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水無瀬の庭師  作者: ふらう
第二部 芽
8/22

第八章 桐島 二

## 第八章 桐島


---


六月の水無瀬は、桐島が想像していたより静かだった。


東京の六月は騒がしい。梅雨に入ると、駅の傘立てが溢れて、濡れた人間が電車に押し込まれて、街全体が少し不機嫌になる。水無瀬の梅雨は違った。雨が降っても、音が違った。アスファルトを叩く音より、屋根を伝う音の方が大きかった。街が雨を吸い込んでいるような、そういう静けさがあった。


桐島はビジネスホテルの窓から、雨の商店街を見ていた。


チェックインから一週間が経っていた。


当初は三日か四日で帰るつもりだった。村瀬から話を聞いて、エデンズフィールを一度取材して、方向性を見極めてから東京に戻る。そういう段取りだった。しかし一週間、水無瀬にいた。帰る気になれなかった。


正確には、まだ何も掴めていない、という感覚があった。


---


村瀬との二回目の面会は、チェックインから三日後だった。


水無瀬総合病院の小さな会議室。村瀬は前回より疲れた顔をしていた。


「追加で確認したいことがあって」と桐島は言った。「三人の患者に、共通点は他にありますか。エデンズフィールのお茶以外で」


村瀬は少し考えた。「年齢層がばらばらです。七十二歳、五十代、四十代。性別も、女性二人と男性一人。居住地も、市内の別々の場所です」


「エデンズフィールに通い始めた時期は」


「ほぼ同じです。一年から一年半前」


「回復が確認できた時期は」


「三人とも、通い始めてから半年から八ヶ月後です」


桐島はノートに書き込んだ。「その三人に、今も接触できますか」


「難しいです」と村瀬は言った。「患者さんのプライバシーがありますので。ただ、一人だけ、取材に応じても良いと言っている方がいます」


「会えますか」


「明後日なら」


---


二日後、桐島は村瀬の紹介で、膵臓癌が消えた七十二歳の女性、田中ふじ江と会った。


場所は田中の自宅だった。水無瀬の住宅街にある、古い一軒家。庭に、丁寧に手入れされた植物が並んでいた。


田中は小柄な女性だった。白髪で、顔に深い皺があった。しかし目が澄んでいた。桐島を見る目が、年齢より若く見えた。


「どうぞ」と言って、居間に通された。お茶が出た。普通の緑茶だった。


「取材に応じてくださってありがとうございます」と桐島は言った。


「構いませんよ」と田中は言った。「隠すことは何もないから」


「エデンズフィールに通い始めたきっかけを教えてもらえますか」


「商店街で見かけて、入ったんです。一年半くらい前かな。体調が悪くて、何かハーブでも飲もうかと思って」


「その時、すでに癌の診断は出ていましたか」


「ええ。余命三ヶ月と言われていました」


田中はそれを、淡々と言った。怖かったはずの言葉を、もう怖くない言葉として言っていた。


「エデンズフィールのお茶を飲み始めて、何か変化はありましたか」


「最初は、よく眠れるようになりました。それから、疲れなくなった。食欲が出た。三ヶ月くらいで、痛みが減ってきて」


「医療機関への通院は続けていましたか」


「続けていました。先生に不思議がられましたよ。腫瘍マーカーの値が下がってきて、画像を撮ったら小さくなっていて、半年後にはほぼ消えていた」


桐島はノートを見た。「エデンズフィールの成分分析を、担当医から提案されましたよね」


「はい」


「断った理由を教えてもらえますか」


田中は少し間を置いた。「分析しても、わからないと思ったから」


「なぜそう思ったんですか」


「アデルさんが、そう言ったんです」


桐島は手を止めた。「アデルさんが?」


「成分を調べても、数字には出てこないことがある、と。数字で説明できないことを、無理に説明しようとすると、本質を見失う、と」


桐島はその言葉を書き留めた。


「信じたんですか」と桐島は聞いた。


「信じた、というより」と田中は言って、自分の手を見た。「飲んでいる間、体が変わっていくのを感じていたんです。数字より先に、体が知っていた。だから分析は必要ないと思った」


「体の変化というのは、具体的には」


「肌が少し変わりました」と田中は言って、袖を少しまくった。七十二歳の肌にしては、滑らかだった。「髪も」と言って、白髪の中に、銀色がかった部分を示した。「目も、少し色が変わってきたと、鏡で気づきました」


桐島は田中の目を見た。


茶色の中に、金色が滲んでいた。


「怖くなかったですか」と桐島は聞いた。


田中は首を傾けた。「癌で死ぬ怖さより、大きくはなかったですね」と言って、笑った。


---


ホテルに戻って、桐島はノートを開いた。


田中ふじ江の話を、整理した。


癌が消えた。外見が変わり始めている。成分分析を断った。アデルの言葉を信じた。怖くなかった。


記事として書くには、根拠が薄かった。田中の証言は具体的だったが、医学的な証明にはならない。エデンズフィールのお茶が癌を治したと断言するのは、桐島にはできなかった。


