交流祭の前夜に向けて
交流祭まで、残り九日。
王立セイレーン学院では、朝から慌ただしい空気が漂っていた。
昨日まで空いていた中庭には仮設の屋台が並び、校舎の壁には両国の旗が飾られている。
魔法競技場では魔法陣の確認。
訓練場では剣術班の最終調整。
講堂では音楽班の練習。
そして料理室では――。
「フィリア、それは何個目?」
「七個目です」
「朝から?」
「朝食です」
「……」
リヴィアは目の前のパンを見つめた。
フィリアは当然のような顔をしている。
「交流祭が近づいていますから、体力をつけています」
「その理屈なら、学院中の生徒がパンを七個食べることになるわよ」
「それは素晴らしいですね」
「素晴らしくないわ」
エヴリンが笑いながら二人の間に入る。
「まあまあ。フィリアらしいじゃない」
「エヴリンは甘いのよ」
「でも、昨日よりちゃんと我慢してるよ」
「昨日より?」
「昨日は十個食べようとしてた」
「……」
リヴィアはフィリアを見る。
「本当に?」
「はい」
「どうして減ったの?」
「セレネに二つ分けました」
「……」
リヴィアはセレネを見る。
セレネはパンを一つ持ちながら、静かに頷いた。
「美味しかったです」
「そこじゃないのよ……」
朝から賑やかな料理室。
その光景を見ながら、リヴィアは思わず笑ってしまった。
交流祭の準備が始まってから、毎日が少しずつ変わっている。
最初はただの行事だと思っていた。
けれど今では、エルディアとヴァロリアの学生たちが互いに名前を覚え、授業を教え合い、料理を交換し、一緒に笑うようになっている。
それだけでも、交流祭を始めた意味はあったのかもしれない。
「リヴィア」
セレネが声をかける。
「何?」
「昨日の話ですが」
「未来の提案?」
「はい」
セレネは小さなノートを開いた。
「少し考えてみました」
「何を?」
「最後に発表する言葉です」
リヴィアがノートを見る。
そこには短い文章が書かれていた。
『未来は、誰かに決めてもらうものではない。
けれど、一人だけで作るものでもない。
誰かと出会い、話し、時には意見が違っても、
一緒に考えていくことで、未来は少しずつ形になる。』
「……」
リヴィアはしばらく言葉を失った。
「どうでしょう?」
「いいと思う」
「本当ですか?」
「ええ」
リヴィアは笑った。
「セレネが自分で考えた言葉なら、それでいいわ」
「ありがとうございます」
セレネは嬉しそうにノートを閉じた。
その様子を見ていたエヴリンが言う。
「セレネ、本当に変わったね」
「そうでしょうか?」
「うん」
「良い方向に?」
「もちろん」
セレネは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
その時。
「リヴィア」
料理室の入口からルシアンの声がした。
「また来たの?」
「何か問題があるか?」
「ないけど……」
ルシアンはリヴィアの前まで歩いてくる。
「昼休みに少し時間をもらえるか?」
「どうして?」
「見せたいものがある」
「また秘密?」
「ああ」
「……」
リヴィアは少しだけ警戒する。
「本当に秘密が好きね」
「そうかもしれない」
「何を見せるの?」
「昼になれば分かる」
「気になる……」
ルシアンは楽しそうに笑った。
午前の授業が終わる。
昼休みになると、ルシアンは約束通りリヴィアを学院の裏庭へ連れて行った。
そこには普段ほとんど人が来ない、小さな庭園があった。
古い石造りのベンチ。
季節の花。
そして、庭の中央には小さな木製の掲示板が立っている。
「ここ?」
「ああ」
「何があるの?」
リヴィアが近づく。
掲示板には、一枚の紙が貼られていた。
『交流の木』
「交流の木?」
「昨日、学院長が提案したらしい」
ルシアンが説明する。
「交流祭に参加する学生が、未来への願いを一つずつ書いて吊るす」
「……」
リヴィアは掲示板に近づく。
すでに何枚かの紙が結びつけられていた。
『ヴァロリアの友達を作りたい』
『もっと魔法を上手くなりたい』
『将来、両国を行き来できる仕事がしたい』
『また来年も交流祭をしたい』
どれも小さな願いだった。
でも。
リヴィアには、その一つ一つが眩しく見えた。
「素敵ね」
「ああ」
「これ、誰が考えたの?」
「学院長だ」
「……なるほど」
リヴィアは紙を一枚手に取った。
「私も書いていいの?」
「もちろん」
リヴィアはペンを持った。
何を書くべきか考える。
世界平和。
両国の繁栄。
未来の交流。
どれも大切だ。
でも。
今の自分が本当に願っていることは――。
