第七章 菜摘 二
## 第七章 菜摘
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六月の水無瀬は、湿っていた。
大阪の梅雨も蒸し暑かったが、水無瀬の湿気は種類が違った。山から下りてくる湿気は、重く、土の匂いがした。朝起きると、窓ガラスが内側から曇っていた。洗濯物が乾かなかった。髪が広がった。
菜摘は毎朝、窓を拭いてから一日を始めた。
それが水無瀬での習慣になった。窓を拭いて、お湯を沸かして、ひかりを起こして、朝食を作る。ひかりが学校に行って、誠が来れば見送って、来なければ一人で片付けをする。それから、仕事を探すか、買い物に行くか、マンションの中で段ボールの残りを片付けるか。
やることはある。しかし何かに向かっている感じがしなかった。
流されている、という感じがした。水の中に立っていて、流れに逆らうほどの力もなく、かといって流れに乗り切れてもいない。ただ、そこに立っている。
それが、水無瀬に来てからの菜摘の感覚だった。
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ひかりが新しい学校に行き始めたのは、六月の第二週からだった。
最初の一週間、ひかりは何も言わなかった。学校から帰ってくると、ただいまと言って、自分の部屋に入った。夕飯を食べて、お風呂に入って、眠った。菜摘が「どうだった」と聞くと、「普通」と答えた。
菜摘は「普通」という言葉の中身を、測りかねていた。
ひかりは大阪でも、そう多くの友人がいるタイプではなかった。少数の親しい友人と深く付き合う子だった。その子たちと別れて、知らない街の知らない学校に来た。普通のわけがない。しかし普通、と言う。
深く聞くべきか、聞かざるべきか。
菜摘はいつも、その判断で迷った。
ひかりを信じる、ということと、ひかりを心配する、ということが、菜摘の中でいつも綱引きをしていた。
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誠は週に三回、水無瀬の中学校で教えていた。
残りの日は、エデンズフィールに行くか、水無瀬山を歩くか、川沿いを歩くかしていた。菜摘のマンションに来る日もあった。来る時は、夕飯前に来て、ひかりと話して、夕飯を一緒に食べることもあった。食べないこともあった。
食べない日が、増えていた。
「食べてきた」と誠は言う。ハーブを少し、それで充分、と言う。菜摘は何も言わなかった。言っても変わらないことは、もうわかっていた。
ある夕方、誠が来た時、菜摘は台所で夕飯を作っていた。鶏の煮物だった。誠の好物だった。誠が好きだと言ったのを覚えていて、作った。
誠は台所の入口に立って、鍋を見て、「美味しそうだ」と言った。
「食べる?」と菜摘は聞いた。
「今日はいい」と誠は言った。「ひかりと菜摘が食べて」
菜摘は鍋をかき混ぜながら、何も言わなかった。
誠の好物を作った。誠は食べない。それだけのことだ。怒るようなことではない。しかし菜摘の手が、鍋を混ぜながら、少し力んでいた。
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パートの仕事が決まったのは、六月の第二週の終わりだった。
旧中央商店街から少し外れたスーパーのレジ打ちだった。週四日、午前九時から午後二時まで。ひかりが学校から帰る前に終わる時間帯を選んだ。時給は高くなかったが、今は金額より、家の外に出ることが必要だと思っていた。
初日、レジに立つと、店長が隣で教えてくれた。バーコードの読み取り方、袋の渡し方、お釣りの計算。大阪のデザイン事務所でやっていた仕事とは、全く違う種類の作業だった。
しかし菜摘は、それが少し楽だと感じた。
考えなくていい。手を動かせばいい。客が来て、商品を読み取って、金額を告げて、お釣りを渡す。それだけだ。その間は、誠のことを考えなくていい。エデンズフィールのことを考えなくていい。水無瀬に来た理由を考えなくていい。
ただ、手を動かせばいい。
午後二時に上がって、商店街を通って帰る。その時間が、菜摘には少し好きになっていた。
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商店街の人間と話すようになったのは、仕事を始めてからだった。
スーパーのパートの同僚に、五十代の女性がいた。森田さんといって、水無瀬生まれの水無瀬育ちだった。よく喋る人で、休憩時間に色々と話しかけてきた。
「引っ越してこられたんですか。どちらから」
「大阪から」
「まあ、遠いところから。ご主人のお仕事で?」
「ええ」
「お子さんは」
「中学一年生です」
「それは大変でしたね、転校は。でも水無瀬の子はいい子が多いですよ。すぐ慣れますって」
森田さんは悪い人ではなかった。むしろ親切だった。しかし菜摘は、どこまで話していいのかわからなかった。夫が変わっている、という話は、できなかった。