しかし何かがある、という確信は、強くなっていた。


桐島はペンを置いて、窓の外を見た。


雨が上がっていた。商店街の濡れたアーケードに、夕方の光が反射していた。


エデンズフィールの看板が見えた。


桐島は立ち上がって、ジャケットを羽織った。


---


エデンズフィールに入ると、アデルがカウンターにいた。


今日は先客がいた。二十代後半くらいの、細い男性が、窓際のテーブルに座って空色のボトルを持っていた。窓の外を見ていた。桐島のことに気づいていないようだった。


アデルが「いらっしゃいませ」と言った。


桐島はカウンターに近づいた。「少し話せますか」


「どうぞ」とアデルは言った。


桐島はカウンターの椅子に座った。田中との面談の話は、今日はしないことにした。別の角度から攻めてみる。


「従業員の生活について、聞かせてもらえますか」


「どのようなことを」


「食費、医療費、住居費。生活にかかるコストが、一般の人間と比べて極端に低いと聞いています」


アデルは否定しなかった。「そうですね」と言った。


「なぜですか」


「必要としないからです」


「食費が必要ないというのは」


「食べるものが、少なくて済む」


「少なくて済む理由は」


アデルは少し間を置いた。「体が変わっているからです」


「どのように変わっているんですか」


「それは」とアデルは言った。「今日お答えできる範囲を超えています」


桐島は苛立ちを感じた。毎回ここで止まる。壁がある。その壁の向こうに、核心がある。しかし壁は動かなかった。


「あなたの足首のリボン」と桐島は言った。「前回、段階を示すものだと言いましたね」


「はい」


「五本ある。五段階あるということですか」


アデルは少し間を置いた。今日は答えた。「そうです」


「各段階で、何が起きるんですか」


「それは、もう少し取材が進んでからお答えします」


「いつになったら、進んだと判断されるんですか」


「あなたが、もう少し知った時です」


「どうすれば知れるんですか」


「見ていれば、わかります」


桐島はノートを閉じた。また壁だった。しかしアデルの態度には、隠蔽の気配がなかった。本当に、今はここまでだ、と思っているように見えた。


「一つだけ」と桐島は言った。「個人的な質問をしていいですか」


「どうぞ」


「あなたは、今、幸せですか」


アデルは少し驚いた顔をした。すぐには答えなかった。


しばらくして、「幸せかどうかという問いを、最近考えなくなりました」と言った。


「なぜですか」


「幸せかどうかを考える必要がなくなったからです。水があれば、水があることを考えない。それと同じかもしれない」


桐島はその言葉を、ノートに書いた。


帰り際、アデルがSサイズのボトルをカウンターに置いた。「良ければ」と言った。


桐島は「取材対象から物をもらうのは」と言いかけて、止まった。百円の飲み物だ。取材倫理の問題にするほどのことではない。


「ありがとうございます」と言って、受け取った。


---


翌日、桐島はエデンズフィールの財務をさらに詳しく調べた。


公開されている決算情報を見ると、人件費の欄の数字が異常に低かった。一店舗あたりの人件費が、同業他社の十分の一以下だった。


従業員が食費も医療費もほぼ使わないなら、給与を低く設定しても生活できる。あるいは、給与の概念が一般企業と違う仕組みになっているのかもしれない。


仕入れ費用も低かった。商品の原材料となるハーブの仕入れ先が、どこにも記載されていなかった。自社栽培、と一言だけあった。


全国三十二店舗が、全部自社栽培のハーブを使っている。栽培場所はどこか。調べたが、出てこなかった。各店舗の裏手に、小さなハーブ園があるという情報は口コミから読み取れた。それだけで足りるのか。


足りるとしたら、なぜ足りるのか。


---


その日の夕方、桐島は商店街を歩いていた。


取材のない時間に、桐島は歩く習慣があった。考えを整理する時、歩くと頭が動いた。


商店街を端から端まで歩いて、折り返した。


折り返した時、後ろから声がかかった。


「あの」


振り返ると、女性が立っていた。四十代くらい。黒い髪、白髪が混じり始めている。肩まである髪が梅雨の湿気で広がっていた。表情が豊かな顔で、今は何か決意したような顔をしていた。


「桐島さん、ですか」と女性は言った。「ジャーナリストの」


桐島は少し驚いた。「そうですが」


「エデンズフィールを取材されていると聞きました」女性は少し間を置いた。「村瀬先生から」


村瀬か、と桐島は思った。「そうです。あなたは」


「日向菜摘といいます」と女性は言った。「夫が、庭師なんです」


---


二人で、川沿いのベンチに移動した。


雨上がりの川沿いは、人が少なかった。水無瀬川が、夕方の光を受けて鈍く光っていた。


菜摘は話し始めた。


夫の誠が、三年前からエデンズフィールに通い始めたこと。一年半前にイニシエーションを受けたこと。肌が変わり、髪が変わり、身長が伸び始めたこと。食事をほとんどしなくなったこと。しかし性格は変わらず、むしろ穏やかになったこと。離婚を求めたが、誠が拒否したこと。娘とともに水無瀬に引っ越してきたこと。


