第八章 桐島 二
## 第八章 桐島
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六月の水無瀬は、桐島が想像していたより静かだった。
東京の六月は騒がしい。梅雨に入ると、駅の傘立てが溢れて、濡れた人間が電車に押し込まれて、街全体が少し不機嫌になる。水無瀬の梅雨は違った。雨が降っても、音が違った。アスファルトを叩く音より、屋根を伝う音の方が大きかった。街が雨を吸い込んでいるような、そういう静けさがあった。
桐島はビジネスホテルの窓から、雨の商店街を見ていた。
チェックインから一週間が経っていた。
当初は三日か四日で帰るつもりだった。村瀬から話を聞いて、エデンズフィールを一度取材して、方向性を見極めてから東京に戻る。そういう段取りだった。しかし一週間、水無瀬にいた。帰る気になれなかった。
正確には、まだ何も掴めていない、という感覚があった。
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村瀬との二回目の面会は、チェックインから三日後だった。
水無瀬総合病院の小さな会議室。村瀬は前回より疲れた顔をしていた。
「追加で確認したいことがあって」と桐島は言った。「三人の患者に、共通点は他にありますか。エデンズフィールのお茶以外で」
村瀬は少し考えた。「年齢層がばらばらです。七十二歳、五十代、四十代。性別も、女性二人と男性一人。居住地も、市内の別々の場所です」
「エデンズフィールに通い始めた時期は」
「ほぼ同じです。一年から一年半前」
「回復が確認できた時期は」
「三人とも、通い始めてから半年から八ヶ月後です」
桐島はノートに書き込んだ。「その三人に、今も接触できますか」
「難しいです」と村瀬は言った。「患者さんのプライバシーがありますので。ただ、一人だけ、取材に応じても良いと言っている方がいます」
「会えますか」
「明後日なら」
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二日後、桐島は村瀬の紹介で、膵臓癌が消えた七十二歳の女性、田中ふじ江と会った。
場所は田中の自宅だった。水無瀬の住宅街にある、古い一軒家。庭に、丁寧に手入れされた植物が並んでいた。
田中は小柄な女性だった。白髪で、顔に深い皺があった。しかし目が澄んでいた。桐島を見る目が、年齢より若く見えた。
「どうぞ」と言って、居間に通された。お茶が出た。普通の緑茶だった。
「取材に応じてくださってありがとうございます」と桐島は言った。
「構いませんよ」と田中は言った。「隠すことは何もないから」
「エデンズフィールに通い始めたきっかけを教えてもらえますか」
「商店街で見かけて、入ったんです。一年半くらい前かな。体調が悪くて、何かハーブでも飲もうかと思って」
「その時、すでに癌の診断は出ていましたか」
「ええ。余命三ヶ月と言われていました」
田中はそれを、淡々と言った。怖かったはずの言葉を、もう怖くない言葉として言っていた。
「エデンズフィールのお茶を飲み始めて、何か変化はありましたか」
「最初は、よく眠れるようになりました。それから、疲れなくなった。食欲が出た。三ヶ月くらいで、痛みが減ってきて」
「医療機関への通院は続けていましたか」
「続けていました。先生に不思議がられましたよ。腫瘍マーカーの値が下がってきて、画像を撮ったら小さくなっていて、半年後にはほぼ消えていた」
桐島はノートを見た。「エデンズフィールの成分分析を、担当医から提案されましたよね」
「はい」
「断った理由を教えてもらえますか」
田中は少し間を置いた。「分析しても、わからないと思ったから」
「なぜそう思ったんですか」
「アデルさんが、そう言ったんです」
桐島は手を止めた。「アデルさんが?」
「成分を調べても、数字には出てこないことがある、と。数字で説明できないことを、無理に説明しようとすると、本質を見失う、と」
桐島はその言葉を書き留めた。
「信じたんですか」と桐島は聞いた。
「信じた、というより」と田中は言って、自分の手を見た。「飲んでいる間、体が変わっていくのを感じていたんです。数字より先に、体が知っていた。だから分析は必要ないと思った」
「体の変化というのは、具体的には」
「肌が少し変わりました」と田中は言って、袖を少しまくった。七十二歳の肌にしては、滑らかだった。「髪も」と言って、白髪の中に、銀色がかった部分を示した。「目も、少し色が変わってきたと、鏡で気づきました」
桐島は田中の目を見た。
茶色の中に、金色が滲んでいた。
「怖くなかったですか」と桐島は聞いた。
田中は首を傾けた。「癌で死ぬ怖さより、大きくはなかったですね」と言って、笑った。
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ホテルに戻って、桐島はノートを開いた。
田中ふじ江の話を、整理した。
癌が消えた。外見が変わり始めている。成分分析を断った。アデルの言葉を信じた。怖くなかった。
記事として書くには、根拠が薄かった。田中の証言は具体的だったが、医学的な証明にはならない。エデンズフィールのお茶が癌を治したと断言するのは、桐島にはできなかった。
