三、客間の異変
数日後の夜、フロントに、一本の内線が入った。二階の客間に宿泊している、初老の男性客からだった。
「すみません、隣の部屋から、妙な物音が、聞こえるんですが」
「かしこまりました。確認いたします」
千夏は、佐伯と共に、該当の部屋へと向かった。だが、隣室は、この時期、空室になっているはずだった。
「あの、隣は、空室のはずですが」
戸惑いながら、男性客に伝えると、彼は、怪訝そうな顔をした。
「いや、確かに、聞こえたんです。誰かが、鏡を、コツコツと、叩くような音が」
その言葉に、千夏の心臓が、大きく跳ねた。あの、鏡の間で聞いた音と、同じだった。
「もしや、女性の、すすり泣くような声も、聞こえませんでしたか」
千夏の問いに、男性客は、驚いたように、目を見開いた。
「……よく、分かりましたね。確かに、微かに、そんな声も」
隣で、佐伯の顔が、僅かに、強張るのが分かった。
「申し訳ございません。すぐに、対応いたします」
男性客の部屋を後にし、廊下を歩きながら、千夏は、佐伯に、恐る恐る、尋ねた。
「あの部屋、鏡の間から、近いですよね」
「……ええ。真上に、位置しているの」
「もしかして、鏡の間の"何か"が、階を跨いで、影響を及ぼすことも」
佐伯は、しばらく、沈黙した後、静かに答えた。
「昔から、時々、こういうことは、あったわ。特に、満月の夜や、事故のあった時期が近づくと、鏡の間の"気配"が、強くなる傾向がある」
「今夜も、満月に、近いんですか」
「ええ。三日後が、満月よ。それに」
佐伯は、少し、言い淀んだ後、続けた。
「三日後は、あの事故が、起きた日でもあるの」
その符合に、千夏は、背筋が、冷たくなるのを感じた。
「大丈夫でしょうか、今夜の、お客様は」
「別室に、移っていただきましょう。女将に、報告してくるわ」
その夜、男性客は、別の階の部屋へと、移動することになった。だが、千夏の頭からは、あの、"三日後"という言葉が、離れなかった。
事故から、ちょうど、その日数だけ経った夜に、自分は、鏡の間を、覗くことになる。まるで、何かに、引き寄せられているかのような、そんな、嫌な予感が、千夏の胸に、静かに広がっていった。
その夜以降、千夏は、寮の自室にいる時も、廊下を歩いている時も、時折、視界の端に、何かが、よぎるような感覚に、悩まされるようになった。
(気のせい……よね)
そう、自分に言い聞かせながらも、日に日に、鏡の間への、抗いがたい好奇心と、言い知れぬ不安が、千夏の中で、綱引きを続けていた。