桐島はノートに書きながら、菜摘の話を聞いた。


菜摘の話し方は、感情的だったが、正確だった。事実と感想を混同していなかった。これが怖い、これがわからない、これは認める、という区別が、話の中で見えた。


「洗脳されていると思いますか」と桐島は聞いた。


菜摘は少し間を置いた。「最初はそう思っていました。でも今は、よくわからない。洗脳されているなら、もっとおかしくなるはずでしょう。誠はおかしくなっていない」


「被害を受けたと感じていますか」


「被害、と言えるものが、ないんです」と菜摘は言った。「お金を取られたわけじゃない。脅されたわけじゃない。ただ、夫が変わった。それだけ」


「それだけ、が大きい」


「ええ」と菜摘は言って、川を見た。「とても大きい」


桐島は川を見た。濁った水が流れていた。


「記事を書く気ですか」と菜摘が聞いた。


「まだわかりません。書けるかどうかも、書くべきかどうかも」


「書くなら」と菜摘は言った。「正確に書いてください。誠は被害者じゃない。私も被害者じゃない。ただ、困惑しています。それが正確なところです」


桐島はその言葉を、そのままノートに書いた。


「一つ聞いていいですか」と桐島は言った。「エデンズフィールのお茶を、飲んだことはありますか」


菜摘は少し間を置いた。「昨日、少しだけ」


「どうでしたか」


「温かかった」と菜摘は言った。それ以上は言わなかった。


---


その夜、ホテルに戻った桐島は、机の前に座った。


ノートを開いた。


菜摘の言葉が並んでいた。田中ふじ江の言葉が並んでいた。アデルの言葉が並んでいた。村瀬の証言が並んでいた。


事実を並べた。


説明のつかない回復事例。外見の変化。財務の特異性。生活コストの極小化。成分分析の拒否。布教しない。強制しない。被害者がいない。しかし何かが確実に広がっている。


記事になるか。


ならない、と桐島は思った。


今の状態では書けない。危険な団体として書くには、被害の証拠がない。画期的な発見として書くには、科学的な根拠がない。どちらの記事も、書けなかった。


しかし何かがある。


桐島はペンを置いて、デスクの上のSサイズのボトルを手に取った。


アデルにもらったボトルだ。まだ飲んでいなかった。


キャップを開けた。香りが来た。ミントに似た、しかしもっと深い香り。土の匂いが混じっていた。


少し飲んだ。


温かくて、涼しかった。甘くて、苦かった。


田中が言っていた。体が変わっていくのを感じた、と。数字より先に、体が知っていた、と。


桐島は自分の体を確かめるように、少し間を置いた。


特に何も変わらなかった。ただ、胃が痛くなかった。


---


眠る前に、桐島は元妻の理恵に、メッセージを送ろうとした。


スマートフォンを開いて、理恵の名前を見つけた。最後のメッセージは、二年前だった。用件だけの短いメッセージだった。


桐島は何を書くべきか、わからなかった。


水無瀬という街で、不思議なことが起きている。それを書いても、理恵には関係ない。


スマートフォンを閉じた。


布団に入った。


眠れた。


昨夜より早く眠れた。夢を見た。


理恵の夢ではなかった。


川の夢だった。


桐島は川のそばに立っていた。水が澄んでいた。底まで見えた。こんなに澄んだ川を、桐島は実際には見たことがなかった。しかし夢の中では、当たり前のように澄んでいた。


川沿いに、人がいた。


遠くに、背の高い人物が立っていた。銀髪。夢の中でも、それがわかった。こちらを見ていなかった。川を見ていた。


もう一人、別の人物が川のそばにいた。


小柄な人物だった。川に手を伸ばしていた。水に触れようとしていた。


桐島は近づこうとした。


目が覚めた。


---


午前五時だった。


部屋が薄明るかった。


桐島は天井を見た。


夢の細部が、薄れていった。川だった。澄んだ川だった。それだけが残った。


桐島は起き上がって、ノートを開いた。


新しいページに書いた。


*水無瀬の川は、なぜ澄んでいくのか。*


実際の水無瀬川は、濁っていた。しかし村瀬が言っていた。「最近、水質が少し改善している。理由は不明だ」と。


桐島はさらに書いた。


*誰も強制していない。誰も命令していない。しかし何かが変わっている。川が。山が。人が。*


ペンを置いた。


窓の外が、少しずつ明るくなっていた。


水無瀬の夜明けは、東京より静かだった。鳥の声だけがあった。車の音がなかった。


桐島はしばらく、その静けさの中にいた。


取材を、もう少し続けようと思った。


何を探しているのか、まだわからなかった。しかし、まだここにいる必要がある、という感覚だけはあった。


その感覚を、桐島はジャーナリストの本能と呼ぶことにした。


他に呼び方が、今はなかった。

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