明日も、あなたと
翌朝、リヴィア・アーデントは、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外では、小鳥たちが朝の訪れを告げている。
淡い光が部屋の床を照らし、整えられた寝台の上には、昨夜読みかけていた本が置かれていた。
リヴィアはゆっくりと起き上がると、枕元に置いていた銀色のしおりを手に取った。
青い石が、朝日に照らされて小さく輝く。
『選んだ未来の、その先へ』
裏側に刻まれた文字を、指先でそっとなぞる。
「……明日も、一緒に話せる?」
昨日、自分がルシアンに尋ねた言葉を思い出した。
そして、彼が返してくれた答え。
『もちろんだ』
「……っ」
リヴィアはしおりを胸元に引き寄せた。
「どうして、こんなに嬉しいのかしら……」
誰かと明日も話したい。
そんなことは、特別な願いではないはずだ。
エヴリンとは毎日のように話しているし、セレネとも学院で過ごす時間が増えた。フィリアやノエルとも、何気ない会話を交わしている。
それなのに。
ルシアンに対してだけは、少し違う。
彼と話せると嬉しい。
彼が自分を見つけて微笑んでくれると、自然に頬が緩んでしまう。
別れた後には、次に会える時間を考えている。
「……これって」
そこまで考えて、リヴィアは口を閉じた。
答えを出すのは、まだ早い。
そう思う一方で、以前のように自分の気持ちから目を逸らしたいとは思わなくなっていた。
「……少しずつ、考えればいいわよね」
しおりを鞄にしまい、身支度を始める。
今日も学院がある。
そして、今日もルシアンに会える。
そう思うだけで、朝の準備がいつもより少しだけ楽しく感じられた。
王立セイレーン学院に到着すると、正門の近くでエヴリンが手を振っていた。
「リヴィア様、おはようございます!」
「おはよう、エヴリン」
「今日はいい天気ですね」
「ええ。過ごしやすそうね」
二人は並んで校舎へ向かう。
その途中、エヴリンがふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、昨日はルシアン殿下と何を話していたんですか?」
「……交流制度についてよ」
「本当に?」
「本当に」
「それだけですか?」
「……エヴリン」
「はい?」
「あなた、最近その質問が多くない?」
エヴリンは悪びれずに笑った。
「だって、気になるんですもの」
「何がよ」
「リヴィア様の恋の行方が」
「こ、恋って……!」
リヴィアは思わず周囲を見渡した。
幸い、近くにいた生徒たちは別の話題に夢中になっている。
「声が大きいわ!」
「すみません」
エヴリンは口元を押さえた。
「でも、以前よりルシアン殿下のお話をする時のリヴィア様は、楽しそうですよ」
「……そうかしら」
「はい」
エヴリンは真面目な表情で頷いた。
「無理に答えを出す必要はないと思います。でも、自分が嬉しいと思ったことまで否定しなくてもいいんじゃないでしょうか」
「……」
リヴィアは足を止めかけた。
エヴリンの言葉が、胸の奥に静かに響く。
嬉しいと思ったことまで、否定しなくてもいい。
今までの自分は、気持ちを認めることさえ慎重になりすぎていたのかもしれない。
誰かを好きになれば、その人を失う可能性もある。
大切に思えば思うほど、傷つくこともある。
だから、できるだけ誰にも近づかず、安全な場所にいたいと思っていた。
けれど、そうして守っていたものは、本当に自分が望んでいた未来だったのだろうか。
「……ありがとう、エヴリン」
リヴィアは微笑んだ。
「少し、考えてみるわ」
「はい!」
二人が教室に入ると、セレネが窓際の席で本を読んでいた。
銀色の髪が肩に流れ、胸元の青い水晶と銀青色のペンダントが朝の光を受けて輝いている。
「おはようございます、リヴィア、エヴリン」
「おはよう、セレネ。何を読んでいるの?」
「恋愛について書かれた本です」
「……え?」
リヴィアの足が止まった。
セレネは表紙を見せる。
そこには、貴族社会における婚姻と人間関係について書かれた書名があった。
「学院の図書館で見つけました。人と人が親しくなる過程について、いろいろな考え方が紹介されています」
「そ、そうなの……」
「はい。興味深いです」
セレネはページをめくった。
「例えば、相手と過ごす時間を楽しみにすることや、その人の考えをもっと知りたいと思うことは、親密さが深まる過程で見られるそうです」
「……」
リヴィアはゆっくりとエヴリンを見た。
エヴリンは、にこにこと笑っている。