しかし何かがある、という確信は、強くなっていた。
桐島はペンを置いて、窓の外を見た。
雨が上がっていた。商店街の濡れたアーケードに、夕方の光が反射していた。
エデンズフィールの看板が見えた。
桐島は立ち上がって、ジャケットを羽織った。
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エデンズフィールに入ると、アデルがカウンターにいた。
今日は先客がいた。二十代後半くらいの、細い男性が、窓際のテーブルに座って空色のボトルを持っていた。窓の外を見ていた。桐島のことに気づいていないようだった。
アデルが「いらっしゃいませ」と言った。
桐島はカウンターに近づいた。「少し話せますか」
「どうぞ」とアデルは言った。
桐島はカウンターの椅子に座った。田中との面談の話は、今日はしないことにした。別の角度から攻めてみる。
「従業員の生活について、聞かせてもらえますか」
「どのようなことを」
「食費、医療費、住居費。生活にかかるコストが、一般の人間と比べて極端に低いと聞いています」
アデルは否定しなかった。「そうですね」と言った。
「なぜですか」
「必要としないからです」
「食費が必要ないというのは」
「食べるものが、少なくて済む」
「少なくて済む理由は」
アデルは少し間を置いた。「体が変わっているからです」
「どのように変わっているんですか」
「それは」とアデルは言った。「今日お答えできる範囲を超えています」
桐島は苛立ちを感じた。毎回ここで止まる。壁がある。その壁の向こうに、核心がある。しかし壁は動かなかった。
「あなたの足首のリボン」と桐島は言った。「前回、段階を示すものだと言いましたね」
「はい」
「五本ある。五段階あるということですか」
アデルは少し間を置いた。今日は答えた。「そうです」
「各段階で、何が起きるんですか」
「それは、もう少し取材が進んでからお答えします」
「いつになったら、進んだと判断されるんですか」
「あなたが、もう少し知った時です」
「どうすれば知れるんですか」
「見ていれば、わかります」
桐島はノートを閉じた。また壁だった。しかしアデルの態度には、隠蔽の気配がなかった。本当に、今はここまでだ、と思っているように見えた。
「一つだけ」と桐島は言った。「個人的な質問をしていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、今、幸せですか」
アデルは少し驚いた顔をした。すぐには答えなかった。
しばらくして、「幸せかどうかという問いを、最近考えなくなりました」と言った。
「なぜですか」
「幸せかどうかを考える必要がなくなったからです。水があれば、水があることを考えない。それと同じかもしれない」
桐島はその言葉を、ノートに書いた。
帰り際、アデルがSサイズのボトルをカウンターに置いた。「良ければ」と言った。
桐島は「取材対象から物をもらうのは」と言いかけて、止まった。百円の飲み物だ。取材倫理の問題にするほどのことではない。
「ありがとうございます」と言って、受け取った。
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翌日、桐島はエデンズフィールの財務をさらに詳しく調べた。
公開されている決算情報を見ると、人件費の欄の数字が異常に低かった。一店舗あたりの人件費が、同業他社の十分の一以下だった。
従業員が食費も医療費もほぼ使わないなら、給与を低く設定しても生活できる。あるいは、給与の概念が一般企業と違う仕組みになっているのかもしれない。
仕入れ費用も低かった。商品の原材料となるハーブの仕入れ先が、どこにも記載されていなかった。自社栽培、と一言だけあった。
全国三十二店舗が、全部自社栽培のハーブを使っている。栽培場所はどこか。調べたが、出てこなかった。各店舗の裏手に、小さなハーブ園があるという情報は口コミから読み取れた。それだけで足りるのか。
足りるとしたら、なぜ足りるのか。
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その日の夕方、桐島は商店街を歩いていた。
取材のない時間に、桐島は歩く習慣があった。考えを整理する時、歩くと頭が動いた。
商店街を端から端まで歩いて、折り返した。
折り返した時、後ろから声がかかった。
「あの」
振り返ると、女性が立っていた。四十代くらい。黒い髪、白髪が混じり始めている。肩まである髪が梅雨の湿気で広がっていた。表情が豊かな顔で、今は何か決意したような顔をしていた。
「桐島さん、ですか」と女性は言った。「ジャーナリストの」
桐島は少し驚いた。「そうですが」
「エデンズフィールを取材されていると聞きました」女性は少し間を置いた。「村瀬先生から」
村瀬か、と桐島は思った。「そうです。あなたは」
「日向菜摘といいます」と女性は言った。「夫が、庭師なんです」
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二人で、川沿いのベンチに移動した。
雨上がりの川沿いは、人が少なかった。水無瀬川が、夕方の光を受けて鈍く光っていた。
菜摘は話し始めた。
