二、深夜の廊下
その夜、千夏は、早速、夜勤に入ることになった。深夜の旅館の仕事は、主に、朝食の下ごしらえと、宿泊客からの、夜間の呼び出し対応だった。
「初めての夜勤、大変だと思うけど、よろしくね」
同じく夜勤を担当する、先輩の仲居――佐伯という、無口な中年女性が、淡々と、業務内容を教えてくれた。
「あの、佐伯さん。"鏡の間"について、伺ってもいいですか」
千夏の問いに、佐伯は、一瞬、手を止めた。
「……女将から、聞いたの」
「はい。深夜は、覗いちゃいけない、と」
佐伯は、しばらく黙り込んだ後、静かに答えた。
「ここで長く働きたいなら、余計な詮索は、しない方がいいわ。ただ、決まりだけは、必ず守ること」
その口調には、有無を言わせぬ、重みがあった。千夏は、それ以上、深く尋ねることを、やめておいた。
深夜零時を過ぎた頃、館内は、しんと静まり返っていた。千夏は、厨房での下ごしらえを終え、廊下を通って、控室へと戻ろうとしていた。
その途中、あの、重厚な引き戸の前を、通りかかった。
(これが、鏡の間……)
引き戸の隙間から、微かに、冷たい空気が、漏れ出しているような気がした。千夏は、思わず、足を止めた。
その時、扉の奥から、かすかに、物音が聞こえた気がした。
――コツン。コツン。
まるで、何かが、鏡を、軽く叩いているような音だった。
千夏は、思わず、身を強張らせた。だが、女将との約束を思い出し、慌てて、その場を立ち去った。
控室に戻ると、佐伯が、静かに、お茶を淹れていた。
「どうしたの、顔色が悪いわよ」
「あの……鏡の間の前で、変な音が、聞こえた気がして」
その言葉に、佐伯の手が、僅かに止まった。
「聞こえなかったふりを、しなさい。それが、一番、いいから」
有無を言わせぬ、その口調に、千夏は、それ以上、何も言えなかった。
翌日の昼下がり、千夏は、庭の手入れをしている、初老の庭師と、顔を合わせた。この旅館に、長年、勤めているという、寡黙な人物だった。
「あんたが、新しく入った、アルバイトの子か」
「はい、千夏です。よろしくお願いします」
庭師は、剪定バサミを動かしながら、ぽつりと、尋ねてきた。
「もう、あの部屋のことは、聞いたか」
「鏡の間、ですか」
「ああ。俺も、若い頃、一度だけ、あの部屋の前を、うっかり、深夜に通りかかったことがあってな」
庭師は、手を止め、遠い目をした。
「その時は、覗きこそしなかったが、扉越しに、微かな、女の啜り泣くような声を、聞いた。あれ以来、俺は、夜勤の日は、あの廊下を、なるべく、避けるようにしている」
「怖く、ないんですか、ずっとここで働いていて」
「怖いさ。だが」
庭師は、少し、寂しそうに、笑った。
「この旅館には、世話になった恩がある。それに、あの部屋にいる"誰か"も、好きで、あそこに留まっているわけじゃないだろう。そう思うと、むやみに、恐れるだけじゃなく、そっとしておいてやりたい、という気持ちにも、なるもんだ」
その言葉に、千夏は、少し、考えさせられるものを、感じた。




