手紙に込めた本当の気持ち
翌朝。
リヴィア・アーデントは、目を覚ましてから三十分近く、自室のベッドに座ったまま動けずにいた。
窓から差し込む朝日が、淡い色のカーテンを透かして床に模様を落としている。
いつもなら、起きて身支度を整え、朝食を済ませて学院へ向かう時間だ。
けれど、今日のリヴィアは違った。
「……昨日の私、何をしていたのかしら」
両手で顔を覆う。
思い出すのは、放課後の小さな庭。
噴水の水音。
ルシアンの驚いた表情。
そして、自分が彼に渡した一通の手紙。
『あなたと過ごす時間を、これからも大切にしたいです』
『まだ、すべての答えを出せたわけではありません。それでも、あなたと一緒に過ごす明日を、楽しみにしています』
「……っ」
リヴィアは枕を抱きしめた。
「どうして、あんなことを書いたのよ……!」
もちろん、嘘を書いたわけではない。
ルシアンと過ごす時間は好きだ。
一緒にいると安心するし、彼が笑ってくれると嬉しい。
自分の考えを否定せず、答えを急かさず、何度でも待つと言ってくれる彼の優しさに、何度も救われてきた。
だからこそ、伝えたかった。
それなのに。
「……面と向かって言うより、手紙の方が恥ずかしいなんて」
書いている時は、何度も文章を直した。
これでは気持ちが伝わらないかもしれない。
いや、伝わりすぎるかもしれない。
そんなことを考えて、結局あの文章に落ち着いた。
そして昨日。
ルシアンは、その手紙を大切にすると言った。
思い出しただけで、頬が熱くなる。
「リヴィア様、お目覚めでしょうか?」
扉の向こうから侍女の声が聞こえた。
「お、おはよう! 起きているわ!」
「朝食の準備が整っております」
「分かったわ。すぐに行くわね!」
リヴィアは勢いよく立ち上がった。
そして鏡の前に立つ。
灰金色の髪を整え、いつものように髪飾りをつける。
青灰色の瞳。
少し赤くなった頬。
いつもと同じ自分の姿を確認して、ようやく落ち着きを取り戻した。
「……大丈夫。普通に接すればいいのよ」
自分に言い聞かせる。
「手紙を渡したからといって、何かが急に変わるわけじゃないもの」
そう。
昨日、自分は一歩を踏み出した。
けれど、だからといって、今日すべての答えを出す必要はない。
そう考えながら、リヴィアは部屋を出た。
朝食の席で、彼女は家族といつも通りに過ごした。
学院での出来事を尋ねられれば答え、食事を楽しみ、食後には学院へ向かう準備を整えた。
問題は、その後だった。
馬車の中で一人になった途端、昨日の出来事が再び頭をよぎったのである。
「……手紙、ちゃんと持っているかしら」
もちろん、渡したのだから手元にはない。
「違うわ。私が持っているのは、しおりよ……」
鞄を開き、銀色のしおりを確かめる。
青い石が朝日を反射した。
『選んだ未来の、その先へ』
ルシアンが贈ってくれた言葉。
リヴィアはしおりをそっと指先で撫でた。
「……ありがとう、ルシアン」
小さく呟いてから、慌てて周囲を見渡す。
馬車の中には彼女しかいない。
「誰も聞いていないわよね……?」
もちろん、返事はない。
リヴィアは深いため息をついた。
どうやら、今日は朝から自分の調子がおかしいらしい。
王立セイレーン学院に到着すると、正門の近くでエヴリンが待っていた。
「リヴィア様、おはようございます!」
「おはよう、エヴリン」
「今日は少し早いですね」
「そうかしら?」
「はい。いつもより五分ほど」
「……」
そんな細かいところまで見ているとは思わなかった。
「たまたまよ」
「そうですか?」
エヴリンは首を傾げた。
そして、リヴィアの顔をじっと見る。
「……何かありました?」
「何もないわ」
「本当に?」
「本当に」
「昨日の放課後、ルシアン殿下と二人で庭にいたと聞きましたけど」
「誰から聞いたの!?」
思わず声が大きくなった。
エヴリンが目を丸くする。
「えっ? 誰からも聞いていませんけど……」
「……」
「今の反応で、何かあったんだと分かりました」
「エヴリン……!」
リヴィアは額に手を当てた。
「あなた、最近ますます意地悪になっていない?」
「そんなことありませんよ」
エヴリンは楽しそうに笑う。
「私はただ、親友が幸せそうだと嬉しいだけです」
「……幸せそう?」
「はい」
その言葉に、リヴィアはすぐには反論できなかった。
自分が幸せなのかどうか。
それは、まだはっきりと答えられない。
けれど。
昨日のことを思い出して、胸が温かくなるのは確かだった。
「……嫌ではなかったわ」
「何がですか?」
「ルシアンと話すこと」
リヴィアは小さな声で答えた。
「一緒にいると、落ち着くの。時々、ものすごく困ることを言うけれど」
「ふふっ」
「笑わないで」
「すみません。でも、嬉しいです」
