未来へ渡す最初の一頁
交流祭まで、残り五日。
王立セイレーン学院の図書館、その一角にある小さな会議室。
大きな机の上には、何枚もの紙が広げられていた。
料理について書かれた記録。
文化交流についての感想。
ヴァロリアとエルディアの違い。
学生同士で意見がぶつかった時のこと。
そして、次の世代へ向けた言葉。
それらを一冊にまとめるため、学生代表たちは朝から集まっていた。
「……思ったより多いわね」
リヴィアは机いっぱいに広がった紙を見ながら呟いた。
「それだけ書きたいことがあるってことじゃない?」
エヴリンが笑う。
「そうかもしれないけど……」
リヴィアは一枚の紙を手に取った。
『ヴァロリアの料理はエルディアより少し甘い』
「これは記録として必要なのかしら?」
「必要です」
向かいに座っていたフィリアが即答した。
「非常に重要な情報です」
「……あなたにとってはね」
「未来の人たちも知りたいと思います」
「そうかな……」
セレネがその紙を覗き込む。
「私は必要だと思います」
「セレネまで?」
「はい」
セレネは真剣な表情で頷いた。
「国の歴史だけではなく、そこで暮らしている人たちが何を美味しいと思ったのか。どんなことで笑ったのか。それも未来の人が知りたいことだと思います」
「……」
リヴィアは少し考える。
「確かに」
「でしょう?」
フィリアが嬉しそうに笑った。
「では、この項目は残しましょう」
「パンの種類についても書きます」
「それは少し減らしましょう」
「なぜですか?」
「多すぎるからよ」
「重要なのに……」
フィリアが肩を落とす。
その横でノエルが笑っていた。
「フィリアの未来記録が全部パンになりそうだな」
「それはそれで、分かりやすいと思います」
セレネが真顔で答える。
「セレネまで本気にしないで」
リヴィアは思わず笑ってしまった。
しかし。
笑いながらも、リヴィアは少しだけ不思議な気持ちになっていた。
以前の自分なら。
未来に残す記録と聞けば、もっと重要なものだけを選ぼうとしただろう。
王国の歴史。
大きな出来事。
世界を変えた事件。
重要人物の言葉。
そういうものだけが「記録する価値がある」と思っていた。
けれど。
今は違う。
今日、誰かと笑ったこと。
初めて食べた料理。
友達と交わした言葉。
失敗して、それでもやり直したこと。
そういう小さな出来事も、確かに未来を作っている。
「……全部残してもいいのかもしれないわね」
リヴィアが呟く。
「え?」
エヴリンが顔を上げる。
「今までなら、必要なものだけ選ぼうと思っていたけれど」
リヴィアは机の上を見る。
「どれが必要で、どれが必要じゃないかなんて、今の私たちには分からないもの」
「……」
「だから、できるだけ残す」
セレネが静かに頷いた。
「でも、残しすぎたら次の人が困るかもしれません」
「それもそうね」
「なら、どうしましょう?」
リヴィアは少し考える。
そして、紙の一番上に新しい題名を書いた。
『交流祭・未来記録』
その下に、さらに一行。
『これは正解を残すための記録ではありません』
「……」
全員がその文章を見る。
リヴィアは続けた。
『私たちが何を考え、何を選び、何に迷ったのかを残すための記録です』
セレネが目を細める。
「とても、リヴィアらしいですね」
「そう?」
「はい」
セレネは微笑んだ。
「正しい未来を教えるのではなく、自分で考えるための材料を残しているから」
「……そうね」
リヴィアはペンを置いた。
「それが一番いいと思う」
その後も作業は続いた。
ミアは料理についてまとめた。
どの料理が人気だったか。
どの国の食材を使ったか。
どんな工夫をしたか。
そして、最後に小さく書いた。
『最初は味が合わないと思った料理も、話を聞いてみたら好きになった』
リーナは友達について書いた。
『最初は名前も知らなかった人と、今は一緒に笑っている』
レオンは文化の違いについて。
『違いは、相手を遠ざける理由になるだけではない。知りたいと思う理由にもなる』
ノエルは、意見がぶつかった時のことを書いた。
『同じ考えではなくても、話をやめなければいい』
エヴリンは最後まで悩んでいた。
「私は何を書こう……」
「エヴリンらしいことを書けばいいんじゃない?」
リヴィアが言う。
「私らしいこと?」
「ええ」
「じゃあ……」
エヴリンは少し考えてから、ペンを走らせた。
『知らない人と友達になれることを、もっとたくさんの人に知ってほしい』
「……」
リヴィアは微笑んだ。
「いいと思う」
「本当?」
「ええ」
そして最後に、セレネの番になった。
彼女はしばらく白紙のページを見つめていた。
「また悩んでる?」
リヴィアが尋ねる。
「はい」
「何を書きたい?」
「……未来について」
「それなら、思ったことを書けばいいわ」
「思ったこと……」
セレネは目を閉じる。
これまでのことを思い出す。
白い空間。
無数の世界。
観測。
記録。
失われていく未来。
そして。
自分で選んだこと。
学院で初めて制服を着た日。
初めて友達と昼食を食べた日。
初めて「明日も来たい」と思った日。
セレネはゆっくりと書き始めた。
『私は、未来を知ることが大切だと思っていました』
一行目。
『でも、未来を知らないからこそ、今日を大切にできることを知りました』
二行目。
『明日がどうなるのか分からないから、今日話した人のことを覚えていたいと思いました』
三行目。
そして最後に。
『だから、未来を怖がらないでください』
