門へ向かって歩き始めた。
木々の間から、夕方の光が差し込んでいる。
リヴィアは、隣を歩く彼の横顔をそっと見上げた。
この人と、これからどんな未来を歩むのだろう。
まだ分からない。
けれど、分からないからこそ、知っていきたい。
そして、いつか自分が答えを出すときには、今よりももっと、自分の気持ちを理解していたい。
「ルシアン殿下」
「うん?」
「これからも、いろいろなお話をしましょうね」
彼は足を止め、リヴィアを見た。
その瞳には、驚きと喜びが浮かんでいた。
「……ああ。約束するよ」
穏やかな返事だった。
リヴィアは微笑み、再び歩き始めた。
未来を決めるのは、まだ先かもしれない。
けれど、その未来へ続く道は、もう目の前にある。
今日の会話も、昨日の思い出も、これから重ねていく時間も。
すべてが、彼女自身の選択につながっていく。
そしてリヴィアは、もう逃げるためだけに未来を見つめてはいなかった。
自分が何を望むのか。
誰と一緒に笑っていたいのか。
どんな明日を迎えたいのか。
それを知るために、一歩ずつ進んでいこう。
隣にいる彼の歩調に合わせながら、リヴィアは静かにそう決めた。




