まだ知らない気持ちの名前
交流祭が終わってから、数日が過ぎた。
王立セイレーン学院には、すっかり普段の生活が戻っていた。
朝の鐘が鳴り、廊下を生徒たちが行き交う。窓の外では庭師が花壇の手入れをしており、教室からは授業の始まりを待つ声が聞こえてくる。
リヴィア・アーデントにとっても、いつもと変わらない朝だった。
ただし、一つだけ違うことがある。
「……」
彼女は教室の窓際に座り、鞄の中に入れた銀色のしおりを何度も確かめていた。
黒に近い青色の髪と深い青色の瞳を持つ第二王子、ルシアン・ヴァルクレスト。
彼から贈られたしおりには、今もあの言葉が刻まれている。
『選んだ未来の、その先へ』
指先で文字をなぞるたび、交流祭の最終日に二人で過ごした時間が蘇った。
そして、自分が彼に渡した手紙のことも。
「……はあ」
リヴィアは小さく息を吐いた。
「リヴィア様、またため息ですか?」
向かいの席からエヴリンが顔を覗かせる。
「またって何よ」
「今朝だけで三回目です」
「数えていたの?」
「自然と数えてしまいました」
「……」
エヴリンは楽しそうに笑った。
「ルシアン殿下のことを考えていたんですか?」
「違うわ」
「では、何を?」
「それは……」
リヴィアは口を閉じた。
自分でも、何を考えていたのか上手く説明できない。
ただ、ルシアンのことを思い出すと、胸の奥が温かくなる。
次に会ったら何を話そう。
昨日の授業で起きたことを聞いてもらおうか。
それとも、彼が以前話していたヴァロリアのことを、もっと詳しく尋ねてみようか。
考えれば考えるほど、話したいことが増えていく。
「……最近、ルシアンと話したいことが増えたのよ」
リヴィアは、ようやく本音を口にした。
エヴリンが目を丸くする。
「それは、とてもいいことだと思います!」
「そ、そうかしら?」
「はい。だって、もっと相手を知りたいと思っているんですよね?」
「……そうね」
リヴィアは視線を落とした。
「でも、私はまだ、自分の気持ちを全部理解できているわけじゃないの」
「全部理解する必要はないんじゃないでしょうか」
「え?」
エヴリンは穏やかに微笑んだ。
「私だって、自分の気持ちをいつも正確に説明できるわけではありません。誰かと一緒にいて楽しいとか、また会いたいとか。そういう気持ちは、少しずつ分かってくるものだと思います」
「……」
「だから、今すぐ答えを出さなくてもいいと思います」
その言葉に、リヴィアは小さく笑った。
「あなた、時々とても大人びたことを言うわね」
「時々、ですか?」
「ええ。時々」
「そこは、いつもと言ってほしかったです!」
二人は顔を見合わせて笑った。
その時、教室の扉が開いた。
「おはよう」
聞き慣れた声が響く。
ルシアンだった。
彼は教室に入ると、まず周囲に軽く挨拶をしてから、リヴィアたちの方へ歩いてきた。
「おはよう、リヴィア。エヴリン」
「おはようございます、殿下」
エヴリンが丁寧に挨拶する。
「おはよう、ルシアン」
リヴィアも顔を上げた。
目が合う。
ほんの一瞬、言葉が止まった。
けれど、今度は視線を逸らさなかった。
「昨日は、ちゃんと休めたか?」
ルシアンが尋ねる。
「ええ。あなたは?」
「問題ない」
「そう。よかったわ」
それだけの会話。
それなのに、リヴィアは自然と笑っていた。
ルシアンも、そんな彼女を見て穏やかに微笑む。
「今日は放課後、少し時間があるか?」
「放課後?」
「ああ。見せたいものがあるんだ」
リヴィアの心臓が跳ねた。
「……何を?」
「それは、見てからのお楽しみだ」
「また秘密なの?」
「今回は、それほど大したものじゃない」
「それなら、先に教えてくれてもいいでしょう?」
「見た方が早いと思う」
「……」
リヴィアは少しだけ頬を膨らませた。
「分かったわ。放課後なら時間はあるわよ」
「助かる」
ルシアンは満足そうに頷き、自分の席へ向かった。
彼が離れた後、エヴリンがそっと囁く。
「放課後のお約束ですね」
「……ただの約束よ」
「はいはい」
「エヴリン!」
その声を聞いたセレネが、近くの席から顔を上げた。
「何かあったのですか?」
「何でもないわ!」
リヴィアは慌てて答えた。
セレネは不思議そうに首を傾げたが、すぐに手元の本へ視線を戻した。
エヴリンだけが、楽しそうに笑い続けていた。