ペンが止まった。
セレネはページを見つめる。
「……書けました」
「うん」
リヴィアが笑う。
「とてもいいと思う」
「ありがとうございます」
セレネは嬉しそうにページを閉じた。
その日の昼過ぎ。
未来記録の第一稿が完成した。
しかし。
「まだ足りない」
ルシアンが言った。
会議室にいた全員が彼を見る。
「何が?」
リヴィアが尋ねる。
「この記録を読んだ人が、俺たちに質問できない」
「質問?」
「ああ」
ルシアンは記録の最後のページを見る。
「俺たちが何を考えたのかは書いてある」
「ええ」
「でも、次の世代が別の考えを持った時、それを残す場所がない」
リヴィアは目を見開いた。
「……なるほど」
ルシアンは続ける。
「記録を完成させてしまったら、それ自体が一つの答えになる可能性がある」
「確かに……」
セレネも考える。
「では、最後のページを空白にするのはどうでしょう?」
「空白?」
「はい」
セレネは頷く。
「次の世代が、自分たちの考えを書くためのページです」
リヴィアの表情が明るくなる。
「それ、いいわ」
彼女は最後のページを開いた。
そして中央に一文を書く。
『ここから先は、あなたたちの未来です』
その下には、何も書かない。
真っ白なページ。
「……これでいい」
リヴィアは微笑んだ。
「私たちが未来を全部書いてしまったら、それは未来を決めることになってしまう」
ルシアンが頷く。
「だから空白を残す」
「はい」
セレネも微笑む。
「未来のための空白ですね」
その日の夕方。
完成した第一稿を学院長へ提出することになった。
全員で職員室へ向かう。
学院長は分厚い記録を受け取ると、ゆっくりページをめくった。
「なるほど……」
最初のページ。
学生たちの感想。
料理。
文化。
友達。
意見の違い。
そして最後の空白。
学院長は最後まで読み終えると、静かに本を閉じた。
「素晴らしい記録だ」
「ありがとうございます」
リヴィアが頭を下げる。
「しかし」
学院長は最後のページを開く。
「この空白は、本当に残すのか?」
「はい」
リヴィアは迷わず答えた。
「なぜ?」
「未来の人たちに、自分たちの答えを書く場所を残したいからです」
「なるほど」
学院長は微笑んだ。
「それなら、学院の正式な記録として保存しよう」
「本当ですか?」
「ああ」
学院長は頷く。
「そして、毎年この最後のページを新しい学生たちに渡そう」
セレネが驚く。
「毎年?」
「そうだ」
学院長は本を閉じる。
「一冊の記録が、毎年少しずつ増えていく」
リヴィアはその光景を想像した。
今年のページ。
来年のページ。
さらにその次の年。
知らない誰かが、自分たちの言葉を読んで。
そして、その人たち自身の言葉を書き残していく。
何十年後。
何百年後。
この学院に新しい学生が入った時。
この本を開けば。
今の自分たちの言葉が残っている。
「……素敵ですね」
セレネが呟いた。
学院長は笑った。
「そう思うなら、交流祭の日に正式に始めるといい」
「はい!」
その夜。
リヴィアは学院の中庭にいた。
交流の木の下。
風が静かに吹いている。
木に結ばれた紙が揺れていた。
その隣に、ルシアンが立っている。
「今日は随分と長かったな」
「ええ」
「疲れたか?」
「少しだけ」
「なら、帰るか?」
「……もう少しだけ」
リヴィアは木を見上げた。
「今日、未来の記録を作ったでしょう?」
「ああ」
「なんだか不思議なの」
「何が?」
「私たちは、未来を残そうとしている」
「そうだな」
「でも、最後には空白を残した」
「その方がいい」
「私もそう思う」
リヴィアは微笑む。
「全部決めてしまうより、何も決まっていない場所がある方が……少し安心するわ」
「君らしいな」
「どういう意味?」
「君自身が、まだ未来を決めていないから」
「……」
リヴィアは少しだけ頬を赤くした。
「そうね」
「結婚のことも?」
「……そうよ」
「分かっている」
「でも」
リヴィアはルシアンを見る。
「そのことを、前ほど申し訳ないと思わなくなった」
「それでいい」
「あなたが待ってくれるから」
「待つと言った」
「うん」
リヴィアは小さく笑った。
「ありがとう」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、少しだけ距離を縮める。
肩が触れそうになる。
リヴィアは一瞬だけ緊張した。
けれど、離れなかった。
風が吹く。
灰金色の髪が揺れ、ルシアンの黒青色の髪も風に流れる。
「……交流祭まで、あと五日ね」
「ああ」
「楽しみ」
「俺もだ」
「何が一番楽しみ?」
ルシアンは少し考える。
「秘密だ」
「また?」
「交流祭の日に教える」
「本当に秘密が好きね」
リヴィアは呆れたように笑った。
その時。
「リヴィアー!」
遠くからフィリアの声が響く。
「パンが焼けました!」
「……」
リヴィアが目を閉じる。
「どうしてこの時間に……」
「行かなくていいのか?」
「行くわ」
「即答だな」
「パンを冷ます時間も必要でしょう?」
「なるほど」
二人は笑いながら中庭を離れた。
交流祭まで、残り五日。
まだ準備は続いている。
まだ発表も残っている。
まだ、未来は白紙のままだ。
けれど。
白紙だからこそ、そこには何でも書ける。
誰かに決められた言葉ではなく。
自分たちの言葉で。
自分たちの選択で。
そして、いつか次の世代が自分たちの言葉を重ねられるように。
未来へ渡す最初の一頁は――。
静かに、書き始められていた。