エヴリンは優しく微笑んだ。
「リヴィア様が、自分の気持ちを少しずつ言葉にできるようになったことが」
「……」
リヴィアは目を伏せる。
「まだ、分からないことだらけよ」
「それでもいいと思います」
「どうして?」
「だって、分からないことがあるからこそ、これから知っていけるんですから」
その言葉は、どこかで聞いた考え方に似ていた。
未来は、最初から完成しているものではない。
歩きながら知っていくもの。
そして、必要なら何度でも選び直せるもの。
「……そうね」
リヴィアは笑った。
「ありがとう、エヴリン」
「どういたしまして!」
二人が教室へ向かおうとした、その時だった。
「おはよう、リヴィア」
聞き慣れた声。
振り返ると、ルシアンが立っていた。
紺色の上着には銀の刺繍が施され、胸元の王家の紋章が朝日を受けて輝いている。
黒に近い青色の髪が額にかかり、深い青色の瞳がリヴィアを見つめていた。
「お、おはよう……!」
リヴィアは一瞬、言葉に詰まった。
ルシアンは少しだけ目を細める。
「どうした?」
「な、何でもないわ!」
「そうか」
彼はいつも通りに頷いた。
それから、リヴィアの隣に立つ。
「今日の授業は午前中で終わるんだったな」
「ええ。午後は交流制度についての意見交換会があるけれど」
「俺も参加する予定だ」
「そうなの?」
「ああ。ヴァロリア側からも、いくつか具体的な案が届いている」
「なるほど……」
会話自体は普通だった。
昨日のことに触れる様子もない。
けれど、リヴィアはどうしても彼を意識してしまう。
この人は、あの手紙を読んだ。
自分の気持ちを知っている。
そう考えるだけで、視線を合わせるのが難しくなる。
「リヴィア」
「は、はい!」
「……そんなに緊張しなくてもいい」
「緊張なんてしていないわ!」
「そうか?」
「そうよ!」
ルシアンは少し笑った。
「なら、安心した」
「……」
その言い方が、またずるい。
リヴィアは頬を膨らませた。
「あなた、絶対に分かっていて言っているでしょう」
「何を?」
「……もういいわ」
エヴリンは隣で肩を震わせていた。
「エヴリン、笑わないで!」
「ご、ごめんなさい……!」
しかし、彼女の顔には笑みが残っている。
リヴィアは小さくため息をついた。
いつもの日常。
いつもの友人。
そして、いつものように自分を困らせる王子。
けれど。
昨日までとは、ほんの少しだけ違う。
自分の気持ちを言葉にして、相手に渡した。
それだけのことなのに、世界の見え方が少し変わった気がした。
午前の授業が終わり、午後の意見交換会まで時間が空いた。
リヴィアは図書館へ向かい、交流祭の記録に関する資料を探していた。
これから始まる両国の交流制度について、もう少し詳しく知っておきたかったのだ。
書架の間を歩いていると、一冊の古い本が目に留まった。
表紙には、過去の学院行事を記録した書物であることが記されている。
リヴィアは本を手に取り、近くの机へ運んだ。
ページをめくる。
何十年も前の学院祭。
他国の学生を招いた交流会。
合同授業の試み。
どれも、今回の交流祭と似た目的を持っていた。
しかし、記録を読み進めるうちに、あることに気づく。
交流活動が続かなかった理由は、必ずしも予算や政治的な問題だけではなかった。
学生たちが卒業すると、中心となっていた人々がいなくなる。
後輩たちは何を引き継げばいいのか分からず、次第に活動から離れていく。
そして、いつしか記録だけが残った。
「……なるほど」
リヴィアは小さく呟いた。
今回の交流祭では、未来記録を残すことにした。
けれど、記録を残しただけで、すべてが解決するわけではない。
次の世代がそれを読み、自分たちに必要なものを考え、実際に行動できるようにする必要がある。
「やっぱり、続けることが一番難しいのね」
「何が難しいんだ?」
突然、背後から声がした。
リヴィアが振り返る。
ルシアンが本を一冊持って立っていた。
「……驚かせないで」
「すまない」
彼は向かいの椅子に腰を下ろした。
「何を読んでいた?」
「過去の交流活動の記録よ」
リヴィアは本を彼に見せる。
「今回と似た試みが、以前にもあったみたい。でも、中心になっていた学生たちが卒業すると、活動が続かなくなったそうよ」
「そういうことか」
「だから、来年以降の仕組みも考えないといけないわね」
「そのための意見交換会だろう」
「ええ。でも、制度を作るだけでは足りないと思うの」
リヴィアはページを閉じた。
「次の人たちが、自分たちで変えていける余地も必要よ」
「今年の方法を、そのまま守らせるのではなく?」
「そう」
ルシアンは少し考えた。
「なら、活動を引き継ぐ役目だけでなく、毎年、新しい案を出す機会も制度に含めればいい」
「……!」