午前の授業は、穏やかに進んだ。
魔法理論の授業では、エルディア式とヴァロリア式の魔法陣の違いについて説明が行われた。
交流祭で生まれた共同研究の案を受け、教師たちは今後、両国の魔法理論を比較する授業も取り入れる予定だという。
リヴィアはノートを取りながら、ふと隣の席を見た。
ルシアンは真剣な表情で教師の話を聞いている。
時折、要点をまとめてノートに書き込む指先。
考え込む時にわずかに寄る眉。
質問を受けた際、落ち着いて答える声。
普段から見ているはずなのに、今日は妙に細かなところまで目に入った。
「……」
リヴィアは慌てて黒板へ視線を戻した。
何をしているのだろう。
授業に集中しなければならないのに。
そう思うほど、先ほどのルシアンの横顔が頭から離れなくなった。
昼休み。
リヴィアはセレネやエヴリンたちと一緒に中庭へ向かった。
フィリアはすでに食事を終え、籠の中に残ったパンを眺めている。
「フィリア、何をしているの?」
リヴィアが尋ねると、フィリアは真剣な顔で答えた。
「午後に食べるパンを選んでいます」
「……昼食は終わったんでしょう?」
「はい。ですが、午後には午後のパンが必要です」
「そんな決まりはないわ」
「私の中ではあります」
「そう……」
リヴィアは、もう反論しないことにした。
セレネが籠を覗き込む。
「これは何のパンですか?」
「蜂蜜入りです」
「こちらは?」
「木の実入りです」
「では、こちらは?」
「ヴァロリア風の香辛料を使ったパンです」
セレネは興味深そうに一つを手に取った。
「少し食べてみたいです」
「どうぞ!」
フィリアが嬉しそうに籠を差し出す。
その様子を見ながら、リヴィアは笑った。
セレネは以前、食べることの楽しささえ知らなかった。
未来を観測する立場にいた彼女にとって、日常は記録する対象であって、自分自身が楽しむものではなかったのだ。
それが今では、友人と食べ物の話をしている。
何気ない時間を楽しみにし、明日も同じ場所へ来たいと願っている。
リヴィアは、その変化が嬉しかった。
「リヴィア」
エヴリンが声をかける。
「何?」
「今日の放課後、ルシアン殿下とお出かけするんですか?」
「お出かけって……学院の中よ!」
「まだ場所は聞いていないんですよね?」
「ええ」
「では、どこへ行くのか楽しみですね」
「……そうね」
リヴィアは小さく頷いた。
楽しみ。
確かに、楽しみだった。
その気持ちを認めることに、以前ほど抵抗はなくなっている。
午後の授業が終わると、リヴィアは約束どおりルシアンと合流した。
「待たせたわね」
「いや、今来たところだ」
「それで、どこへ行くの?」
「ついてきてくれ」
二人は校舎を出て、学院の東側へ向かった。
交流祭の最終日に、ルシアンが手紙を渡した小さな庭とは反対の方向だった。
庭園を抜け、石造りの回廊を歩く。
壁には古い学院の歴史を描いた絵が飾られ、窓の外には手入れされた花壇が広がっていた。
「ここは、あまり来たことがないわ」
リヴィアが言う。
「そうだろうな。普段の授業では、あまり通らない場所だから」
「何があるの?」
「もうすぐ分かる」
「……本当に秘密が好きね」
ルシアンは笑った。
「君が楽しみにしてくれるなら、悪くないと思ってな」
「……っ」
リヴィアは一瞬、言葉に詰まった。
「そ、そういうことを言わないで」
「どうして?」
「心の準備が必要なの!」
「分かった。覚えておこう」
素直に頷くルシアンを見て、リヴィアはますます困ってしまった。
やがて二人は、小さな建物の前にたどり着いた。
学院の敷地の端にある、古い温室だった。
ガラス張りの屋根には夕方の光が差し込み、内部には色とりどりの花が咲いている。
「……こんな場所があったのね」
リヴィアは驚いたように目を見開いた。
「ああ。最近、庭師が手入れを再開したそうだ」
ルシアンが扉を開ける。
温室の中には、白い花や淡い青色の花が並んでいた。
中央には小さな休憩用の椅子とテーブルが置かれている。
窓から差し込む光が、花びらを透かして柔らかな色を床へ落としていた。
「綺麗……」
リヴィアはゆっくりと歩き出した。
花壇のそばで足を止め、淡い青色の花を見つめる。
「この花、何という名前なの?」
「ブルーベルだそうだ」
「可愛らしい名前ね」
