心に残る、温かな余韻
温室を出たあとも、リヴィアの心には穏やかな温もりが残っていた。
夕暮れの光が差し込む学院の回廊を、彼女は一人で歩いていた。窓の向こうでは、庭園の木々が風に揺れ、青い花々が夕日に照らされている。
つい先ほどまで、ルシアンと二人で過ごしていた場所。
彼の声も、微笑みも、そして自分が口にした言葉も、まだ鮮明に思い出せた。
『私も、あなたと過ごす時間が好きよ』
思い返した瞬間、リヴィアの頬がじわりと熱くなった。
「……どうして、こんなに恥ずかしいのかしら」
誰に聞かせるつもりもない独り言が、静かな回廊に落ちる。
彼の前では、確かに自分の気持ちを伝えられた。結婚についての答えはまだ出せない。それでも、一緒に過ごす時間が好きだという気持ちは、偽りではなかった。
以前の自分なら、そんな感情が生まれた時点で、すぐに理由を探していたはずだ。
これはゲームの筋書きに関係するものなのか。
将来の選択に影響するのか。
自分が彼に近づくことで、誰かの未来を変えてしまうのではないか。
考えて、考えて、最後には何も選ばない。
それが、かつてのリヴィアが身につけていた生き方だった。
けれど今は、少し違う。
彼と話したい。
彼が何を考えているのか知りたい。
自分が知らないヴァロリアのことも、彼が見てきた景色も、いつか聞いてみたい。
そう思う自分を、もう否定したくなかった。
「……まずは、そこからでいいのよね」
胸元に手を当て、リヴィアは小さく息を吐いた。
答えを急がなくてもいい。
今の自分が感じているものを、少しずつ確かめていけばいいのだ。
そう考えると、胸の奥にあった焦りが、ほんの少しだけ薄れた。
そのとき。
「リヴィア!」
回廊の向こうから、聞き慣れた明るい声が響いた。
振り返ると、エヴリンが手を振りながら駆け寄ってくる。淡い茶色の髪が肩の上で揺れ、緑色の瞳が楽しそうに細められていた。
「探したのよ。もう帰ったのかと思ったわ」
「ごめんなさい。少し考え事をしていたの」
「考え事?」
エヴリンは足を止め、リヴィアの顔をじっと見つめた。
そして、数秒後。
「……ルシアン殿下のこと?」
「ど、どうしてそうなるの!?」
「顔に書いてあるもの」
「書いていないわよ!」
「じゃあ、どうしてそんなに顔が赤いの?」
「それは……夕日が当たっているからよ」
リヴィアは慌てて窓の反対側を向いた。
しかし、夕日はすでに回廊の奥へ傾いている。彼女の頬を赤く染めているものが、光だけではないことくらい、エヴリンにはお見通しだった。
「ふふっ。何かあったのね」
「何もないわ」
「本当に?」
「……少しだけ、話をしたわ」
「少しだけ?」
エヴリンの声が、わずかに弾んだ。
「どんな話?」
「普通の話よ。これからのこととか、学院のこととか……」
「それで?」
「それで、って?」
「殿下は何か言ってくれた?」
リヴィアは口を閉じた。
ルシアンが自分の気持ちを大切にしてくれていること。
答えを急がせず、待ってくれること。
そして、自分と過ごす時間を、彼自身も大切に思ってくれていること。
そのどれもが、胸の奥に温かな感情を残していた。
「……私と過ごす時間を、楽しいと思ってくれているみたい」
小さな声で答えると、エヴリンは一瞬きょとんとした。
それから、嬉しそうに笑った。
「よかったじゃない」
「え?」
「だって、リヴィアも殿下と過ごす時間が好きなのでしょう?」
「……うん」
今度は否定しなかった。
エヴリンの瞳が、優しく細められる。
「なら、それでいいと思うわ。今すぐ結婚するかどうかまで決めなくてもいいじゃない」
「でも、王族同士の話もあるし……」
「それはそれ。リヴィアの気持ちはリヴィアのものよ」
あまりにもはっきりと言われ、リヴィアは目を瞬かせた。
「相手が王子様だからって、自分の心まで王宮に預ける必要はないでしょう?」
「エヴリン……」
「それに、殿下だってリヴィアが無理をして答えを出すことなんて望んでいないと思うわ」
リヴィアは、ゆっくりとうなずいた。
彼は待つと言ってくれた。
だからといって、その優しさに甘えて何も考えなくていいわけではない。
いつか、自分の意志で答えを選ぶ必要がある。
けれど、その日が来るまでの時間も、自分にとって大切なものなのだ。
「ありがとう、エヴリン」
「どういたしまして。それで、明日は一緒に図書館へ行かない?」
「図書館?」
「交流祭の記録を整理するのよ。先生から、私たちにも手伝ってほしいって頼まれたでしょう?」
「ああ、そうだったわね」
交流祭の未来記録。
あの最後のページには、まだ誰も書き込んでいない余白が残されている。
『ここから先は、あなたたちの未来です』
あの言葉を思い出し、リヴィアは微笑んだ。
「行くわ。私も、記録の整理を手伝いたいもの」
「決まりね。セレネとフィリアにも声をかけておくわ」
「フィリアには、パンを用意しておいたほうがいいかもしれないわね」
「……どうして?」
「以前、図書館で本を読んでいたはずなのに、気づいたらパンの本を三冊も抱えていたのよ」
「それはもう、記録の整理ではなくパンの研究ではないかしら……?」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
先ほどまで胸の中で膨らんでいた恋心への戸惑いも、その笑い声に包まれると、少しだけ柔らかくなった気がした。