「セレネ、その本はどこで見つけたの?」
「恋愛に関する本を探していたら、司書の方が勧めてくれました」
「……なるほど」
「リヴィアも読みますか?」
「い、いいえ! 私は大丈夫よ!」
即答してしまった。
セレネが不思議そうに首を傾げる。
「そうですか?」
「ええ。今は、その……ほかにも読まなければならない本があるから」
「分かりました。読み終わったら、内容をお話ししますね」
「そ、それは遠慮しておくわ!」
教室に、エヴリンの笑い声が響いた。
「リヴィア様、顔が赤いですよ」
「暑いだけよ!」
「今日は涼しいですよ?」
「……もう!」
リヴィアは自分の席へ逃げるように向かった。
しかし、セレネの言葉は頭の片隅に残っていた。
相手と過ごす時間を楽しみにすること。
その人の考えをもっと知りたいと思うこと。
それは、今の自分に当てはまるのだろうか。
答えを考えようとすると、自然にルシアンの顔が浮かんでしまう。
その瞬間。
「リヴィア」
教室の入口から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、ルシアンが立っていた。
「少し時間はあるか?」
「えっ?」
突然のことに、リヴィアは目を瞬かせる。
「今から?」
「ああ。昨日、交流制度の資料について話しただろう。追加で確認したいことがあるんだ」
「……資料ね」
リヴィアは自分に言い聞かせるように呟いた。
「分かったわ。少し待っていて」
「もちろん」
ルシアンは教室の外で待つことになった。
リヴィアが鞄を持って席を立つと、エヴリンが小さく囁いた。
「いってらっしゃい」
「……何も言わないで」
「まだ何も言っていませんよ?」
「顔に書いてあるわ!」
エヴリンは楽しそうに手を振った。
セレネも本を閉じて微笑んでいる。
「リヴィア、いってらっしゃい」
「……行ってきます」
リヴィアは二人を残し、教室を出た。
廊下には、ルシアンが待っていた。
「待たせたわね」
「いや」
二人は並んで歩き始める。
目的地は、学院の資料室だった。
交流制度の準備に使う書類が保管されている場所で、最近は学生代表が出入りすることも多い。
「追加の資料って?」
リヴィアが尋ねる。
「これだ」
ルシアンは数枚の書類を差し出した。
そこには、次年度の交流活動についての案がまとめられていた。
「ヴァロリア側から、短期留学の案が出ている」
「短期留学?」
「ああ。まずは希望する学生を少人数ずつ交換して、互いの学院で一定期間学んでもらう」
「それはいい考えね」
リヴィアは書類を読み進めた。
「でも、受け入れる側の準備も必要だわ。住居や授業の調整、それに言葉や文化の違いもあるもの」
「その通りだ」
「最初は期間を短くして、問題がないか確認した方がよさそうね」
「俺もそう考えている」
二人は机に資料を広げ、必要な条件を書き出していった。
受け入れる学生の人数。
滞在期間。
担当する教員。
授業の選択方法。
生活面での支援。
考えるべきことは多かったが、リヴィアは苦痛を感じなかった。
ルシアンと意見を交わすたびに、自分一人では気づかなかった点が見えてくる。
彼もまた、リヴィアの提案に耳を傾け、必要な部分を丁寧に補ってくれた。
「……こうして話していると、時間が経つのが早いわね」
気づけば、窓の外では昼休みを告げる鐘が鳴っていた。
「そうだな」
ルシアンが書類をまとめる。
「そろそろ昼食にしよう」
「ええ」
立ち上がろうとしたリヴィアの手が、机の端に置かれていた紙に触れた。
紙が床へ落ちる。
「あっ」
二人が同時に手を伸ばした。
指先が触れる。
ほんの一瞬。
それだけだった。
しかし、リヴィアは思わず手を止めてしまった。
「……」
「……」
ルシアンも、彼女の手元を見ている。
「す、すみません」
リヴィアは慌てて紙を拾い上げた。
「謝ることはない」
ルシアンは穏やかに言った。
「……そうね」
リヴィアは紙を机に戻す。
頬が少し熱い。
それでも、以前のように逃げ出したいとは思わなかった。
ただ、少しだけ。
この時間が、もう少し続けばいいと思った。
資料室を出ると、学院の中庭には昼食を楽しむ生徒たちの姿があった。
交流祭が終わっても、エルディアとヴァロリアの学生が一緒に食事をする光景は珍しくなくなっている。
その中に、フィリアの姿もあった。
「リヴィア!」
フィリアがこちらに気づき、勢いよく手を振る。
「一緒に食べましょう!」
「ええ。……その前に聞いていい?」
「何ですか?」
「その籠は何?」
