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水無瀬の庭師  作者: ふらう
第三部 葉
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9/22

第九章 透 三

##第三部 葉


## 第九章 透


---


七月になると、水無瀬の空が変わった。


梅雨が明けたわけではなかった。しかし雨の質が変わった。六月の雨は、しとしとと降り続ける雨だった。七月の雨は、降る時は激しく降って、止む時はきっぱりと止んだ。雨上がりの空が、六月より高く見えた。雲の切れ間から、夏の青が覗いた。


透はその空の変化を、川沿いを歩きながら感じていた。


毎日、川沿いを歩くようになっていた。


以前は仕事帰りに自転車を止めて、五分か十分、川を見て帰っていた。今は自転車を置いて、歩いて出かけることが増えた。川沿いを、上流に向かって歩いて、折り返して、帰ってくる。往復で三十分から四十分。それがいつの間にか、日課になっていた。


歩きながら、川を見た。


六月より、少し透明度が上がっている気がした。川底の石が、ほんの少しだけはっきり見えるようになっていた。気のせいかもしれなかった。しかし毎日見ていると、少しずつ変わっていることが、なんとなくわかった。


夢の中の川には、まだ遠かった。


しかし近づいていた。


---


エデンズフィールには、週に三回通っていた。


火曜日、木曜日、土曜日。仕事帰りか、休日の午後に行った。毎回同じテーブルに座って、窓の外を見ながらお茶を飲んだ。


体の変化は、確かだった。


疲れが軽くなっていた。朝起きた時の重さが、ほとんどなかった。仕事中に頭が霞む感覚がなくなった。眠れるようになった。食欲が戻った。


精神的な変化も、あった。


何かを考えなければならない、という義務感が薄れていた。仕事の帰り道に、今日の失敗を繰り返し思い出す習慣があった。あの書類の処理が遅かった、あの電話の対応が悪かった、あの会議で何も言えなかった。そういう反芻が、気づけば減っていた。


代わりに、別のものが増えていた。


外のものを、見るようになっていた。


川の色。空の形。商店街の光の落ち方。老夫婦の歩き方。猫が日向で丸くなっている様子。今まで目に入っていたはずのものが、今は見えていた。


---


アデルと話すようになっていた。


最初の頃は、アデルが「お口に合いましたか」と聞いて、透が「はい」と答えて、それで終わりだった。今は、もう少し長く話した。


「仕事は今日どうでしたか」とアデルが聞くことがあった。


「普通でした」と透は答えた。「書類を処理して、回覧を回して、それだけです」


「それだけ、というのは不満ですか」


「不満というより、それでいいのかという感じがずっとあります」と透は言った。


「それでいいのかというのは」


「自分が、何かに使われている気がしない、という感じです。市役所の仕事は、誰かの役に立っているはずです。でも、実感がない」


アデルはしばらく考えてから言った。「あなたは水無瀬に何かしたいですか」


「何かしたい、というより、何かできればいいと思います」と透は言った。「でも何かはわからない」


「わからなくていいです、今は」とアデルは言った。「ただ、見ていてください。この街を」


その言葉を、透はしばらく考えた。


見ていてください、この街を。


透は子供の頃から水無瀬を見てきた。しかし見ていたつもりで、見ていなかったかもしれない。シャッターが増えたことを知っていた。川が濁っていることを知っていた。しかしそれを、自分のこととして見ていなかった。


---


七月の第二週の木曜日、透はエデンズフィールに入ると、先客がいた。


カウンターに、見知らぬ男性が座っていた。四十代くらい。やや長めの黒髪に無精髭。くたびれたジャケット。手にノートを持っていた。


アデルと話していた。


透はいつものテーブルに座った。二人の会話が、断片的に聞こえた。財務のこと。従業員の生活のこと。コストのこと。男性がメモを取りながら質問していた。アデルが答えたり、答えなかったりしていた。


