第32話 新体制を取る
吉田郡山城の戦いでは最終的に毛利元就に逃げられてしまった
さらに今回の乱において国内では政久に対して不満の声とも上がるようになった
まず、相合元綱や南条宗勝が謀反を起こした理由は一部の武将への「贔屓」とも取れる重用が原因であった
宇喜多能家や山名政豊、そして毛利元就と言ったものたちに国を一つ任せながら南条宗勝や吉川興経といった次点の有力者達には安堵どまりであった
これではまた反乱が起きてしまう
そう考えた政久は改革を推し進めていくこととなった
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1526年、一連の反乱が終わると政久は尼子国久、塩冶興久の弟二人を呼び出した
「兄上、およびと聞いて」
そういう二人にこう告げる
「興久には四国方面、国久には近畿方面の責任者としてみなをまとめて欲しい」
これには2人とも驚きだった
総大将として自由にその地方を攻めよと言っているようなものである
しかも切り取った領地は自分たちのものにしていい
ただし参加させた領主たちへの恩賞はしっかり取ることが条件だった
こうして興久は安芸・備後、国久が播磨・丹波を直轄としてそれぞれの方面に侵攻するべく動いていくことになった
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二人の弟にそれぞれの方面を任した後、宇喜多能家と山名政豊とも話をした
山名政豊には丹後を加増して国久をサポートさせ宇喜多能家には備中を与え興久をサポートするように命じた
また此度の反乱で活躍した高橋興光には石見の完全な支配を認め石見銀山の収益の3割も自由にしていい事にした
またこれまで活躍していた桜井宗的と亀井秀綱の二人に桜井宗的には豊前、亀井秀綱には筑前を与えそのほかの家臣にもめいいっぱい加増した
また山中貞幸、立原幸綱、宇山久兼、赤穴光清の四人を宿老として数万石取りの家臣とした
これにより尼子家は
軍団長︰尼子国久、塩冶興久
国領主︰山名政豊、宇喜多能家、高橋興光、桜井宗的、亀井秀綱
宿老︰山中貞幸、立原幸綱、宇山久兼、赤穴光清
といった体制となった
結果的には反乱により力を持っていた国人衆や有力者たちを血祭…鎮圧し力を削いだ結果功臣たちや一門に力を与えれる結果となった
こういった体制を築いた結果尼子家の不満分子は何とか抑えることに成功したのであった