夫の誠が、三年前からエデンズフィールに通い始めたこと。一年半前にイニシエーションを受けたこと。肌が変わり、髪が変わり、身長が伸び始めたこと。食事をほとんどしなくなったこと。しかし性格は変わらず、むしろ穏やかになったこと。離婚を求めたが、誠が拒否したこと。娘とともに水無瀬に引っ越してきたこと。
桐島はノートに書きながら、菜摘の話を聞いた。
菜摘の話し方は、感情的だったが、正確だった。事実と感想を混同していなかった。これが怖い、これがわからない、これは認める、という区別が、話の中で見えた。
「洗脳されていると思いますか」と桐島は聞いた。
菜摘は少し間を置いた。「最初はそう思っていました。でも今は、よくわからない。洗脳されているなら、もっとおかしくなるはずでしょう。誠はおかしくなっていない」
「被害を受けたと感じていますか」
「被害、と言えるものが、ないんです」と菜摘は言った。「お金を取られたわけじゃない。脅されたわけじゃない。ただ、夫が変わった。それだけ」
「それだけ、が大きい」
「ええ」と菜摘は言って、川を見た。「とても大きい」
桐島は川を見た。濁った水が流れていた。
「記事を書く気ですか」と菜摘が聞いた。
「まだわかりません。書けるかどうかも、書くべきかどうかも」
「書くなら」と菜摘は言った。「正確に書いてください。誠は被害者じゃない。私も被害者じゃない。ただ、困惑しています。それが正確なところです」
桐島はその言葉を、そのままノートに書いた。
「一つ聞いていいですか」と桐島は言った。「エデンズフィールのお茶を、飲んだことはありますか」
菜摘は少し間を置いた。「昨日、少しだけ」
「どうでしたか」
「温かかった」と菜摘は言った。それ以上は言わなかった。
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その夜、ホテルに戻った桐島は、机の前に座った。
ノートを開いた。
菜摘の言葉が並んでいた。田中ふじ江の言葉が並んでいた。アデルの言葉が並んでいた。村瀬の証言が並んでいた。
事実を並べた。
説明のつかない回復事例。外見の変化。財務の特異性。生活コストの極小化。成分分析の拒否。布教しない。強制しない。被害者がいない。しかし何かが確実に広がっている。
記事になるか。
ならない、と桐島は思った。
今の状態では書けない。危険な団体として書くには、被害の証拠がない。画期的な発見として書くには、科学的な根拠がない。どちらの記事も、書けなかった。
しかし何かがある。
桐島はペンを置いて、デスクの上のSサイズのボトルを手に取った。
アデルにもらったボトルだ。まだ飲んでいなかった。
キャップを開けた。香りが来た。ミントに似た、しかしもっと深い香り。土の匂いが混じっていた。
少し飲んだ。
温かくて、涼しかった。甘くて、苦かった。
田中が言っていた。体が変わっていくのを感じた、と。数字より先に、体が知っていた、と。
桐島は自分の体を確かめるように、少し間を置いた。
特に何も変わらなかった。ただ、胃が痛くなかった。
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眠る前に、桐島は元妻の理恵に、メッセージを送ろうとした。
スマートフォンを開いて、理恵の名前を見つけた。最後のメッセージは、二年前だった。用件だけの短いメッセージだった。
桐島は何を書くべきか、わからなかった。
水無瀬という街で、不思議なことが起きている。それを書いても、理恵には関係ない。
スマートフォンを閉じた。
布団に入った。
眠れた。
昨夜より早く眠れた。夢を見た。
理恵の夢ではなかった。
川の夢だった。
桐島は川のそばに立っていた。水が澄んでいた。底まで見えた。こんなに澄んだ川を、桐島は実際には見たことがなかった。しかし夢の中では、当たり前のように澄んでいた。
川沿いに、人がいた。
遠くに、背の高い人物が立っていた。銀髪。夢の中でも、それがわかった。こちらを見ていなかった。川を見ていた。
もう一人、別の人物が川のそばにいた。
小柄な人物だった。川に手を伸ばしていた。水に触れようとしていた。
桐島は近づこうとした。
目が覚めた。
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午前五時だった。
部屋が薄明るかった。
桐島は天井を見た。
夢の細部が、薄れていった。川だった。澄んだ川だった。それだけが残った。
桐島は起き上がって、ノートを開いた。
新しいページに書いた。
*水無瀬の川は、なぜ澄んでいくのか。*
実際の水無瀬川は、濁っていた。しかし村瀬が言っていた。「最近、水質が少し改善している。理由は不明だ」と。
桐島はさらに書いた。
*誰も強制していない。誰も命令していない。しかし何かが変わっている。川が。山が。人が。*
ペンを置いた。
窓の外が、少しずつ明るくなっていた。
水無瀬の夜明けは、東京より静かだった。鳥の声だけがあった。車の音がなかった。
桐島はしばらく、その静けさの中にいた。
取材を、もう少し続けようと思った。
何を探しているのか、まだわからなかった。しかし、まだここにいる必要がある、という感覚だけはあった。
その感覚を、桐島はジャーナリストの本能と呼ぶことにした。
他に呼び方が、今はなかった。