リヴィアは少しだけ笑った。
そして書く。
『これからも、大切な人たちと笑っていられますように』
紙を結ぶ。
風が吹いた。
紙が揺れる。
ルシアンがそれを見る。
「それが君の願いか?」
「ええ」
「……いい願いだな」
「そう?」
「ああ」
リヴィアはルシアンを見る。
「あなたは?」
「俺?」
「書かないの?」
「書く」
ルシアンも紙を一枚取る。
少し考えた。
そして、短い言葉を書く。
リヴィアが覗き込もうとする。
「何を書いたの?」
「秘密だ」
「また?」
「これは本当に秘密だ」
「気になるわ……」
「交流祭の日まで待ってくれ」
「そんなに?」
「ああ」
リヴィアは少し頬を膨らませた。
「ずるい」
「そう言われると思った」
二人が笑っていると――。
「ここにいたんですね!」
エヴリンが走ってきた。
その後ろにはセレネ、フィリア、ミア、リーナ、ノエルもいる。
「みんな?」
「学院長から聞いたんです」
エヴリンが掲示板を見る。
「交流の木でしょう?」
「ええ」
「私たちも書いていいって」
「もちろんよ」
皆がそれぞれ紙を手に取る。
フィリアはすぐに書き始めた。
「早いわね」
リヴィアが見る。
「何を書いたの?」
「秘密です」
「あなたも?」
「はい」
フィリアが嬉しそうに笑う。
ノエルが紙を見ながら苦笑する。
「どうせパンだろ」
「違います」
「本当か?」
「……少しだけパンです」
「やっぱりか」
エヴリンが笑う。
ミアとリーナも紙を結んだ。
セレネは最後まで何を書くか悩んでいた。
「どうしたの?」
リヴィアが尋ねる。
「分かりません」
「何が?」
「願いを書くのが初めてなので」
セレネは紙を見つめる。
「以前なら、世界がどうなるのかを書いていたと思います」
「今は?」
「自分のことを書きたいです」
「なら、自分が望むことを書けばいいわ」
セレネは少し考える。
そして。
ゆっくりペンを動かした。
『明日も、今日と同じように笑えますように』
紙を結ぶ。
風が吹いた。
銀色の髪が揺れる。
「……書けました」
「うん」
リヴィアが微笑む。
「とても素敵よ」
セレネも嬉しそうに笑った。
しばらく皆で掲示板を眺める。
たくさんの願い。
たくさんの未来。
どれも違う。
けれど、どれも今を生きている人たちの言葉だった。
「不思議ですね」
セレネが呟く。
「何が?」
ミアが聞く。
「昔は、未来を一つにすることが正しいと思っていました」
セレネは掲示板を見る。
「でも、こうして見ると……」
風に揺れる無数の紙。
「未来は、違っていていいのですね」
「うん」
リヴィアが答えた。
「違うからこそ、面白いんだと思うわ」
その言葉に、セレネは頷いた。
その日の午後。
交流祭の準備はさらに進んだ。
料理班はメニューを完成させ。
魔法班は演目を決定。
剣術班は模擬試合の組み合わせを発表。
文化展示班は両国の歴史資料を並べる。
そして、学生代表による未来の提案も最終原稿が完成した。
夕方。
リヴィアは一人で教室に残り、最後の文章を確認していた。
すると、扉が開く。
「まだいたのか」
ルシアンだった。
「もう少しだけ」
「真面目だな」
「大事な発表だから」
「そうだな」
ルシアンが隣の席に座る。
「……ねえ」
「何だ?」
「あなたが書いた願い」
「ああ」
「本当に見せてくれないの?」
「まだだ」
「交流祭まで秘密?」
「そうだ」
「……」
リヴィアは少し考える。
「分かったわ」
「意外と素直だな」
「その代わり」
「何だ?」
「私も秘密を一つ作る」
ルシアンが少し驚いた顔をする。
「君が?」
「ええ」
「何の?」
「それも秘密」
「……」
リヴィアは少し得意げに笑った。
「どう? 悔しいでしょう?」
「いや」
「え?」
「君が秘密を持つようになったことが、少し嬉しい」
「……どういう意味?」
「以前の君は、未来を知っていないと不安そうだったからな」
「……」
「今は、知らないことを楽しめるようになった」
リヴィアは黙った。
そして。
「……そうかもしれないわね」
二人は窓の外を見る。
夕暮れ。
交流の木に結ばれた紙が、遠くからでも見える。
たくさんの願い。
たくさんの未来。
その中に、自分たちの願いもある。
まだ答えは出ていない。
それでも。
答えが決まっていないことを、もう恐れてはいなかった。
「交流祭まで、あと九日」
リヴィアが呟く。
「ああ」
「楽しみね」
「そうだな」
そして二人は、並んで教室を出た。
誰かに決められた未来ではなく。
自分たちが書いた未来へ向かって。
少しずつ。
一歩ずつ。
歩いていった。




