↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
131/178

あなたと歩く、初めての休日

 休日の朝。


 リヴィア・アーデントは、自室の姿見の前で三度目の着替えをしていた。


「……やっぱり、こちらのほうがいいかしら」


 そう呟き、彼女は淡い青色のワンピースの裾を整えた。


 普段、学院では制服を着ている。王宮へ赴くときには家柄にふさわしいドレスを選ぶため、私服で出かける機会は意外と少なかった。


 まして、今日はルシアンと二人でヴァロリアの街を歩く約束をしている。


 ただ街を見て回るだけだ。


 そう自分に言い聞かせても、鏡に映る自分の顔を見ると、胸の奥が落ち着かなくなる。


 淡い青色のワンピースに、白いカーディガン。髪はいつもどおり背中の半ばまで流し、顔の横の一房だけを細い銀色の髪飾りで留めた。


 派手ではないが、地味すぎもしない。


 街を歩くにはちょうどいい服装のはずだった。


「……よし」


 リヴィアは小さく頷いた。


 ところが、部屋を出ようとしたところで、机の上に置いた銀の栞が目に入った。


 ルシアンから贈られたものだ。


 青い宝石が朝の光を受けて、静かに輝いている。


 リヴィアはそれを手に取ると、しばらく眺めた。


「今日は持っていかなくてもいいわよね……」


 贈り物を大切に思っていることと、出かけるたびに持ち歩くことは別の話だ。


 そう考えて栞を机に戻したものの、扉に手をかけたところで、再び振り返ってしまう。


「……もう!」


 誰もいない部屋で、自分自身に呆れた声を漏らした。


 たかが休日の外出だ。


 それなのに、どうしてこんなにも気持ちが忙しいのだろう。


 結局、リヴィアは栞を小さな鞄にしまい、部屋を後にした。


 持っていく理由は、いつも使っているものだから。


 それ以上の意味はない。


 そういうことにしておこうと思った。


     ◇


 待ち合わせ場所は、学院から少し離れた王都の南門だった。


 門の周辺には、朝の市場へ向かう商人や、休日を楽しむ家族連れの姿が見える。荷車を引く馬の蹄の音と、露店から聞こえる店主の呼び声が、街の目覚めを告げていた。


 リヴィアが到着すると、門の脇に立つ一人の青年が目に入った。


 濃紺の髪に、深い青色の瞳。


 けれど、いつもの王族らしい服装ではなかった。


 白いシャツの上に落ち着いた紺色の上着を羽織り、黒に近い灰色のズボンを合わせている。胸元には王家の紋章もなく、装飾品も最低限だ。


 普段よりもずっと気軽な格好なのに、彼の立ち姿には自然と人目を引く気品が残っていた。


 ルシアンはリヴィアを見つけると、穏やかに微笑んだ。


「おはよう、リヴィア」


「お、おはようございます」


「今日は来てくれてありがとう」


「私が行きたいと言ったのですから、当然です」


「それでも、嬉しいものは嬉しいよ」


 そう言って、彼は彼女の姿を眺めた。


 リヴィアは無意識に背筋を伸ばした。


「……何か、おかしいところでもありますか?」


「いや。よく似合っていると思って」


「っ……!」


 不意打ちだった。


 リヴィアの頬が一気に熱くなる。


「そ、そうですか。それは……ありがとうございます」


「うん。来てくれてよかった」


「服の話をしているのですよね?」


「もちろん」


 あまりにも自然な返事だった。


 そのくせ、ルシアンの目にはどこか楽しそうな光が浮かんでいる。


 リヴィアは彼をじっと見つめた。


「……本当に、時々ずるい方ですね」


「今日はまだ何もしていないと思うけれど」


「その自覚のなさが問題なのです!」


 ルシアンは笑いながら、街のほうへ手を向けた。


「では、行こうか。最初は市場だったね?」


「はい。ヴァロリアならではの品物を見てみたいです」


「それなら、ちょうどいい場所がある。観光客向けの店ではなく、地元の人間が普段から利用している市場だよ」


「それは楽しみです」


 二人は並んで歩き出した。