「気に入ったか?」
「ええ」
リヴィアは微笑んだ。
「静かで、落ち着く場所ね」
「俺もそう思う」
ルシアンは窓の外を見た。
「交流祭の後、少し一人で考えたいことがあって、ここを見つけたんだ」
「考えたいこと?」
「ああ。これからのことだ」
リヴィアは彼を見る。
「これからのことって……ヴァロリアとの交流制度?」
「それもある」
ルシアンは静かに答えた。
「だが、それだけじゃない」
「……」
リヴィアの胸が、小さく高鳴った。
ルシアンは彼女に向き直る。
「君と過ごす時間についても、少し考えていた」
「……私と?」
「ああ」
彼はいつもの落ち着いた表情で続けた。
「俺は、君と過ごす時間が好きだ」
リヴィアの頬が赤くなる。
「……知っているわ」
「そうか?」
「だって、何度も聞いたもの……」
「なら、もう一度言っても問題ないな」
「問題はあるわ!」
思わず声が大きくなる。
ルシアンは楽しそうに笑った。
しかし、すぐに表情を和らげた。
「ただ、今日はそれを伝えたかっただけじゃない」
「……?」
「君が俺との時間を楽しんでくれていることが、嬉しいんだ」
リヴィアは黙って彼を見つめた。
「手紙をもらった時、俺は君が少しずつ自分の気持ちを伝えてくれるようになったことを嬉しく思った」
「……」
「でも、君が答えを急ぐ必要はない。俺はそれを変えるつもりもない」
ルシアンは窓辺に立ち、花壇を眺めた。
「ただ、君が何を考えているのか、これからも聞かせてほしい」
リヴィアは胸元に手を当てた。
自分の気持ちを聞きたい。
けれど、答えを急かすわけではない。
彼はいつもそうだった。
リヴィアが迷っている時も。
不安になっている時も。
自分で決めるまで、待ってくれた。
「……ルシアン」
「うん?」
「私も、あなたと過ごす時間が好きよ」
今度は、目を逸らさずに言えた。
「一緒に話していると、いろいろなことを考えられる。自分では気づかなかったことにも気づけるし……何より、楽しいの」
言葉にするほど、胸が温かくなっていく。
「だから、これからも一緒にいたいと思っているわ」
ルシアンは静かに彼女を見つめた。
「……ありがとう」
その声には、いつもより少しだけ感情がこもっていた。
リヴィアは恥ずかしそうに笑う。
「でも、まだ結婚については決められないから」
「ああ。分かっている」
「そこは、もう少し考えさせてほしいの」
「もちろんだ」
ルシアンは穏やかに頷いた。
「君が自分で納得できる答えを見つけるまで、待っている」
「……うん」
リヴィアは小さく頷いた。
その後、二人は温室の椅子に並んで座った。
しばらくの間、会話は途切れた。
けれど、不思議と気まずさはなかった。
ガラス越しの夕日が、花々を柔らかく照らしている。
リヴィアは隣に座るルシアンを見た。
彼は静かに外を眺めていた。
その横顔を見ていると、ふと思う。
この時間が、いつまでも続けばいいのに。
そんな願いが、自然に心の中へ浮かんできた。
「……ねえ、ルシアン」
「何だ?」
「また、ここに来てもいい?」
彼は少し驚いたように振り返った。
「もちろんだ」
「今度は、ほかの花も見てみたいわ」
「なら、また一緒に来よう」
「……ええ」
リヴィアは微笑んだ。
それだけで、十分だった。
温室を出る頃には、空が夕焼けに染まっていた。
帰り道、リヴィアは胸元の鞄に手を添えた。
銀色のしおりが入っている。
ルシアンがくれた言葉。
『選んだ未来の、その先へ』
今なら、その意味が少し分かる気がした。
未来を選ぶことは、一度だけの大きな決断ではない。
誰かと話すこと。
また会いたいと伝えること。
一緒に過ごす時間を、自分から望むこと。
そんな小さな選択の積み重ねが、いつか大きな答えにつながっていくのだろう。
「……明日も、楽しみね」
リヴィアが呟く。
「何か予定があるのか?」
「いいえ」
彼女は笑った。
「ただ、明日もあなたと話せるでしょう?」
ルシアンは一瞬、驚いた顔をした。
それから、柔らかく微笑む。
「ああ。もちろんだ」
リヴィアは頬を赤くしながらも、今度は視線を逸らさなかった。
まだ、気持ちの名前ははっきりと分からない。
けれど。
その気持ちが、どこへ向かおうとしているのか。
リヴィアは、もう少しだけ知りたいと思っていた。




