祭りの終わりと、新しい一日
交流祭が終わってから、三日が経った。
王立セイレーン学院には、いつもの日常が戻っていた。
朝の鐘が鳴り、生徒たちが教室へ向かう。
廊下では昨日の授業について話す声が響き、窓から差し込む陽光が磨かれた床を明るく照らしていた。
中庭の交流の木には、今もたくさんの願いが残されている。
しかし、祭りの期間中に比べれば、その周囲に集まる生徒は少なくなった。
それでも、時折立ち止まり、紙に書かれた言葉を読んでいる者がいる。
祭りは終わった。
けれど、あの五日間に生まれたものまで消えたわけではない。
「……なんだか、不思議ね」
リヴィア・アーデントは、教室の窓から中庭を眺めながら呟いた。
灰金色の髪が肩から背中へ流れ、窓から吹き込む風に毛先が揺れる。
青灰色の瞳に映る景色は、以前と何も変わっていない。
けれど、彼女の心には確かな変化があった。
かつて、この世界はゲームだった。
誰が攻略対象で、どのイベントを避けるべきで、どんな選択をすれば破滅を回避できるのか。
神谷紗月としての記憶を持つ彼女は、いつも正解を探していた。
失敗すれば、悪役令嬢として断罪されるかもしれない。
選択を間違えれば、取り返しのつかない結末が待っているかもしれない。
だから、できるだけ何も選ばないようにしていた。
しかし今は違う。
未来が分からなくても、明日が来ることを楽しみにできる。
それを教えてくれたのは、この世界で出会った人々だった。
「リヴィア様?」
声をかけられ、リヴィアは振り返った。
エヴリンが不思議そうにこちらを見ている。
「どうかしましたか?」
「何でもないわ。少し考え事をしていただけ」
「またルシアン殿下のことですか?」
「なっ……!」
リヴィアの頬が一瞬で赤くなる。
「どうしてそうなるのよ!」
「だって、窓の外を眺めながら微笑んでいたので」
「微笑んでなんていないわ!」
「そうですか?」
「そうよ!」
エヴリンは楽しそうに笑った。
「では、何を考えていたんですか?」
「それは……」
リヴィアは言葉に詰まった。
まさか、自分がこの世界で過ごした日々を振り返っていたなどと、真面目に説明するのも気恥ずかしい。
「……未来についてよ」
「未来?」
「ええ」
リヴィアは窓の外へ視線を戻した。
「交流祭が終わって、また普通の日常が始まったでしょう? それで、これからどうなるのかなって」
「なるほど」
エヴリンは納得したように頷いた。
「それで、どんな未来を考えたんですか?」
「まだ決めていないわ」
「リヴィア様らしいですね」
「どういう意味?」
「以前なら、きっと決められた未来を探していたと思うので」
リヴィアは黙った。
エヴリンの言う通りだった。
「……そうね」
やがて、小さく笑う。
「今は、分からないことがあってもいいと思えるようになったわ」
「素敵だと思います」
「ありがとう」
その時、教室の扉が開いた。
「エヴリン、リヴィア」
セレネが姿を現す。
銀色の髪はきれいに整えられ、胸元には青い水晶と銀青色のペンダントが輝いていた。
「学院長がお二人を探していました」
「私たちを?」
リヴィアは首を傾げる。
「何かあったの?」
「交流祭の報告について、少しお話があるそうです」
「報告書なら提出したはずだけれど……」
「それとは別の話みたいです」
セレネは少し考えてから付け加えた。
「それと、ルシアン殿下も一緒に来てほしいそうです」
「……ルシアンも?」
リヴィアは思わず聞き返した。
セレネが頷く。
「はい。先ほど、学院長室へ向かうところを見ました」
「分かったわ。すぐに行きましょう」
リヴィアは鞄を手に取り、エヴリンとセレネとともに教室を出た。
廊下を歩きながら、彼女は考える。
交流祭についての報告なら、学生代表だった自分たちが呼ばれるのは不思議ではない。
しかし、わざわざルシアンまで呼ばれているのはなぜだろう。
まさか、ヴァロリアとの交流計画に何か問題が起きたのだろうか。
それとも、新しい提案でもあるのだろうか。
「……」
以前なら、考えられる可能性を一つずつ検証していた。
そして、悪い結果になりそうなものを見つければ、それを避ける方法を必死に探しただろう。
けれど、今はそこまで考え込まなかった。
行けば分かる。
それだけのことだ。
学院長室に到着すると、扉の前に一人の生徒が立っていた。
黒髪の少年――レオン・アストリアである。
「あれ、リヴィアさん」
