↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
132/178

私が望む未来を探して

 休日の外出から二日後。


 リヴィアは、王立セイレーン学院の図書館で一冊の本を前にしていた。


 窓から差し込む午後の光が、机の上に広げられた紙と羽根ペンを照らしている。周囲では学生たちが静かに読書を楽しみ、ときおりページをめくる音が聞こえていた。


 リヴィアの目の前にあるのは、ヴァロリアの歴史や文化をまとめた書物だった。


 休日にルシアンと訪れた市場のことを思い出しながら、彼女は本の一節に目を落とした。


 王族として国を守ること。

 その国に暮らす人々の生活を守ること。

 そして、次の世代へ未来をつないでいくこと。


 どれも大切な役割だ。


 けれど、あの日のルシアンの話を聞いてから、リヴィアの中には新しい疑問が生まれていた。


 彼が王子としての責任を果たそうとする一方で、一人の人間として望んでいるものは何なのだろう。


 彼は、どんな場所で暮らしたいのか。

 どんな一日を過ごしたいのか。

 何を失いたくないと思っているのか。


 自分は、そうしたことをどれだけ知っているのだろう。


「……まだまだ知らないことばかりね」


 リヴィアは羽根ペンを置いた。


 ルシアンと過ごす時間は楽しい。


 それは、もう疑いようのない気持ちだった。


 けれど、楽しいという感情だけで、相手のすべてを理解したつもりになってはいけない。


 彼にも、彼だけの考えがある。

 王子として生きてきた彼だからこそ、誰にも話していない迷いや悩みがあるかもしれない。


 自分が彼を知ろうとするのなら、彼が自分を知ろうとするのと同じように、少しずつ時間を重ねていけばいい。


 そう考えたところで、リヴィアはふと顔を上げた。


「……あら?」


 図書館の入口から、エヴリンがこちらへ歩いてくるのが見えた。


 彼女はリヴィアを見つけると、手にしていた本を軽く掲げた。


「やっぱりここにいたのね」


「エヴリン。どうしたの?」


「先生に頼まれた資料を探していたの。それで、あなたを見つけたから声をかけようと思って」


 エヴリンは向かいの椅子に腰を下ろし、リヴィアの前にある本へ視線を向けた。


「ヴァロリアの歴史?」


「ええ。少し気になることがあって」


「へえ……」


 エヴリンの口元に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。


「ヴァロリアについて知りたいの? それとも、ヴァロリアの王子様について?」


「エヴリン!」


「ふふっ、ごめんなさい」


 謝りながらも、彼女はまったく反省していない様子だった。


 リヴィアは小さくため息をついた。


「ルシアン殿下のことも、もちろん知りたいわ。でも、そういう意味だけではないの」


「そういう意味だけでは、ね」


「……もう、話を聞く気がないでしょう?」


「あるわよ。ちゃんと聞いているわ」


 エヴリンは笑みを収め、少しだけ真剣な表情になった。


「それで、何が気になっているの?」


 リヴィアはすぐには答えなかった。


 自分の考えを言葉にするのは、思っていた以上に難しかった。


「……私、自分がどんな未来を望んでいるのか、もう少し考えてみたいの」


「未来?」


「ええ。今までは、悪い結末を避けることばかり考えていたから」


 リヴィアは、机の上に置いた指先を見つめた。


 前世の記憶を取り戻したばかりの頃、彼女にとって最も重要だったのは、ゲームで決められていた運命から逃れることだった。


 断罪を避ける。

 攻略対象たちと距離を取る。

 誰かの恋路を邪魔しない。

 そして、破滅する未来を迎えないようにする。


 それらは、当時の自分にとって必要なことだった。


 けれど、運命に抗い、数えきれない出来事を乗り越えた今、同じ考え方だけでは足りないと感じていた。


「破滅しないことと、幸せになることは、同じではないでしょう?」


 エヴリンは静かに頷いた。


「そうね」


「危険を避けることばかり考えていたら、何をしたいのか分からなくなってしまう。何を失いたくないのかは考えてきたけれど……何を手に入れたいのかは、あまり考えてこなかったの」


