六、鏡の間の真実
翌朝、千夏は、女将の部屋に、呼び出された。
「約束を、破ったそうね」
女将の声には、怒りよりも、深い、諦めのような色が、滲んでいた。
「申し訳、ございません」
「……いいえ、謝る必要はないわ。むしろ、話しておくべき、時期だったのかもしれない」
女将は、静かに、湯呑みに、口をつけた。
「あの鏡の間には、代々、この旅館で、命を落とした者たちの、想いが、宿っているの」
「命を、落とした……」
「この旅館は、百年以上前、山の斜面が崩れる、大きな事故があってね。当時の宿泊客と、従業員の何人かが、犠牲になったの。あの部屋は、当時、崩落に巻き込まれた人々が、最後にいた場所でね」
女将は、遠い目をしながら、続けた。
「事故の後、あの部屋には、いつからか、大きな鏡が、置かれるようになった。誰が、いつ、置いたのかは、もう、誰にも分からない。ただ、いつしか、あの鏡には、亡くなった方々の、"未練"のようなものが、映り込むようになったと、言われているの」
「では、私が見た、あの人影は」
「恐らく、この旅館で、亡くなった、誰かの、想いの一部でしょうね」
千夏は、思わず、身震いした。
「なぜ、深夜だけ、覗いてはいけないんですか」
「深夜零時から一時は、事故が起きた、まさにその時刻なの。その時間帯、鏡の中の想いが、最も強く、こちら側に、干渉してくると、言われているわ」
「干渉、というのは」
女将は、少し躊躇った後、静かに答えた。
「鏡を覗いた者は、時折、あちら側の"想い"に、魅入られてしまうことがあるの。ひどい場合には、鏡の中に、引き込まれてしまった者も、過去にいたと、聞いている」
その言葉に、千夏は、背筋が、凍る思いだった。
「私は、大丈夫、なんでしょうか」
女将は、しばらく、千夏の顔を、じっと見つめた後、静かに、首を振った。
「正直、分からないわ。ただ、鏡を覗いた後、何か、いつもと違う違和感があれば、すぐに、私に、伝えてちょうだい」
そう言って、女将は、古い帳簿を一冊、棚から取り出した。表紙には、達筆な字で「業務日誌」とだけ、書かれている。
「実は……あなたのように、決まりを破ってしまった従業員は、これまでにも、何人か、いたの」
女将は、ページを、静かにめくりながら、続けた。
「多くは、あなたのように、少し、怖い思いをするだけで、済んだわ。でも、中には」
「中には?」
「三十年ほど前、若い仲居が一人、鏡を覗いた後、急に、旅館を辞めると言い出してね。荷物をまとめて、山を下りていったきり、それきり、誰も、彼女の消息を知らないの」
その言葉に、千夏の背筋が、ぞくりと、粟立った。
「実家にも、帰っていなかったんですか」
「ええ。ご家族が、心配して、旅館まで、訪ねてきたこともあったわ。でも、結局、何も、分からずじまい」
女将は、帳簿を、静かに閉じた。
「だから、あなたにも、気をつけてほしいの。何か、少しでも、おかしいと感じたら、すぐに、教えてちょうだい」
千夏は、神妙な面持ちで、頷いた。
その夜、千夏は、なかなか、寝付くことができなかった。鏡の中で見た、あの人影が、脳裏から、離れなかった。
深夜、うとうとと、微睡み始めた頃――千夏は、ふと、部屋の隅に置かれた、姿見に、目を留めた。
(あれ、こんな鏡、部屋にあったっけ)
見覚えのない、古びた姿見が、いつの間にか、部屋の隅に、置かれていた。
鏡の中には、いつも通りの、自分の姿が、映っている。だが、その背後に――昨夜、鏡の間で見たのと、同じ、ぼんやりとした人影が、再び、映り込んでいた。
千夏は、震える声で、その人影に、問いかけた。
「……あなたは、誰、ですか」
鏡の中の人影が、ゆっくりと、口を開いたように見えた。だが、声は、聞こえなかった。ただ、その輪郭が、少しずつ、はっきりとしていく。
そこに映っていたのは――若い、仲居の格好をした、女性の姿だった。どこか、佐伯に、似ている気がした。
はっと、目を覚ますと、千夏は、自室の布団の中にいた。姿見は、どこにも、見当たらない。
(夢……だったの?)
だが、手のひらには、確かに、冷たい鏡に触れた時の、あの感触が、まだ、残っていた。
翌朝、千夏は、佐伯に、昨夜の出来事を、恐る恐る、伝えてみた。話を聞き終えた佐伯は、しばらく、沈黙した後、静かに、口を開いた。
「……その人影、若い頃の、私の、姉かもしれないわ」
「お姉さん、ですか」
「ええ。あの事故で、亡くなったの。まだ、若かった」
佐伯は、遠い目をしながら、続けた。
「姉も、この旅館で、仲居として、働いていてね。あの日、たまたま、鏡の間の近くにいて、巻き込まれてしまったの」
「それで、佐伯さんは、この旅館で……」
「姉の分まで、この場所を、守り続けたいと思って、ここで働き続けているの。だから、あの部屋の決まりも、誰よりも、大切に、守ってきたつもりだったんだけど」
佐伯は、千夏の方を見つめながら、静かに続けた。
「もしかしたら、姉は、あなたを通して、私に、何かを、伝えたかったのかもしれないわね」
その言葉に、千夏は、少し、驚いた。
「私に、ですか」
「ええ。あなたは、決まりを破ってしまったけれど……もしかしたら、それも、何かの、巡り合わせだったのかもしれない」
数日後、女将は、鏡の間に、久しぶりに、僧侶を招き、丁寧な供養を行うことにした。長年、誰も、正式な供養をしてこなかった、あの部屋の、亡くなった人々の魂を、弔うために。
供養の日、千夏も、佐伯と共に、鏡の間の前に、そっと手を合わせた。
「安らかに、お眠りください」
不思議なことに、供養が終わった後、鏡の間の前を通っても、あの、コツン、コツンという音は、二度と、聞こえなくなった。




