未来へ続く約束
交流祭の記録を整理した翌日、リヴィアはいつもより少し早く学院へ到着した。
朝の空気は澄み渡り、石畳の道には夜露がまだ残っている。王立セイレーン学院の正門をくぐると、手入れの行き届いた庭園から、かすかな花の香りが漂ってきた。
リヴィアは歩みを緩め、庭園の中央にある噴水を見つめた。
交流祭が始まる前、この場所は準備に追われる学生たちで慌ただしかった。国ごとの文化を紹介する展示や、魔法の実演、料理の試食会。誰もが自分の役割を果たそうと奔走し、時には意見がぶつかることもあった。
けれど、最後には互いの考えを伝え合い、一つの記録を完成させた。
すべてが完璧だったわけではない。
それでも、誰か一人の意見だけで決めるのではなく、違いを認めながら答えを探した時間は、確かに意味のあるものだった。
「……私も、同じようにできるのかしら」
ぽつりと呟いた言葉が、朝の風に溶けていく。
リヴィアが考えているのは、交流祭のことだけではなかった。
ルシアンとの未来。
彼と過ごす時間が好きだという気持ちは、以前よりもはっきりしている。彼の隣にいると、気づかなかった自分の一面を知ることができる。冗談を言われて腹を立てることもあれば、何気ない言葉に一日中浮かれてしまうこともある。
そして、彼が自分を待ってくれていることを、嬉しいと思っていた。
だからこそ、考えなければならない。
ただ優しくしてくれるから。
自分を大切にしてくれるから。
彼が王子であり、二つの国にとって望ましい相手だから。
そんな理由だけで、自分の未来を決めたくはなかった。
彼を選ぶなら、自分の意志で選びたい。
その気持ちだけは、間違いなく本物だった。
「朝から難しい顔をしているね」
「きゃっ……!」
突然、背後から声をかけられ、リヴィアは肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこにはルシアンが立っていた。
濃紺の髪は朝の光を受けて青みを帯び、深い青色の瞳には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。銀糸の刺繍が施された制服の胸元では、ヴァロリア王家の紋章が静かに輝いていた。
「お、おはようございます、殿下」
「おはよう、リヴィア。そんなに驚かなくてもいいだろう?」
「急に声をかけられたら、誰だって驚きます」
「なるほど。次からは三歩ほど離れたところから声をかけよう」
「距離の問題ではありません!」
即座に言い返してから、リヴィアは自分の頬が緩みかけていることに気づいた。
ルシアンも、それを見逃さなかったらしい。
「今朝は少し機嫌がよさそうだね」
「そうでしょうか?」
「うん。昨日よりも表情が柔らかい」
「昨日も普通でした」
「そうかな。昨日はフィリアがパンを追加しようとしたとき、君もかなり笑っていたけれど」
「それは……フィリアが予想外の行動をするからです」
「彼女は毎日予想外の行動をしていると思うけれど」
「否定できませんね……」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
それは、ごく普通の朝の会話だった。
王子と公爵令嬢という立場も、二つの国の未来も、今この瞬間には関係がない。
ただ、学院で顔を合わせた二人が、昨日の出来事を思い出して笑っている。
リヴィアは、その何気なさが好きだった。
「ルシアン殿下」
「何かな?」
「少し、聞いていただきたいことがあります」
いつになく真剣な声に、ルシアンは表情を和らげた。
「もちろん。ここで話してもいいし、場所を変えてもいいよ」
「ここで大丈夫です」
リヴィアは一度、深呼吸をした。
「私……これから、自分の気持ちをきちんと考えていきたいと思っています」
「うん」
「あなたと過ごす時間が好きだということは、もう分かっています。でも、それだけで未来のすべてを決めてしまうのは、少し違うと思うんです」
言葉を選びながら、彼女は続けた。
「あなたがどんな未来を望んでいるのか、私がどんな未来を望んでいるのか。それを、もっと知りたいんです。結婚するかどうかという答えだけではなくて……その先に、どんな生活があるのかも」
言い終えると、リヴィアは不安そうに彼の顔を見上げた。
自分勝手なことを言っているのではないか。
彼の気持ちを知りながら、答えを先延ばしにしているだけではないのか。
そんな考えが、頭の片隅をよぎった。
けれど、ルシアンは少しも困った様子を見せなかった。
「それは、いい考えだと思うよ」
「……本当に?」
「もちろん。結婚という言葉だけで、二人の生活が決まるわけではないからね」
彼は噴水へ視線を向けた。
「僕が王族である以上、国のことを考えなければならない場面は多い。君もアーデント家の人間として、いろいろな責任を負うことになるだろう」
「はい」
「けれど、それだけが僕たちの人生ではないはずだ。朝に何を食べるかで意見が分かれるかもしれないし、休日にどこへ行くかで君に却下されるかもしれない」
「どうして私が却下する前提なのですか?」
「君は、僕が考えなしに提案した計画をよく却下するだろう?」
「それは、殿下の計画に問題があるからです」
「ほらね」
ルシアンが楽しそうに笑う。
リヴィアは反論しかけて、結局、ため息をついた。
「……そういうところは、本当に変わりませんね」
「変わってほしい?」
「いいえ」
答えてから、リヴィアははっとした。
