一、月白旅館
大学の夏休み、生活費を稼ぐために、千夏は、山間の小さな温泉地にある「月白旅館」で、住み込みのアルバイトを始めることにした。求人サイトには「賄い付き、寮完備、深夜勤務あり」とだけ、素っ気なく書かれていた。
「よく来てくれたわねえ」
出迎えてくれたのは、女将の月代という、上品な佇まいの老婦人だった。旅館の名は、彼女の名字から来ているのだろう。
「今日から、お世話になります。千夏です」
「こちらこそ、よろしくね。まずは、旅館の決まりごとを、いくつか伝えておくわ」
女将は、穏やかな口調のまま、思いがけないことを口にした。
「うちの旅館には、"鏡の間"という、古い部屋があってね。深夜零時から一時までの間、決して、あの部屋の鏡を、覗いてはいけないの」
「鏡を、覗いてはいけない……ですか」
唐突な忠告に、千夏は、思わず、聞き返した。
「ええ。理由は、聞かないでちょうだい。ただ、これだけは、絶対に守ってね。この旅館で、長く働いてきたスタッフは、皆、この決まりを、きちんと守っているわ」
女将の目には、冗談とは思えない、真剣な色が浮かんでいた。千夏は、内心、少し薄気味悪さを覚えながらも、生活費のためにと、素直に頷いた。
「分かりました。守ります」
「ありがとう。じゃあ、今日から、よろしくね」
案内された寮の部屋は、古いながらも、清潔に整えられていた。荷物を片付けながら、千夏は、先ほどの女将の言葉を、なんとなく、思い返していた。
(鏡の間、か。単に、古いから、危ないってことなのかな)
だが、廊下の奥、一枚だけ、他とは違う、重厚な引き戸で仕切られた部屋があることに、千夏は、初日にして、既に気づいていた。




