ルシアンが選んだ願い
夕暮れの学院を、リヴィアとルシアンは並んで歩いていた。
交流祭最後の日。
中庭では、まだ学生たちの声が聞こえている。
笑い声。
片付けをする音。
遠くから聞こえる楽器の音。
それらが少しずつ遠ざかっていく。
リヴィアは隣を歩くルシアンをちらりと見た。
黒に近い青色の髪が、夕方の風に揺れている。
深い青色の瞳は前を向いたまま。
いつもの落ち着いた表情。
けれど。
どこか普段とは違っていた。
「……どこへ行くの?」
「少し歩くだけだ」
「それだけ?」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
「……」
リヴィアは目を細める。
「何か隠しているでしょう?」
「そう言っただろう?」
「認めるのね……」
ルシアンは小さく笑った。
「君は本当に鋭いな」
「あなたが分かりやすすぎるのよ」
「そうか?」
「そうよ」
少し歩く。
やがて二人は、学院の東側にある小さな庭へたどり着いた。
そこは普段、学生たちがあまり来ない場所だった。
低い石壁に囲まれた庭。
中央には小さな噴水があり、周囲には白い花が植えられている。
夕陽が石畳を淡い橙色に染めていた。
「ここ……」
リヴィアは周囲を見る。
「初めて来たわ」
「そうだろうな」
「どうしてここへ?」
ルシアンは噴水の近くにあるベンチへ腰を下ろした。
「座らないか?」
「……ええ」
リヴィアも隣に座る。
二人の間には、少しだけ距離がある。
それは以前から変わらない。
けれど。
今のリヴィアには、その距離が以前より近く感じられた。
しばらく二人とも何も言わなかった。
噴水から落ちる水の音だけが聞こえる。
「……交流祭、終わるわね」
リヴィアが口を開いた。
「ああ」
「長かったような、短かったような」
「君は楽しめたか?」
「ええ」
リヴィアは微笑んだ。
「すごく」
「それならよかった」
「セレネも楽しそうだった」
「ああ」
「フィリアはパンばかりだったけど」
「それも楽しんでいたな」
「……」
二人で笑う。
少しだけ沈黙が戻る。
そして。
ルシアンがポケットから何かを取り出した。
「これを」
「……?」
彼の手の中にあったのは、小さな銀色の箱だった。
掌に収まるほどの大きさ。
細かな装飾が施されている。
中央には、エルディアとヴァロリアの紋章ではない。
今回の交流祭で作られた、青銀色の小さな紋章が刻まれていた。
「開けてもいい?」
「ああ」
リヴィアが両手で箱を受け取る。
蓋を開く。
中に入っていたのは、一枚の細い金属製のしおりだった。
銀色の本体。
先端には、小さな青い石が嵌め込まれている。
石は夕陽を受けて、淡く輝いた。
「綺麗……」
リヴィアは思わず呟いた。
「学院の職人に作ってもらった」
「いつの間に?」
「交流祭の準備期間に」
「そんな前から?」
「ああ」
リヴィアはしおりを指先で持ち上げる。
裏側を見る。
そこには小さな文字が刻まれていた。
『選んだ未来の、その先へ』
「……」
リヴィアの指が止まった。
「これ……」
「今回の交流祭を見ていて、思ったんだ」
ルシアンが言う。
「未来は、一度選んだら終わりじゃない」
「……」
「明日になれば、また選ぶことができる」
「ええ」
「だから、君にこれを渡したかった」
リヴィアはしおりを見つめた。
「本に挟むもの?」
「そうだ」
「どうして?」
「記録にはページがあるからな」
ルシアンは静かに笑った。
「でも、ページとページの間には、まだ書かれていない未来がある」
「……」
「その間に、これを挟んでほしい」
リヴィアの胸が、わずかに高鳴る。
「……それって」
「交流祭の記念だ」
「それだけ?」
「それだけではない」
ルシアンは少しだけ視線を逸らした。
「君と俺が、これからも何度でも未来を選べるように」
「……」
リヴィアは何も言えなかった。
耳が熱くなる。
頬まで熱くなっていくのが分かる。
「ルシアン……」
「何だ?」
「あなた、最近こういうことを平然と言うようになったわね」
「そうか?」
「そうよ」
「嫌だったか?」
「……」
リヴィアはしおりを握る。
「嫌じゃない」