ルシアンの瞳が、わずかに見開かれる。
「それは嬉しい言葉だね」
「い、今のは、そういう意味では……!」
「どういう意味だったのかな?」
「もう、揚げ足を取らないでください!」
頬を赤くしたリヴィアを見て、ルシアンは声を立てずに笑った。
しかし、次に口を開いたとき、その声には真摯な響きがあった。
「リヴィア。僕は君に、何もかも今すぐ決めてほしいとは思っていない」
彼は彼女から目を逸らさずに言った。
「君が自分の気持ちを知ろうとしているなら、僕も自分のことを知ってもらえるように努力するよ。王子としての僕だけではなく、一人の人間としての僕をね」
「……あなた自身を?」
「そう。僕だって、君の知らない一面がまだまだあるはずだから」
リヴィアは静かに彼を見つめた。
彼はいつも、自分の気持ちをまっすぐに伝えてくれる。
けれど、決して答えを押しつけない。
自分が迷っている間も、ただ待つだけではなく、二人で一緒に考えようとしてくれている。
それが、どれほどありがたいことなのか。
リヴィアは、ようやく少しずつ理解し始めていた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「でも、私もあなたのことを知るだけではなく、自分のことをもっと知りたいと思っています」
「それなら、ちょうどいいね」
ルシアンは軽く首を傾げた。
「一つ、提案があるんだけれど」
「何ですか?」
「今度の休日、学院の外へ出かけないか?」
「学院の外へ?」
「うん。以前、君はヴァロリアの街をもっと見てみたいと言っていただろう。交流祭が終わって少し落ち着いたし、僕が案内するよ」
リヴィアは思わず目を瞬かせた。
確かに、ヴァロリアの文化や暮らしについて、もっと知りたいと思っていた。
けれど、王族であるルシアンと二人で街を歩くとなれば、目立つのではないだろうか。
「……殿下と一緒に行ったら、騒ぎになりませんか?」
「目立たないようにするつもりだよ」
「本当に?」
「少なくとも、王宮の正装では行かない」
「当たり前です!」
「では、成功する可能性は高いね」
「まだ何も成功していません!」
またしても軽くからかわれ、リヴィアは額に手を当てた。
しかし、胸の奥では、期待が静かに膨らみ始めていた。
学院では見られない彼の姿。
王宮の外で暮らす人々の日常。
そして、自分自身がどんな場所を楽しいと思い、何を知りたいと感じるのか。
それらを知ることは、きっと無駄ではない。
「……行ってみたいです」
リヴィアがそう答えると、ルシアンは穏やかに微笑んだ。
「よかった。それじゃあ、行き先は君の希望も聞いて決めよう」
「私の希望も?」
「もちろん。僕が案内するからといって、僕の行きたい場所だけを回るつもりはないよ」
「それなら……市場を見てみたいです。以前、ヴァロリアの学生が、季節ごとに売られる品物が変わると話していたので」
「市場か。いいね。では、昼食はそこで食べよう」
「それも楽しそうですね」
言葉にした途端、リヴィアの心が弾んだ。
彼と過ごす休日を想像するだけで、こんなにも楽しみになる。
その感情を、もう慌てて打ち消す必要はなかった。
今はただ、楽しみにしている自分を認めればいい。
「では、約束ですよ」
リヴィアは小指を立てるようなことはせず、代わりに、少しだけ真剣な顔で彼に告げた。
「私が行きたい場所にも、きちんと付き合ってくださいね」
「もちろん。君が望むなら、どこへでも」
「……そういう言い方は、少しずるいです」
「どうして?」
「どうしてもです」
ルシアンは理由を尋ねる代わりに、柔らかく笑った。
その笑顔を見て、リヴィアも自然と微笑んだ。
◇
朝の鐘が鳴り、学院の回廊に学生たちの足音が増えていく。
そろそろ教室へ向かわなければならない。
「では、また後で」
ルシアンがそう告げて歩き出そうとしたとき、リヴィアは彼を呼び止めた。
「殿下」
「うん?」
「……休日のこと、楽しみにしています」
今度は、目を逸らさずに言えた。
ルシアンは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、いつもより少しだけ嬉しそうに笑った。
「僕もだよ、リヴィア」
彼が去っていく背中を見送りながら、リヴィアは胸元の銀の栞にそっと触れた。
そこに刻まれた言葉を、心の中で読み返す。
『選んだ未来の、その先へ』
未来は、まだ決まっていない。
けれど、その先を知りたいと思う気持ちは、昨日よりも少しだけ強くなっていた。
次の休日、彼と一緒に歩く街で、自分は何を感じるのだろう。
どんな景色を見て、どんな話をして、どんな新しい一面を知るのだろう。
考えるだけで、胸が温かくなる。
「……まずは、休日を楽しむことからね」
リヴィアは小さく呟き、教室へ向かって歩き出した。
王族同士の結婚という大きな問題は、まだ彼女の前に残されている。
けれど、それに答えを出すための時間は、ただ待っているだけのものではない。
一緒に歩き、一緒に話し、互いを知っていく時間。
その一つ一つを積み重ねた先にこそ、自分が本当に望む未来があるのかもしれない。
リヴィアは窓から差し込む朝の光を見上げた。
今日という一日も、まだ始まったばかりだ。
そして今度の休日には、いつもとは少し違う景色が待っている。
それがどんな一日になるのか。
彼女は、ほんの少しの不安と、それ以上の期待を胸に抱きながら、軽やかな足取りで教室へと向かった。