 リヴィアは顔を上げた。


「だから、これからは自分が望むものも、きちんと考えたいと思っているわ」


 エヴリンはしばらく彼女を見つめていた。


 やがて、柔らかな笑みを浮かべる。


「それなら、いいことじゃない」


「そう思う?」


「もちろん。だって、リヴィアはもう、何かから逃げるためだけに生きているわけではないのでしょう?」


 その言葉に、リヴィアは目を瞬かせた。


 逃げるためだけに生きているわけではない。


 それは、今まで自分がはっきりと意識していなかった変化だった。


 以前の自分なら、将来の話をするたびに、失敗した場合のことを先に考えていた。


 誰かを傷つけてしまったら。

 自分の選択が間違っていたら。

 取り返しのつかない結果になったら。


 けれど、今は少し違う。


 失敗する可能性があると分かっていても、やってみたいことがある。


 知りたい人がいる。


 これからも一緒に笑っていたいと思う友人たちがいる。


 そして、自分の気持ちを確かめながら、もう少し近づいてみたいと思う人がいる。


「……そうね」


 リヴィアは、ゆっくりと頷いた。


「私は、もう少し自分のためにも未来を考えてみたい」


「うん。それがいいわ」


 エヴリンは嬉しそうに笑った。


「それに、未来って一人で考えなければいけないものでもないでしょう?」


「一人で考えなくてもいい?」


「ええ。自分の気持ちは自分で決めるものだけれど、誰かと話すことで気づけることもあるわ。私だって、リヴィアと話しているうちに、自分では考えもしなかったことに気づくことがあるもの」