取材をしている人間だ、と透は思った。


ジャーナリストか、何かだろう。エデンズフィールを調べている人間がいても、不思議ではなかった。透自身も、最初はインターネットで調べた。


透はお茶を飲みながら、男性のことを横目で見ていた。


男性は執拗だった。同じことを角度を変えて聞いていた。アデルは毎回、同じように答えていた。答えられることは答えた。答えられないことは答えなかった。


「なぜ隠すんですか」と男性が言った。


「隠してるんじゃなくて、あなたにはまだ必要のない情報だと思っています」とアデルが言った。


透はその言葉を、自分も言われたことがあると思った。まだ必要のない情報。透もそう言われていた。少しずつ、と言われていた。


男性が帰り際に「また来ます」と言った。


「いつでも」とアデルが言った。


扉が閉まった。


アデルが透のテーブルに来た。向かいの椅子を引いて、座った。


「あの方、ご存知ですか ?」と透は聞いた。


「ジャーナリストです」とアデルは言った。「エデンズフィールを調べています」


「大丈夫なんですか」


「大丈夫です」とアデルは言った。「調べることは、禁じていません」


透はその答えを、少し考えた。「隠すことがない、ということですか」


「隠していることはあります」とアデルは言った。「でも、調べれば辿り着けることです。辿り着く前に教えても、伝わらないことがある」


透はお茶を飲んだ。「僕も、そう言われています」


「ええ」とアデルは言って、微かに笑った。「あなたも、少しずつです」


---


その夜、透は自室で、スマートフォンを手に持っていた。


メモアプリを開いた。


URLがあった。*edenia-noctis.jp*


開こうとして、やめた。


今夜ではない、という感じがした。しかし以前の、消したくない、という感覚より、もう少し近くなっていた。扉の前に立っている感じ。押せばいつでも開く。しかしまだ押さなくていい。


透は横になった。


眠れた。


夢を見た。


いつもと同じ庭の夢だった。銀髪の人間たちが、庭を歩いていた。透は庭の端に立っていた。入口のそばにいた。以前は入口を外から見ていた気がした。今日は、入口をまたいで、庭の中に少しだけ入っていた。


気づいたら、入っていた。


誰かに招かれたわけではなかった。自然に、足が中に入っていた。


庭の土が、足の裏に感じられた。柔らかかった。温かかった。


---


七月の第二週が終わる頃、透は市役所で変化に気づいた。


休憩室の窓に、自分の顔が映った。


髪が。


黒い髪の、毛先の方に、わずかに銀色がかった部分があった。一本や二本ではなかった。何本かが、確かに銀色になっていた。


透は窓に近づいた。


自分の頭を、角度を変えて見た。光の当たり方によって、銀色が見える部分と見えない部分があった。全体から見れば、まだわずかな割合だった。しかし確かに、あった。


染めていない。先月まで、こうではなかった。


透は少しの間、窓の中の自分を見た。


怖くなかった。


それが、透自身にとって、少し驚きだった。怖いはずだと思っていた。体が変わることは、怖いはずだった。しかし窓の中の自分を見ても、恐怖は来なかった。


ただ、変わっている、と思った。


---


翌朝、透は鏡の前に立った。


洗面台の鏡に、自分の顔が映った。


目を見た。


一重の、細い目。その虹彩に、金色が滲んでいた。かすかだった。光の当たり方によっては、見えないかもしれない。しかし今朝の光の中では、確かに見えた。茶色の中に、金色が混じっていた。


透はしばらく、自分の目を見た。


金色がかった目。


アデルの目は、完全に金色だった。透の目はまだ、途中だった。茶色の中に、金色が入り始めたばかりだった。


透は顔を洗った。


タオルで拭きながら、もう一度鏡を見た。


知らない顔ではなかった。透の顔だった。ただ、少しだけ、変わりかけていた。


---


その日の昼休み、田所さんが透の顔を見て、「最近顔色いいよね」と言った。


「ありがとうございます」と透は言った。


「なんか、目がきれいになった気がする。以前は疲れた目してたから」と田所さんは言って、少し首を傾けた。「コンタクト変えた?」


「変えてないです」と透は言った。


「そう」と田所さんは言って、自分の仕事に戻った。


透は自分のデスクで、書類を見ながら、田所さんの言葉を思い返した。


目がきれいになった。コンタクトを疑われた。つまり、金色がかってきているのは、田所さんにも見えている。しかし田所さんはそれを、目の病気とも、奇妙なこととも受け取らなかった。コンタクト、という普通の解釈をした。


人は、見たいように見る。


透はそのことを、面白いと思った。変わっていても、普通の解釈をされる。それは、変化が緩やかだからかもしれない。一日で変わるのではなく、少しずつ変わっていくから、周囲も少しずつ慣れていく。


---


七月の第三週の火曜日、透はエデンズフィールに行った。


いつものテーブルに座って、お茶を飲んだ。アデルがカウンターにいた。


今日は、話したいことがあった。


「少し聞いてもいいですか」と透は言った。


「どうぞ」とアデルがカウンターから答えた。


「髪が、変わってきました」と透は言った。「目も」


アデルはカウンターを離れて、透の向かいに座った。「気づきましたか」


「気づきました」


「怖かったですか」


「怖くなかった」と透は言った。「それが少し、不思議でした。怖いはずだと思っていたので」


アデルは頷いた。「怖くない理由は、わかりますか」


透は考えた。「体が、自然にそうなっている感じがするからかもしれません。誰かに変えられているわけじゃなくて、自分が変わっている感じ」


「そうです」とアデルは言った。「正確です」


「これは、どこまで変わるんですか」


アデルは少し間を置いた。今日は答えた。「段階によって、異なります。今のあなたは第一段階の途中です。この段階では、まず体の疲れが取れる。精神が安定してくる。外見の変化は、まだ始まりかけたばかりです」