リヴィアは顔を上げた。
「それはいい考えね」
「君が言ったことを、少し具体的にしただけだ」
「それでも、いいものはいいのよ」
思わず笑みがこぼれる。
ルシアンも微笑んだ。
「君と話していると、考えがまとまることが多い」
「……」
今度は、リヴィアが黙ってしまった。
「どうした?」
「……あなた、本当にそういうことを自然に言うわね」
「事実だからな」
「分かっているけれど……」
リヴィアは本の端を指でなぞる。
恥ずかしい。
けれど、嫌ではない。
むしろ、こうして一緒に考えられることが嬉しかった。
「……私も」
「うん?」
「あなたと話すのは、好きよ」
言った瞬間、リヴィアは固まった。
ルシアンも、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
静かな図書館。
窓の外から聞こえる鳥の声。
ページをめくる音さえ、遠くに感じられる。
「……そうか」
やがてルシアンが答えた。
「ああ。嬉しい」
それだけだった。
余計なことは言わなかった。
からかうこともなかった。
ただ、まっすぐに喜んでくれた。
その反応が、リヴィアには何よりも心地よかった。
「……午後の意見交換会、遅れないようにしないといけないわね」
「ああ」
「資料もまとめておきましょう」
「手伝う」
「ありがとう」
二人は並んで資料を整理し始めた。
時折、同じページに手を伸ばして指先が触れる。
そのたびにリヴィアの心臓が小さく跳ねる。
けれど、もう慌てて手を引っ込めることはなかった。
少し照れながらも、そのまま隣にいる。
そんな自分の変化が、リヴィアには不思議だった。
かつて彼女が求めていたのは、誰にも関わらず、何も起こらない安全な未来だった。
しかし今は。
誰かと話し、考え、時には悩みながら、自分の未来を作っていくことが楽しい。
まだ答えは出ていない。
それでも、答えに向かう時間まで大切にしたいと思えるようになった。
午後の意見交換会では、学生たちから多くの提案が出された。
交流活動を引き継ぐ担当者を毎年選ぶこと。
活動内容を固定せず、参加する学生が新しい案を提案できること。
前年度の記録を読む時間を設けること。
そして、うまくいかなかったことも記録に残すこと。
リヴィアとルシアンの案も、その中に加えられた。
すべてがすぐに決まったわけではない。
予算や人員については、これから調整が必要だ。
それでも、学生たちは自分たちの言葉が実際の制度につながっていくことを実感していた。
会議が終わる頃には、窓の外が夕焼けに染まっていた。
リヴィアは書類をまとめ、ゆっくりと息を吐く。
「……今日は充実していたわね」
「ああ」
ルシアンが頷く。
「いい提案がいくつも出た」
「来年が楽しみになったわ」
「俺もだ」
二人は学院の廊下を歩く。
夕方の光が、窓枠の影を床に落としていた。
正門へ向かう途中、リヴィアはふと足を止めた。
「ルシアン」
「何だ?」
「昨日の手紙のことだけれど……」
ルシアンは静かに彼女を見る。
「うん」
「私、あれを書いてよかったと思っているわ」
少し恥ずかしかった。
けれど、目を逸らさずに伝えた。
「まだ、すべての答えを出せたわけじゃない。でも、自分が何を感じているのか、あなたに伝えたかったの」
「……ありがとう」
「だから……」
リヴィアは胸元の鞄にそっと触れた。
「これからも、いろいろな話をしましょう。楽しいことも、難しいことも。あなたの考えも、もっと知りたいわ」
ルシアンはしばらく彼女を見つめていた。
やがて、穏やかに微笑む。
「もちろんだ。俺も、君のことをもっと知りたい」
「……うん」
リヴィアは小さく頷いた。
それ以上の言葉は、必要なかった。
二人は再び歩き始める。
夕暮れの学院。
昨日と同じ道。
けれど、昨日よりも少しだけ近い距離。
リヴィアは思う。
恋というものが、どんな形をしているのか。
まだ、はっきりとは分からない。
けれど。
誰かのことをもっと知りたいと思うこと。
その人と過ごす明日を楽しみにすること。
自分の気持ちを伝えて、相手の気持ちにも耳を傾けたいと思うこと。
それらは、きっと大切な何かにつながっている。
今すぐ名前をつけなくてもいい。
今すぐ答えを出さなくてもいい。
自分の心がどこへ向かっているのか。
これからも、少しずつ確かめていけばいいのだから。
リヴィアは隣を歩くルシアンを見上げた。
「……明日も、一緒に話せる?」
ルシアンは驚いたように瞬きをした。
そして、優しく笑った。
「もちろんだ」
「……そう」
リヴィアも微笑む。
その一言だけで、明日が少し楽しみになった。
まだ、未来は決まっていない。
けれど。
少なくとも、明日を迎えることを、今のリヴィアは心から楽しみにしていた。