「レオン? あなたも呼ばれたの?」
「うん。ルシアン殿下も中にいるよ」
「そう」
レオンは少しだけ笑った。
「心配しなくても、悪い話じゃないと思う」
「まだ何も聞いていないのだけれど」
「だから、たぶんね」
「……」
リヴィアは小さく息を吐いた。
「あなた、ルシアンと似たようなことを言うのね」
「そうかな?」
「人を少しだけ不安にさせるところが」
「それは殿下に失礼じゃない?」
「本人に言ってちょうだい」
レオンは声を立てて笑った。
その後、学院長室の扉が開く。
「皆さん、どうぞお入りください」
学院長に促され、リヴィアたちは室内へ入った。
窓際にはルシアンが立っていた。
黒に近い青色の髪。
深い青色の瞳。
いつもの紺色の衣装には、銀色の刺繍が施されている。
リヴィアと目が合うと、彼は軽く微笑んだ。
「来たか」
「ええ。何の話なの?」
「それは学院長から聞くといい」
「……」
やはり、何かを知っているらしい。
リヴィアは彼をじっと見た。
ルシアンは何も言わず、楽しそうに笑っている。
学院長は机の上に一通の書簡を置いた。
「先ほど、ヴァロリア王国から正式な連絡が届きました」
室内の空気が少しだけ引き締まる。
「今回の交流祭について、ヴァロリア側も大変満足しているそうです。そして、学生たちの提案を受け、両国の交流制度を具体的に整えるための準備が始まることになりました」
「本当ですか?」
セレネの顔が明るくなる。
「ええ。まずは来年度の交流計画を両国で協議し、その後、各学院から担当者を選出する予定です」
「それなら、今回の交流祭は成功したということですね」
エヴリンが嬉しそうに言った。
「そう考えてよいでしょう」
学院長は頷いた。
「ですが、今日皆さんに来てもらったのは、それだけが理由ではありません」
リヴィアは顔を上げた。
「ほかにも何かあるのですか?」
「はい」
学院長は別の書類を取り出した。
「学生代表の皆さんには、今後の交流制度を考えるための意見交換会にも参加していただきたいのです」
「私たちが?」
「ええ。今回の交流祭を実際に経験した皆さんだからこそ、気づけることがあるでしょう」
リヴィアは書類へ視線を落とした。
そこには、次年度の交流制度に関する基本方針が記されている。
文化交流。
共同授業。
研究発表。
短期留学。
どれも、学生たちが交流祭で提案した内容だった。
「……分かりました」
リヴィアは顔を上げた。
「私たちにできることがあるなら、協力します」
「ありがとうございます」
学院長は満足そうに頷いた。
その後、必要な説明が終わり、リヴィアたちは学院長室を出た。
廊下を歩きながら、セレネが嬉しそうに言う。
「来年も交流祭が続くのですね」
「そうなるわね」
リヴィアが答える。
「しかも、今回は交流祭だけで終わらない。普段の授業や研究でも協力できるようになるみたい」
「素敵です」
セレネは胸元のペンダントに触れた。
「来年は、もっと多くの人と友達になれるかもしれません」
「ええ」
リヴィアは微笑んだ。
「きっとね」
やがて、エヴリンとセレネは次の授業へ向かうため、廊下の途中で別れた。
残ったのは、リヴィアとルシアンだけだった。
「……それで?」
リヴィアが尋ねる。
「何がだ?」
「あなた、最初から知っていたでしょう?」
「何を?」
「学院長が何を話すつもりだったのか」
ルシアンは少し考える。
「交流制度の話があることは聞いていた」
「やっぱり」
「だが、詳しい内容までは知らなかった」
「本当?」
「ああ」
リヴィアは彼の顔をじっと見た。
嘘をついているようには見えない。
「……分かったわ」
「信じてくれるのか?」
「あなたが嘘をついていないと思ったから」
ルシアンは一瞬、意外そうな顔をした。
そして、柔らかく微笑む。
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人は並んで歩き始めた。
窓の外では、数人の生徒が交流の木の下に集まっている。
一人が紙を読み、もう一人が笑いながら何かを話していた。
交流祭が終わっても、あの場所を訪れる人はいる。
それがリヴィアには嬉しかった。
「ねえ、ルシアン」
「何だ?」
「交流祭、また来年も見に行きたいわね」
「参加するんじゃないのか?」
「そうね。参加できたら、今度は違うことをやってみたい」
「例えば?」
「そうね……」
リヴィアは少し考える。