「そうか」
「ただ……」
「ただ?」
「心の準備が必要なの」
ルシアンが笑う。
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「なら、これ以上は……」
「分かった」
ルシアンは素直に頷いた。
その反応に、リヴィアは少し驚いた。
「……意外」
「何が?」
「もっとからかってくると思った」
「今日はやめておく」
「どうして?」
「今日は大切な話だから」
その言葉に、リヴィアは再び黙る。
ルシアンは前を向いた。
「それと」
「まだあるの?」
「ああ」
ルシアンは懐から一枚の紙を取り出した。
交流の木に結ばれていた、あの折り畳まれた紙。
「これ……」
「俺の願いだ」
リヴィアは目を見開く。
「見てもいいの?」
「そのために持ってきた」
ルシアンが紙を差し出す。
リヴィアは少し迷った。
けれど。
ゆっくりと受け取る。
折り畳まれた紙を開く。
そこに書かれていたのは、一行だけだった。
『これからも、君と同じ未来を選べますように』
「……」
リヴィアは動けなくなった。
胸の奥が、ゆっくりと熱くなる。
「……これ」
「ああ」
「結婚の答えを求めているわけじゃないのよね?」
「違う」
ルシアンは即答した。
「君がまだ答えを出していないことは知っている」
「……」
「だから、これは返事を求める願いじゃない」
「じゃあ……」
「ただの俺の願いだ」
リヴィアは紙を見つめる。
何度も何度も。
その一行を読み返す。
「ずるいわ」
「何が?」
「そんな願いを書かれたら……」
言葉が続かない。
ルシアンは何も急かさない。
ただ、静かに待っている。
そのことが。
今のリヴィアには、何より嬉しかった。
「……私も」
「うん?」
「同じ未来を選べたらいいと思う」
ルシアンが少しだけ目を見開く。
リヴィアは恥ずかしそうに視線を逸らす。
「でも」
「分かっている」
「まだ、結婚の答えは出せないから」
「ああ」
「もう少しだけ、時間がほしい」
「いくらでも」
「……」
リヴィアは顔を上げる。
ルシアンと目が合う。
深い青色の瞳。
そこには焦りも、失望もなかった。
ただ静かな優しさがあった。
「ありがとう」
リヴィアは小さく笑った。
「待ってくれて」
「俺も、君と一緒にいる時間が好きだからな」
「……」
また顔が熱くなる。
「そういうことを……」
「何だ?」
「……簡単に言わないで」
「本当のことだ」
「だから困るのよ」
ルシアンが笑った。
リヴィアも、つられて笑う。
夕陽が沈み始めている。
空が橙色から薄い紫色へ変わっていく。
学院の中庭からは、最後の片付けをする学生たちの声が聞こえる。
交流祭は終わろうとしている。
けれど。
リヴィアは不思議と寂しくなかった。
終わることは、失うことではない。
今日が終わっても。
明日がある。
そして、その明日を自分で選べる。
「ねえ、ルシアン」
「何だ?」
「このしおり……大切にするわ」
「ああ」
「でも、いつか別のものに変えるかもしれない」
「構わない」
「どうして?」
「君が選んだものなら、それでいい」
リヴィアは微笑んだ。
「本当に、あなたは……」
「何だ?」
「ずるい人ね」
「それは褒め言葉か?」
「さあ?」
二人は笑った。
やがて、リヴィアはベンチから立ち上がる。
「戻りましょう」
「ああ」
歩き出す。
けれど。
数歩進んだところで、リヴィアが立ち止まった。
「……ルシアン」
「?」
「今日の願い」
「どうした?」
「私も、同じ願いを書けばよかったかもしれない」
ルシアンが振り返る。
リヴィアは少し恥ずかしそうに笑っていた。
「でも……」
胸元で、銀色のしおりを握る。
「私の願いは、まだ決まっていないから」
「それでいい」
「……うん」
二人は再び歩き始める。
学院の中庭へ戻る道。
夕暮れの光が二人の影を長く伸ばしている。
その影は少しだけ近づいて。
やがて並んだ。
交流祭は終わる。
けれど。
リヴィアとルシアンの物語は、終わらない。
むしろ。
これから始まる未来こそが。
誰にも観測されず。
誰にも決められていない。
二人自身が、何度でも選んでいく未来だった。