 最初は、互いの肩が触れない程度の距離を保っていた。


 けれど、人通りが増えるにつれて、自然と距離が縮まっていく。


 リヴィアは、その変化を意識しないように努めながら、街並みに目を向けた。


 石造りの建物には、色鮮やかな花を飾った窓辺が並んでいる。通りの上には布製の日よけが張られ、店先には果物や焼き菓子、色とりどりの布地が並んでいた。


 学院や王宮で見る景色とは、まるで違う。


 ここには、そこで生活する人々の息遣いがあった。


「ルシアン殿下。あちらのお店は何を売っているのですか?」


「あれは染料を扱う店だね。ヴァロリアでは、北部で採れる青い鉱石から作る染料が有名なんだ」


「青い鉱石?」


「衣服だけでなく、陶器の装飾にも使われている。王宮の一部にも、その染料で彩色された壁画があるよ」


「知りませんでした。今度、見てみたいです」


「案内するよ。王宮の壁画なら、僕も詳しく説明できる」


「では、そのときはお願いします」


 リヴィアは目を輝かせた。


 すると、ルシアンが少しだけ目を細めた。


「……今、君は自然に次の約束をしたね」


「え?」


「また僕と出かけるつもりで話してくれたから」


 リヴィアは口を開きかけ、言葉に詰まった。


 確かに、何のためらいもなく次の機会を想像していた。


「そ、それは……壁画に興味があるからです!」


「うん。そういうことにしておこう」


「本当です!」


「分かっているよ」


 分かっていると言いながら、彼の表情は明らかに楽しそうだった。


 リヴィアは小さく頬を膨らませた。


 しかし、心のどこかでは、彼が嬉しそうにしていることを自分も嬉しく感じていた。


 そのことに気づくと、また少しだけ頬が熱くなった。


     ◇


 市場の中心部へ入ると、香ばしい匂いが二人を迎えた。


 焼きたてのパン。

 香辛料を混ぜた肉料理。

 蜂蜜を使った焼き菓子。


 露店には、普段学院の食堂では見かけない料理も数多く並んでいた。


「わあ……!」


 リヴィアは思わず足を止めた。


 木製の台の上に、丸いパンが何種類も並べられている。表面に細かな模様が刻まれたものや、木の実を練り込んだもの、薄く焼いて香草を添えたものまである。


「こちらは、どれもヴァロリアの伝統的なパンなのですか?」


「全部ではないけれど、いくつかはそうだね。特に、あの蜂蜜パンは昔から親しまれている」


「蜂蜜パン……」


 リヴィアの視線が、焼き色の美しい小さなパンに吸い寄せられた。


 ルシアンはそれに気づくと、店主へ声をかけた。


「蜂蜜パンを二ついただけますか?」


「はいよ! 焼きたてだよ!」


 店主が紙袋にパンを入れて差し出す。


 ルシアンが代金を支払おうとすると、リヴィアは慌てて鞄から財布を取り出した。


「待ってください。自分の分は自分で払います」


「僕が誘ったのだから、これくらいは構わないよ」


「それでは、対等に街を見て回れません」


 リヴィアは真剣な顔で言った。


「今日は、殿下に案内していただく日です。でも、何もかも任せたいわけではありません。私も、自分で選んだものを自分で買いたいのです」


 ルシアンは一瞬だけ彼女を見つめた。


 そして、すぐに頷いた。


「分かった。それなら、今日はそれぞれ自分の分を買おう」


「ありがとうございます」


「ただし、君が僕の分を選んでくれるのなら、喜んで受け取るよ」


「……それは、別の話ではありませんか?」


「そうかな?」


「そうです」


 結局、二人はそれぞれ代金を支払い、焼きたての蜂蜜パンを受け取った。


 リヴィアが一口かじると、外側の生地が軽く崩れ、中から蜂蜜の甘い香りが広がった。


「おいしい……!」


「気に入った?」


「はい。甘すぎなくて、香りもいいですね。学院で食べるパンとは、また違ったおいしさです」


「それならよかった」


 ルシアンも自分のパンを口に運んだ。


 その様子を見て、リヴィアはふと思った。


 彼も、こうして普通に買い物をするのだ。