「今年は未来記録を作ったでしょう? 来年は、その記録を読んだ学生たちが何を考えたのか、聞いてみたいわ」
「なるほど」
「私たちが書いたことに、賛成する人もいるでしょうし、反対する人もいるでしょう」
「そうだな」
「でも、それでいいと思うの」
リヴィアは窓の外を見た。
「私たちの考えが、絶対に正しいわけじゃないもの」
ルシアンは静かに頷いた。
「次の世代には、次の世代の答えがある」
「ええ」
「そして、君にも君の答えがある」
「……」
リヴィアは彼を見た。
「どういう意味?」
「特別な意味はない」
「本当に?」
「本当だ」
彼は微笑んでいる。
けれど、その言葉が何を指しているのか、リヴィアには分かっていた。
未来のこと。
そして、自分たちのこと。
リヴィアは鞄の中にある銀色のしおりを思い出した。
『選んだ未来の、その先へ』
ルシアンがくれた言葉。
彼は、自分と同じ未来を選べるようにと願ってくれた。
その願いに、リヴィアはまだ答えを返していない。
しかし。
答えを返していないからといって、何も進んでいないわけではなかった。
彼と一緒に歩く時間。
何気ない会話。
笑い合う瞬間。
そうした日々が少しずつ、リヴィアの気持ちを形作っている。
「……ルシアン」
「うん?」
「今日の放課後、少し付き合ってくれる?」
「もちろん」
「行きたい場所があるの」
「どこへ?」
「それは、着いてからのお楽しみ」
リヴィアは少しだけ得意げに笑った。
ルシアンは目を瞬かせた後、楽しそうに微笑む。
「分かった。楽しみにしている」
「ええ」
二人はそのまま廊下を歩いていった。
窓から差し込む光が、二人の影を床に並べている。
交流祭は終わった。
新しい制度も、これから少しずつ形になっていくだろう。
セレネたちは新しい友人との日々を楽しみ、ノエルも自分の未来を選び続ける。
フィリアは今日も、どこかでパンを探しているに違いない。
そしてリヴィアは。
これから自分がどんな未来を選ぶのか、少しずつ考え始めていた。
まだ答えは出ていない。
けれど。
答えを出すことが、以前ほど怖くはなかった。
自分が何を望んでいるのか。
誰と一緒にいたいのか。
どんな明日を迎えたいのか。
それを、自分の心に尋ねてみたいと思えるようになった。
放課後。
リヴィアがルシアンを連れて向かった先は、学院の東側にある小さな庭だった。
以前、ルシアンが銀色のしおりと願いを渡してくれた場所。
中央の噴水から、水が静かに流れ落ちている。
「ここか」
ルシアンが周囲を見渡す。
「ええ」
リヴィアは頷いた。
「この前、あなたがここで私に願いを見せてくれたでしょう?」
「ああ」
「だから、今日は私からも何か渡したいと思ったの」
リヴィアは鞄から小さな封筒を取り出した。
淡い青色の封筒。
表には、ルシアンの名前が丁寧な文字で書かれている。
「これを」
差し出す手が、ほんの少しだけ震えていた。
ルシアンは封筒を受け取る。
「開けてもいいか?」
「……ええ」
彼が封を開く。
中に入っていたのは、一枚の紙だった。
そこには、短い文章が書かれていた。
『あなたと過ごす時間を、これからも大切にしたいです』
その下に、もう一行。
『まだ、すべての答えを出せたわけではありません。それでも、あなたと一緒に過ごす明日を、楽しみにしています』
ルシアンはしばらく、その文字を見つめていた。
やがて顔を上げる。
「……リヴィア」
「な、何?」
「ありがとう」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
リヴィアは頬を赤くする。
「お礼を言われるほどのものじゃないわ」
「俺にとっては、大切なものだ」
「……」
「大切にする」
リヴィアは小さく頷いた。
「うん」
短い沈黙。
噴水の水音が、二人の間を静かに満たす。
そしてルシアンは、紙を丁寧に封筒へ戻した。
「返事を急がせるつもりはない」
「分かっているわ」
「でも、こうして君の気持ちを聞けたのは嬉しい」
「……そう」
リヴィアは微笑んだ。
「なら、よかった」
夕方の光が庭を照らす。
まだ、何も決まっていない。
結婚の答えも。
二人がこれから歩む道も。
けれど。
リヴィアは初めて、自分から一歩を踏み出した。
誰かに決められた選択ではない。
ゲームのシナリオでもない。
ただ、自分がそうしたいと思ったから。
それだけの理由で。
彼女は未来へ向かって、ほんの少しだけ歩き始めたのだった。




