五、破られた決まり
夏休みも折り返しに差し掛かった頃、千夏は、すっかり、旅館での生活に、慣れ始めていた。だが、深夜、鏡の間の前を通るたびに、あの、コツン、コツンという音が、時折、聞こえてくることに、気づいていた。
(一体、何なんだろう……)
好奇心と、不安が、日に日に、千夏の中で、膨らんでいった。誰に聞いても、はぐらかされるばかりの、鏡の間の真実。ある夜、千夏は、ついに、その好奇心に、抗えなくなってしまった。
その夜は、皮肉にも、佐伯が口にしていた、あの"三日後"――満月と、事故の日が重なる、まさにその夜だった。厨房の窓から見える月は、いつもより、白く、大きく見えた。
深夜零時半、佐伯が、他の客室の対応で、席を外している隙に、千夏は、そっと、鏡の間の前に立った。
(少しだけ。少しだけ、覗くだけなら……)
震える手で、引き戸に、指をかける。心臓が、激しく脈打っていた。
戸を、静かに、開ける。
部屋の中は、思いのほか、狭かった。古めかしい、大きな姿見が一つ、部屋の中央に、ぽつんと置かれている。他には、何もない、がらんとした部屋だった。
(拍子抜け……何も、いない)
安堵しかけた、その時。
鏡の中に映る自分の姿が――一瞬、微かに、遅れて動いた気がした。
「――え」
千夏は、思わず、鏡に、顔を近づけた。だが、鏡の中の自分は、いつも通り、自分の動きに、同調している。
(気のせい、よね)
そう自分に言い聞かせながらも、千夏は、鏡から、目を離せずにいた。
その時、鏡の奥、自分の背後に――誰かが、立っているのが、映り込んだ。
慌てて、振り返る。だが、そこには、誰もいなかった。
もう一度、恐る恐る、鏡を見る。鏡の中には、やはり、自分の背後に立つ、人影が、映っている。
輪郭は、ぼんやりとしているが、どこか、見覚えのある――
「――千夏さん!」
背後から、佐伯の、切迫した声が響いた。千夏は、弾かれるように、鏡から目を離し、振り返った。
「な、何を、しているの!」
佐伯は、青ざめた顔で、千夏の腕を掴むと、強引に、部屋の外へと、引きずり出した。引き戸を、勢いよく閉める。
「見たの、鏡を!?」
「は、はい……でも、何も、変わったことは」
「本当に、何も、映らなかった?」
佐伯の、切迫した問いに、千夏は、正直に、答えることにした。
「……自分の背後に、人影のようなものが、映っていました」
その言葉に、佐伯の顔から、完全に、血の気が引いた。