 王子だからといって、いつも特別な食事をしているわけではないのかもしれない。少なくとも今の彼は、露店で買ったパンを手に、街の人々の間を歩いている。


「殿下は、子供の頃からこの市場へ来ていたのですか?」


「たまにね。幼い頃は、兄上に連れられて来たこともあるよ」


「レオンハルト殿下と?」


「ああ。兄上は、王宮の外を知らないまま王族になるべきではない、とよく言っていた」


 ルシアンは懐かしそうに目を細めた。


「市場で値段を交渉したこともある。もちろん、店主には僕たちが王族だと知られていたけれどね」


「それでは、交渉にならないのでは?」


「僕もそう思った。けれど、兄上は真剣だったよ。最後には店主に笑われていた」


「ふふっ……レオンハルト殿下らしいですね」


 リヴィアは想像して、思わず笑みをこぼした。


 いつも落ち着いている第一王子が、市場の店主を相手に真剣に値段を交渉している。


 普段の姿からは、なかなか想像できない。


「ルシアン殿下も、同じようなことをしたのですか?」


「僕は兄上ほど熱心ではなかったね。むしろ、兄上が値段の交渉をしている間に、別の店を見て回っていた」


「……自由ですね」


「迷子になって、兄上に叱られたこともあるよ」


「えっ?」


 リヴィアは驚いて彼を見た。


「殿下が迷子に?」


「子供の頃の話だよ。そんなに驚くことかな?」


「いえ……その、今の殿下からは想像できなくて」


「君だって、僕の知らない失敗をいろいろしているのでは?」


「そ、それは……!」


 思わず反論しようとしたが、リヴィアの頭には、前世の記憶を思い出してからの自分の行動が次々と浮かんだ。


 運命を避けようとして失敗し、余計な誤解を招き、危険を前にして無理をしたこともある。


 もちろん、そのすべてを彼に話せるわけではない。


 けれど、彼の言うとおり、自分にも人に知られていない失敗はたくさんある。


「……お互いさま、ということにしておきましょう」


「賛成だよ」


 二人は笑い合い、再び市場の奥へと歩き始めた。


     ◇


 昼が近づくにつれ、市場の人通りはさらに増えていった。


 荷車が通るたびに人々が道を譲り、店主たちは客を呼び込む声を張り上げる。


 リヴィアが珍しい陶器の模様を眺めていると、横を通り過ぎようとした荷車が、少しだけ彼女のほうへ寄ってきた。


「危ない」


 ルシアンがすぐに声をかけ、リヴィアの腕にそっと手を添えた。


 彼女は一歩、店先のほうへ移動する。


 荷車は何事もなかったように通り過ぎていった。


「大丈夫?」


「はい。ありがとうございます」


 そう答えたものの、リヴィアは自分の腕に触れている彼の手を意識してしまった。


 ルシアンもすぐに手を離した。


「人が多いから、気をつけて。必要なら、少し人通りの少ない道へ移ろう」


「……そうですね」


 リヴィアは頷いた。


 そのまま二人は、店が並ぶ大通りから一本外れた路地へ入った。


 こちらは人通りが少なく、石造りの建物の壁には小さな花鉢が飾られている。開いた窓からは、誰かが楽器を練習する音が聞こえてきた。


 市場の喧騒が遠のき、代わりに風の音が近くなる。


「少し静かになりましたね」


「ああ。こちらの道は、昔からあまり変わっていないんだ」


 ルシアンは足を止め、路地の先を見つめた。


「僕がまだ幼かった頃、この辺りには小さな工房がいくつもあった。今も残っている店があるんだよ」


「殿下にとって、思い出のある場所なのですね」


「そうだね。王宮にいると、どうしても国全体のことや、これから先の責任について考える時間が多くなる。でも、こういう場所を歩いていると、自分が何のためにそれを考えているのか、思い出せる気がする」


 リヴィアは静かに耳を傾けた。


「国を守ることは大切だ。けれど、国という言葉だけを見ていると、その中に暮らす人々の顔を忘れてしまうかもしれない」


 ルシアンは、路地に並ぶ家々へ目を向けた。


「ここで暮らす人たちにも、それぞれの生活がある。大切な人がいて、日々の楽しみがあって、叶えたい願いもある。僕が守りたいのは、そういう一つ一つの暮らしなんだと思う」