「先は長いんですか」


「急ぐ必要はありません」とアデルは言った。「あなたが進みたい時に、進めばいい」


透はお茶を飲んだ。「第二段階、第三段階と進むと、どうなるんですか」


「それは、もう少し後で話しましょう」


「まだ早いですか」


「今日のあなたには、もう一つ別のことを聞いてほしいです」とアデルは言った。


透は待った。


「あなたは、水無瀬川を毎日見ていますよね」とアデルが言った。


透は少し驚いた。「なぜ知っているんですか」


「川沿いを歩いているあなたを、見かけました」とアデルは言った。「川は、最近どうですか」


「少し、澄んできた気がします」と透は言った。「気のせいかもしれないけど」


「気のせいではありません」とアデルは言った。「少しずつ、戻っています」


「戻っている?」


「この川が本来持っていた澄み方に」


透はその言葉を、夢の中の川と重ねた。底まで透けていた川。魚が泳いでいた川。あれが、この川の本来の姿なのだろうか。


「それは、エデンズフィールと関係していますか」


アデルは少し考えてから、「関係しています」と言った。「ただし、私たちが何かをしているわけではない。ただ、ここにいる。それだけのことです」


透は窓の外を見た。商店街が見えた。遠くに、水無瀬山の稜線が見えた。


「この街を、見ていてください」と前にアデルが言ったことを思い出した。


見ていた。毎日、見ていた。川を見ていた。空を見ていた。商店街を見ていた。


変わっているのは、自分だけではないのかもしれない、と透は思った。


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その週の土曜日、透は市役所に一人で行った。


休日だった。誰もいなかった。


総務課のデスクではなく、別の部署に向かった。環境課だった。


棚に並んだファイルを探した。水無瀬川の水質調査記録。過去十年分のデータがあった。


持ち出さずに、その場で読んだ。


十年前のデータ、五年前のデータ、昨年のデータ、そして今年の最新のデータ。


数字を比較した。


確かに、変わっていた。


BOD値、COD値、透視度。全ての指標が、過去二年で少しずつ改善していた。劇的な変化ではない。しかし確実に、数字が動いていた。


透はその数字を、ノートに書き写した。


環境課の担当者は、この改善の原因を調べているだろうか。工場の排水が減ったわけでもない。特別な浄化設備が設置されたわけでもない。自然に改善しているように見えた。


透はファイルを棚に戻した。


窓から、外を見た。土曜日の昼間の市役所の窓から見える商店街は、いつもより人が多かった。


エデンズフィールの看板が見えた。


透は少しの間、その看板を見た。


---


月曜日の朝、透は市役所に着いて、総務課ではなく、環境課の前に立った。


担当者の名前が表札に書いてあった。木村係長。


透はその表札を見た。


今日、話しかけてみようと思った。水無瀬川の水質改善のデータについて。原因の調査をしているかどうか。もし調査をするなら、自分も関わりたい、と言ってみようと思った。


それが、透にとって初めて、水無瀬に対して自分から何かをしようとする動きだった。


誰かに言われたわけではなかった。


アデルが「川を見ていてください」と言った。川を見た。データを調べた。変化を確かめた。その先に、自然とこの気持ちが出てきた。


透は環境課の扉をノックした。


「失礼します」と言いながら、扉を開けた。


木村係長が顔を上げた。「総務課の鷺沼くん? どうしたの」


「水無瀬川の水質改善のデータを見たんですが」と透は言った。「少し、お話できますか」


木村係長は少し驚いた顔をした。「珍しいね、総務から。いいよ、座って」


透は椅子に座った。


窓の外に、水無瀬山が見えた。七月の山は、緑が濃かった。


透は木村係長に向かって、話し始めた。


---


その日の夕方、川沿いを歩きながら、透はスマートフォンを取り出した。


メモアプリを開いた。


URLを見た。*edenia-noctis.jp*


今日も、開かなかった。


しかし今日は、以前とまた少し違う感覚だった。扉の前に立っている感じは同じだった。しかし扉が、少し薄くなった気がした。向こう側の光が、透けて見えるような。


透はスマートフォンをポケットに入れた。


川を見た。


夕方の光の中で、川底の石が、今日は少しはっきり見えた。


まだ夢の川には遠かった。


しかし確実に、近づいていた。


透は歩き続けた。


上流に向かって。

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