未来を考えることは、難しい。
けれど、友人たちと笑い、何気ない一日を重ねていくことなら、今の自分にもできる。
それもまた、自分が選んだ未来の一部なのだろう。
◇
翌日の放課後。
王立セイレーン学院の図書館には、柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。
長い机の上には、交流祭で使用した資料や各国の文化紹介の冊子、学生たちが書き残した感想文が整然と並べられている。
「この資料は、エルディア側の保管分ね。こちらはヴァロリアの学生たちが提出してくれたものよ」
リヴィアが束になった書類を分類していると、向かい側からセレネが静かに顔を上げた。
銀色の髪が肩から流れ、淡い金色の瞳が書類の端に目を落とす。
「この記録、興味深いわね」
「どれ?」
「文化の違いについて書かれた感想。最初は理解できなかった習慣も、相手の説明を聞いたら納得できた、とあるわ」
セレネは、文字を指先でなぞった。
「観察するだけでは、分からないこともあるのね」
「そうね。実際に話してみないと分からないことは、きっとたくさんあるわ」
リヴィアが答えると、セレネは小さくうなずいた。
「私も、ここに来るまでは知らなかったことばかりだったわ」
彼女の言葉には、静かな実感がこもっていた。
かつて、セレネは世界を観察する側にいた。
けれど今は、学院の机に向かい、友人たちと本を読み、時にはフィリアとパンを分け合いながら日々を過ごしている。
観察するだけではなく、自分自身がその時間を生きている。
それこそが、彼女の選んだ変化だった。
「ところで、フィリアは?」
リヴィアが周囲を見回すと、図書館の入口から、銀色の髪を揺らした少女が現れた。
両手には、紙袋が抱えられている。
「お待たせしました! 差し入れを持ってきました!」
「……フィリア。その袋は何?」
「パンです!」
「見れば分かるわ」
「では、説明は完璧ですね!」
「説明の問題ではないのだけれど……」
エヴリンが肩を震わせて笑い、セレネもわずかに口元を緩めた。
フィリアは机の上に紙袋を置き、得意げに胸を張った。
「長時間の作業には糖分が必要です。これは合理的な判断です」
「パンは糖分だけではないと思うわ」
「では、栄養も必要ということですね。もう一つ持ってきます!」
「そういう意味ではないのよ、フィリア!」
リヴィアが慌てて止めると、今度はエヴリンが声を上げて笑った。
図書館の静けさを壊さない程度の、穏やかな笑い声。
それを聞きながら、リヴィアは思った。
こういう時間が好きだ。
誰かの考えを聞き、自分の考えを伝え、思いがけないことで笑い合う。
特別な事件が起きなくても、心に残る瞬間は生まれる。
そして、そんな瞬間をこれからも重ねていきたいと思う自分がいる。
「リヴィア?」
エヴリンに呼ばれ、彼女は顔を上げた。
「どうしたの? 急に嬉しそうな顔をして」
「そうかしら?」
「ええ。何かいいことでも思い出した?」
リヴィアは一瞬だけ迷ったあと、微笑んだ。
「……明日も、こうしてみんなと過ごせると思ったの」
その答えに、エヴリンは目を細めた。
「もちろんよ。明日も、その次の日もね」
「そうね」
リヴィアは机の上に視線を落とし、再び資料の整理を始めた。
胸元には、ルシアンから贈られた銀の栞がある。
選んだ未来の、その先へ。
その言葉を思い出しても、もう以前ほど戸惑わなかった。
自分はまだ、すべての答えを知らない。
ルシアンとどんな関係を築いていくのか。
いつか結婚という選択をするのか。
彼と同じ未来を歩むことが、自分にとって本当に望むことなのか。
それらは、まだ考え続けなければならないことだ。
けれど、一つだけ分かっている。
その未来を考える時間そのものを、今の自分は大切にしたいと思っている。
誰かに決められた筋書きではなく。
かつてのゲームに用意されていた結末でもなく。
自分が出会い、自分が感じ、自分の意志で選び取っていく未来を。
リヴィアは銀の栞にそっと触れた。
そして、顔を上げる。
「みんな、この資料が終わったら、最後のページも確認しましょう」
「最後のページ?」
エヴリンが首を傾げた。
「交流祭の未来記録よ。これから先、どんなことを書き加えていくのか……みんなで考えてみたいの」
セレネは静かにうなずき、フィリアはパンを片手に勢いよく手を挙げた。
「未来のパンについても書いていいですか?」
「それは交流祭の記録とは別にしましょうね」
「残念です……!」
また笑い声が広がった。
窓の外では、秋の風が庭園を渡っていく。
祭りは終わった。
けれど、そこで生まれたつながりは、終わっていない。
明日も、また新しい一日が始まる。
その先に何が待っているのか、リヴィアにはまだ分からない。
それでも今は、未知の未来を恐れるだけではなくなっていた。
大切な人たちと話し、迷い、時には間違えながら、それでも自分の足で進んでいく。
その先に、いつかルシアンと同じ答えを選ぶ日が来るのなら。
そのときは、誰かに促されたからではなく、自分自身の心で選びたい。
リヴィアは、窓から差し込む光を見つめた。
「……明日も、いい日になるといいわね」
その言葉は、誰に聞かせるためのものでもなかった。
けれど、彼女自身の心には、確かに届いていた。