 リヴィアは、胸の奥が静かに揺れるのを感じた。


 彼は王子としての責任から逃げようとしているわけではない。


 むしろ、その責任の先にいる人々を見ようとしているのだ。


 だからこそ、彼が国の未来について語るとき、その言葉には確かな温かさがあった。


「……素敵な考え方だと思います」


 リヴィアは、心からそう伝えた。


「私も、誰かの未来を考えるとき、その人自身を見ることを忘れたくありません」


「君らしいね」


「そうでしょうか?」


「うん。君はいつも、目の前の人が何を考えているのか、どうしてそうしたのかを知ろうとするから」


 ルシアンは少しだけ微笑んだ。


「時々、考えすぎてしまうこともあるけれど」


「……最後の一言は、必要でしたか?」


「正直な感想だよ」


「もう……」


 リヴィアは呆れたように息を吐いた。


 それでも、彼に自分の考え方を理解してもらえていることが嬉しかった。


 ただ優しい言葉をかけられるよりも、自分の長所も短所も知ったうえで話してくれること。


 そのことが、彼への信頼を少しずつ深めている。


「ルシアン殿下」


「何かな?」


「今日、来てよかったです」


 リヴィアは、今度こそためらわずに言った。


「市場を見ることができたのも嬉しいですけれど……殿下が、どんなことを考えていらっしゃるのか、少し知ることができましたから」


 ルシアンは目を見開いた。


 それから、ゆっくりと笑みを浮かべた。


「それなら、僕も嬉しいよ」


「まだ、ほんの少しですけれどね」


「それで十分だ。僕も、これから少しずつ君に知ってもらいたいと思っているから」


 その言葉に、リヴィアの胸が温かくなる。


 彼のすべてを一日で知ることなどできない。


 自分の気持ちを、今日一日ですべて理解することもできない。


 けれど、今日知ったことは、確かに一つ増えた。


 彼が大切にしているもの。

 彼が見つめている未来。

 そして、その未来を考えるとき、彼がどんな人々の姿を思い浮かべているのか。


 それを知ることができたのは、リヴィアにとって大きな一歩だった。


     ◇


 昼食を済ませた二人は、川沿いの遊歩道を歩いていた。


 市場で買った小さな菓子袋を手に、リヴィアは水面に映る街並みを眺めている。


 川の向こうには、白い石造りの建物が並び、その屋根の上を鳥たちが飛んでいた。


「今日は、たくさん歩きましたね」


「疲れた?」


「いいえ。むしろ、もう少し歩いていたいくらいです」


「それなら、もう少し先まで行こうか」


 ルシアンが歩調を合わせる。


 しばらく、二人は言葉を交わさずに歩いた。


 沈黙は、不思議と気まずくなかった。


 以前のリヴィアなら、会話が途切れるたびに、何か話さなければと焦っていたかもしれない。


 けれど今は、同じ景色を眺めながら歩くだけでも、十分に心地よかった。


 やがて、川沿いの小さな広場へたどり着いた。


 広場の中央には古い時計台が立ち、その周囲には木製のベンチがいくつか置かれている。休日を過ごす親子や、談笑する老人たちの姿もあった。


「ここで少し休もう」


「はい」


 二人は並んでベンチに腰を下ろした。


 リヴィアは鞄を膝の上に置き、そっと息を吐いた。


「……今日は、いつもと違う殿下を見ることができました」


「いつもと違う?」


「学院では、どうしても王子として接する場面が多いでしょう? でも、今日は昔の話も聞けましたし、市場で普通に買い物をする姿も見られました」


「僕は普段から買い物をしているけれどね」


「そういう意味ではありません!」


 思わず声が大きくなり、近くにいた子供がこちらを振り返った。


 リヴィアは慌てて口元を押さえた。


「……失礼しました」


 ルシアンは肩を震わせて笑っていた。


「君といると、退屈しないね」


「それは、褒めているのですか?」


「もちろん」


「本当でしょうか……」


 リヴィアは疑わしそうに彼を見たあと、ふと表情を和らげた。


「でも、私も……今日のような時間は好きです」


 言葉にしてから、少しだけ視線を落とす。