「パンです」
「見れば分かるわ」
籠の中には、焼きたてのパンがぎっしりと詰まっていた。
「今日は購買で新しい種類が売られていました」
「だから、そんなに買ったの?」
「はい。全部で八種類です」
「八種類……」
リヴィアは額に手を当てた。
「一人で食べるつもりじゃないでしょうね?」
「もちろんです。皆さんと分けます」
「それなら、まあ……」
「ただし、私の分は確保してあります」
「そこは譲らないのね」
ルシアンが笑う。
「フィリアらしいな」
「はい!」
フィリアは満足そうに頷いた。
結局、リヴィアとルシアンも昼食の輪に加わることになった。
エヴリンがリヴィアの隣に座り、セレネはミアやリーナと楽しそうに話している。
ノエルは少し離れた場所で、レオンと交流制度について意見を交わしていた。
誰かが笑う。
誰かが料理を勧める。
フィリアがパンを配り、セレネが新しい味に興味を示す。
そんな光景を見ていると、リヴィアの胸が温かくなった。
かつての彼女は、こうした日常を当たり前のものだと思えなかった。
いつか失うかもしれない。
何かのきっかけで壊れてしまうかもしれない。
そんな不安が、いつも心のどこかにあった。
けれど、今は。
失う可能性があるからといって、最初から大切にしない理由にはならないと分かっている。
今日の時間を楽しむこと。
明日も会いたいと伝えること。
大切な人と過ごせる日々を、自分から選ぶこと。
それは、決して間違いではない。
「リヴィア?」
隣からルシアンが声をかけた。
「何?」
「これ、食べるか?」
彼が差し出したのは、小さな焼き菓子だった。
「ヴァロリアから届いたものらしい。蜂蜜を使っているそうだ」
「ありがとう」
リヴィアは受け取った。
一口食べる。
蜂蜜の優しい甘さと、香ばしい生地の風味が口の中に広がった。
「……美味しい」
「そうか」
「ええ。あなたも食べてみて」
リヴィアは籠からもう一つ取り、ルシアンへ差し出した。
彼は一瞬だけ驚いた後、受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人はそれぞれ焼き菓子を食べた。
特別なことは何もない。
ただ、おいしいものを分け合っただけだ。
それなのに。
リヴィアは、こんな時間をもっと増やしたいと思った。
授業のことを話す。
新しい料理を試す。
時には意見がぶつかることもあるだろう。
それでも、話し合って、笑って、また次の日を迎える。
そんな未来を。
自分は望んでいるのかもしれない。
午後の授業が始まる前、リヴィアは一人で中庭を歩いた。
交流の木の下には、今日も何人かの生徒が集まっていた。
新しい紙は増えていない。
けれど、枝に結ばれた願いは、風を受けて静かに揺れている。
リヴィアはその中から、自分が書いた紙を見つけた。
『分からない未来を、楽しめますように』
その文字を見て、微笑む。
少し前まで、未来が分からないことは恐ろしかった。
今でも、不安が完全になくなったわけではない。
ルシアンとの関係についても、まだ迷っていることはある。
結婚という言葉の重さ。
二つの王国に関わる立場。
自分の気持ちだけでは決められないことも、きっとあるだろう。
けれど。
それらを理由に、自分の本当の気持ちまで隠し続ける必要はない。
「……私が、本当に望んでいる未来」
リヴィアは小さく呟いた。
それは、まだ完成していない。
でも、少しずつ輪郭が見え始めていた。
大切な人たちと笑っていたい。
自分の選択に責任を持ちたい。
誰かに決められた筋書きではなく、自分の意思で歩いていきたい。
そして。
隣にいてほしいと思う人がいるのなら、その人の気持ちにも、きちんと向き合いたい。
リヴィアは胸元の鞄に触れた。
中には、銀色のしおりがある。
彼がくれた、未来への小さな贈り物。
「……明日も、あなたと」
言いかけて、リヴィアは恥ずかしそうに口元を押さえた。
誰も聞いていない。
それでも、口にするだけで胸が高鳴る。
やがて、午後の鐘が鳴った。
リヴィアは顔を上げ、教室へ向かって歩き始める。
今日という一日が、また進んでいく。
明日がどんな日になるのかは分からない。
それでも。
今のリヴィアには、確かに楽しみにしていることがあった。
明日も、ルシアンと話すこと。
その時間を、今より少しだけ大切にすること。
そして、自分の心が選ぼうとしている未来を、焦らずに確かめていくこと。
まだ答えは出ていない。
けれど、その答えへ向かう道を。
リヴィアはもう、恐れてはいなかった。