 エヴリンは窓の外へ視線を向けた。


「交流祭だって、そうだったでしょう? 最初から全員が同じ考えを持っていたわけではないわ。でも、違う考えを聞いたからこそ、できたことがあった」


「……ええ」


「だから、リヴィアも焦らなくていいと思う。自分の未来を考えながら、周りの人たちとも話してみればいいのよ」


 その言葉は、リヴィアの胸にすっと染み込んだ。


 自分の未来を決めるのは自分だ。


 けれど、それは誰の助けも借りずに答えを出さなければならない、という意味ではない。


 迷ったときには相談してもいい。

 知らないことは教えてもらってもいい。

 誰かの考えを聞いたうえで、自分の考えを変えたっていい。


 そうして選んだ答えなら、きっと自分自身のものになる。


「ありがとう、エヴリン」


「どういたしまして。……ところで」


 エヴリンの表情が、再びいたずらっぽいものに変わった。


「その未来を考えるとき、ルシアン殿下のことも含まれているのよね?」


「……っ」


「今の反応で分かったわ」


「まだ何も答えていないでしょう!」


「答えなくても分かることはあるのよ」


「そんなこと、ありません!」


 リヴィアは声を潜めながら反論した。


 図書館であることを思い出し、慌てて周囲を見回す。幸い、近くの学生たちはそれぞれの本に集中していた。


 エヴリンは、くすくすと笑った。


「でも、よかった。あなたが殿下のことを考えるとき、以前みたいに困った顔ばかりしなくなったから」


 リヴィアは反論をやめた。


「……以前は、困ってばかりだったわね」


「ええ。殿下が話しかけてくるたびに、どうやって逃げようか考えているみたいだったもの」


「それは……仕方がなかったのよ」


「分かっているわ」


 エヴリンの声が、少しだけ優しくなる。


「でも、今は違うのでしょう?」


 リヴィアは、すぐには答えなかった。


 窓から差し込む光が、机の上の本を照らしている。


 彼と過ごした休日のことを思い出す。


 市場で買った蜂蜜パン。

 昔の話を聞いたときの、少し照れたような彼の笑顔。

 川沿いのベンチで、何も急がずに話をした時間。


 そして、また誘ってほしいと、自分から伝えたこと。


 思い出すたびに、胸の奥が温かくなった。


「……今は、次に会える日が楽しみよ」


 リヴィアは、素直にそう答えた。


 エヴリンは驚いたように目を見開き、それから、心から嬉しそうに笑った。


「そう。なら、十分に前へ進んでいるわ」


「これだけで?」


「これだけでも、よ」


 エヴリンは立ち上がり、本を抱え直した。


「結婚するかどうかの答えは、まだ先でもいいじゃない。今は、あなたが自分の気持ちを知っていくことが大切なのでしょう?」


「……そうね」


「それじゃあ、私は資料を届けてくるわ。またあとでね」


「ええ。またあとで」


 エヴリンは軽く手を振り、図書館の奥へ歩いていった。


 その背中を見送りながら、リヴィアは静かに息を吐いた。


 友人に話してみたことで、自分が何を考えているのか、少し整理できた気がした。


 答えは、まだ出ていない。


 けれど、答えが出ていないことを、もう以前ほど恐れてはいなかった。


     ◇


 その日の放課後。


 リヴィアが図書館を出ると、学院の中庭にルシアンの姿があった。


 彼は庭園の端に立ち、手元の書類に目を通していた。ヴァロリアから届いた公務関係の資料だろう。時折、近くに控えていた従者と短く言葉を交わしている。


 リヴィアは少し離れた場所で足を止めた。


 声をかけようか、迷った。


 公務の最中なら、邪魔をするべきではない。


 そう考えていると、ルシアンが顔を上げた。


 目が合う。


 彼は従者に何かを伝えたあと、こちらへ歩いてきた。


「リヴィア。もう帰るところ?」


「はい。殿下はお仕事ですか?」


「少しだけね。急ぎのものではないから、今日中に確認しておけば大丈夫だよ」


「そうなのですね」


 リヴィアは彼の手元にある書類へ視線を落とした。


「お忙しいのに、学院にも来られているのですね」


「学院にいる間は、できるだけ学生として過ごしたいと思っているよ。もちろん、公務を放っておくわけにはいかないけれど」


「大変そうです」


「慣れているからね。それに、忙しいからこそ、休む時間も必要だ」


 ルシアンはそこで言葉を切り、リヴィアを見つめた。


「そういえば、先日の外出は楽しめた?」


「はい。とても」


 今度は、迷わず答えられた。


「市場も楽しかったですし、街のこともたくさん知ることができました。それに……殿下のお話も聞けて、嬉しかったです」


 ルシアンの目元が柔らかくなる。


「それならよかった」


「また、知らないことを教えていただけますか?」


「もちろん。僕も、君のことをもっと知りたいからね」


 リヴィアは小さく微笑んだ。


 以前なら、その言葉を聞いただけで、どう返事をすればいいのか分からなくなっていたかもしれない。


 けれど今は、彼の言葉をそのまま受け止められる。


「では、次は私からも何かお話ししますね」


「楽しみにしているよ」


 短い会話だった。


 けれど、それだけで十分だった。


 彼と話す時間を、もっと増やしていきたい。


 自分のことも知ってもらいたい。


 その願いを、少しずつ言葉にしていけばいい。


 ルシアンは書類を従者へ預け、リヴィアの隣に並んだ。


「途中まで一緒に歩こうか」


「はい」


 二人は中庭を抜け、学院の正門へ向かって歩き始めた。


 木々の間から、夕方の光が差し込んでいる。


 リヴィアは、隣を歩く彼の横顔をそっと見上げた。


 この人と、これからどんな未来を歩むのだろう。


 まだ分からない。


 けれど、分からないからこそ、知っていきたい。


 そして、いつか自分が答えを出すときには、今よりももっと、自分の気持ちを理解していたい。


「ルシアン殿下」


「うん?」


「これからも、いろいろなお話をしましょうね」


 彼は足を止め、リヴィアを見た。


 その瞳には、驚きと喜びが浮かんでいた。


「……ああ。約束するよ」


 穏やかな返事だった。


 リヴィアは微笑み、再び歩き始めた。


 未来を決めるのは、まだ先かもしれない。


 けれど、その未来へ続く道は、もう目の前にある。


 今日の会話も、昨日の思い出も、これから重ねていく時間も。


 すべてが、彼女自身の選択につながっていく。


 そしてリヴィアは、もう逃げるためだけに未来を見つめてはいなかった。


 自分が何を望むのか。


 誰と一緒に笑っていたいのか。


 どんな明日を迎えたいのか。


 それを知るために、一歩ずつ進んでいこう。


 隣にいる彼の歩調に合わせながら、リヴィアは静かにそう決めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。