「特別なことをしなくても、街を歩いて、話をして、おいしいものを食べて。それだけなのに、こんなに楽しいのですね」


 ルシアンは、彼女の横顔を見つめた。


「僕も同じだよ」


「……本当に?」


「うん。君と過ごす時間は、何かを成し遂げるためだけのものではないからね」


 彼は穏やかな声で続けた。


「何かを決めるためでも、君の答えを引き出すためでもない。ただ一緒に過ごす。それだけで、僕にとっては十分に意味があるんだ」


 リヴィアは顔を上げた。


 彼の瞳には、いつもの優しさがあった。


 けれど、それだけではない。


 彼自身も、この時間を大切にしている。


 自分の気持ちが決まるまでの待ち時間としてではなく、今この瞬間を、一緒に生きている時間として。


 そう理解した途端、リヴィアの胸の奥がじんわりと温かくなった。


「……私、もっと知りたいです」


「僕のことを?」


「はい。あなたが好きな場所も、苦手なことも、子供の頃の失敗も。これから先、何をしたいと思っているのかも」


 彼女は少し恥ずかしそうに笑った。


「もちろん、私自身のことも、もっと知っていきたいと思っています」


 ルシアンは静かに頷いた。


「それなら、これからも一緒に出かけよう。今日だけでは、まだ話し足りないことがたくさんあるからね」


「……そうですね」


 リヴィアは笑みを浮かべた。


 その返事は、以前よりも自然だった。


 未来の約束をすることが、少しずつ怖くなくなっている。


 まだ、結婚についての答えは出せない。


 彼の隣で生きる未来が、自分にとって本当に望むものなのか、考える時間も必要だ。


 けれど、これからも彼と会いたい。


 話をしたい。

 知らないことを教えてほしい。

 自分の知らない彼の一面を、もっと見てみたい。


 その願いは、もう隠す必要のないものだった。


 リヴィアは膝の上の鞄にそっと触れた。


 中には、ルシアンから贈られた銀の栞が入っている。


 彼が願ってくれた未来と、自分が望み始めた未来。


 その二つが同じ方向を向いているのか、今はまだ分からない。


 それでも、確かめていくことはできる。


 誰かに急かされることなく。

 自分の心を置き去りにすることなく。


 そして、彼の気持ちも大切にしながら。


「ルシアン殿下」


「うん?」


「また、誘ってくださいますか?」


 彼女の問いかけに、ルシアンは一瞬だけ驚いた。


 やがて、その表情がゆっくりと柔らかくなる。


「もちろん。君が望んでくれるなら、何度でも」


「……では、次は私が行き先を考えます」


「楽しみにしているよ」


「期待しすぎないでくださいね。私だって、どこへ行けばいいのか、まだ分かりませんから」


「それでも構わない。君が考えてくれること自体が嬉しいから」


 リヴィアは、また頬が熱くなるのを感じた。


 けれど今度は、慌てて顔を背けなかった。


 少し照れながらも、彼の言葉をそのまま受け止めた。


「……ありがとうございます」


 川面を渡る風が、二人の髪をそっと揺らした。


 時計台の鐘が鳴り、広場にいた人々が、それぞれの午後へと歩き出していく。


 やがてリヴィアとルシアンも、帰路につくために立ち上がった。


 帰り道、二人は市場で見かけた店のことや、学院で待っている友人たちのことを話した。


 特別な告白も、大きな決断もなかった。


 ただ、一緒に過ごした一日が終わろうとしている。


 それなのに、リヴィアの心には、確かな変化が残っていた。


 彼と歩く未来を想像することが、以前よりも自然になった。


 その未来を、自分の意志で考えてみたいと思えるようになった。


 そして何より、次に会える日を楽しみにしている自分がいた。


 夕暮れの街並みを歩きながら、リヴィアはそっと微笑んだ。


 未来は、まだ決まっていない。


 けれど、選ぶために必要な時間は、もう始まっている。


 その時間を、彼と一緒に歩いていきたい。


 今のリヴィアが望むのは、まずはそれだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。