ある休憩時間、森田さんが商店街の話をしていた。どの店が最近元気がないとか、どの店に新しいものが入ったとか、そういう話の流れで、エデンズフィールの名前が出た。
「あそこのお茶、飲んだことあります?」と森田さんが聞いた。
菜摘は少し間を置いた。「まだ入ったことはないです」
「美味しいんですよ。体に良いって評判で。うちの旦那が膝を悪くしていてね、飲み始めたら楽になったって言うんです。まあ、気のせいかもしれないけど」と森田さんは笑った。「最近できた店じゃなくて、前からあるんですよ。でも最近また話題になって」
「どんな人が働いてるんですか」と菜摘は聞いた。何気ない口調を作って聞いた。
「外国の方ですよ。背がものすごく高くて、黒い肌の。でも感じが良い方で。うちの娘が一度行ったって言って、怖かったけど話したら全然普通だった、って」
菜摘は「そうですか」と言った。
森田さんは「行ってみたらどうですか。体に良いって言うし」と言った。
菜摘は「そうですね」と言った。
その言葉は、答えではなかった。ただの相槌だった。しかし菜摘の中で、何かが少し動いた気がした。
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六月の第三週の月曜日、ひかりが学校から帰ってきた。
「友達できた」と言った。
菜摘は台所から顔を出した。「本当に?」
「うん。同じクラスの子」
「どんな子」とひかりに聞いた。
「真面目な子。でも面白い」とひかりは言った。「お父さんと同じで」
菜摘は手が止まった。「お父さんと同じ?」
「うん。その子のお父さんも、庭師なんだって」
菜摘はしばらく、何も言えなかった。
水無瀬に来たということは、水無瀬にも庭師がいるということだ。頭ではわかっていた。エデンズフィールの支店がある。ならば庭師もいる。
しかしひかりの友達の父親が庭師だ、という事実は、菜摘には想定外だった。
「その子、なんて名前」
「美月ちゃん。松本美月」
「その子のお父さんは、どんな感じなの」と菜摘は聞いた。努めて普通に聞こうとした。
「会ったことないけど」とひかりは言った。「美月ちゃんが言うには、やさしいって。背がすごく高くなったって言ってた。髪が白くなってきてるって」
誠と同じだ、と菜摘は思った。
「美月ちゃんは、嫌がってない?」
ひかりは少し考えた。「嫌がってる感じはなかった。ちょっと心配してるって言ってたけど、普通のお父さんだって」
普通のお父さん。
ひかりも、誠のことを「パパだよね」と言っていた。普通、という言葉を、この子たちは使う。
菜摘には、それが普通に聞こえなかった。しかし、普通に聞こえている子がいる。
「良かったね、友達できて」と菜摘は言った。
「うん」とひかりは言って、自分の部屋に入った。
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その夜、誠が来た。
夕飯を一緒に食べた。今日は誠も食べた。菜摘が作った肉じゃがを、少しだけ食べた。「美味しい」と誠は言った。
「ひかり、友達できたって」と菜摘は言った。
「聞いた」と誠は言った。「さっきひかりから」
「その子のお父さんも庭師なんだって」
「松本さんだね」と誠は言った。「知ってる。良い人だ」
菜摘は箸を置いた。「水無瀬に、庭師が何人いるの」
「十人くらいかな。まだ少ない。これから増えると思うけど」
十人。
水無瀬市の人口は十二万人だ。十二万人の中に、十人。多くはない。しかし確実にいる。
「その人たちは、みんなエデンズフィールに関係しているの」
「そうだよ」と誠は言った。「アデルさんのところで集まることもある」
「集会があるの」
「そういう堅いものじゃない。話したり、お茶を飲んだり」
菜摘は誠の左手首を見た。四本のリボン。黒、青、緑、赤。
「ねえ」と菜摘は言った。「その、リボンの次の段階って、何があるの」
誠は少し間を置いた。「五段階目は、再誕、と呼ばれている」
「再誕」
「体が、完全に変わる。今より変化が進む。肌の色も、髪も、目も、身長も」
菜摘はアデルを思い出した。商店街で目が合った、あの庭師。身長二メートル。黒い肌。銀髪。金の目。
「誠も、そうなるの」
「そうなる」と誠は言った。穏やかに、しかし明確に。
菜摘はしばらく、誠の顔を見た。
誠の顔立ちは変わっていなかった。眼鏡は同じだった。眉の形も、口元も、同じだった。肌が黒みを帯びて、髪が銀色になりつつあっても、顔はまだ誠だった。
あの庭師のように変わっても、顔は誠のままなのだろうか。
「わかった」と菜摘は言った。
わかった、は嘘だった。わかっていなかった。しかし今夜、これ以上聞く言葉が見つからなかった。
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誠が帰った後、ひかりも自分の部屋に入った。
菜摘は一人でリビングに座った。
テレビをつけた。画面の中で、誰かが笑っていた。バラエティ番組だった。菜摘には、何が面白いのかわからなかった。音だけが、部屋に流れていた。
テーブルの棚の奥に、空色のボトルがあった。
誠が持ってきた、エデンズフィールのSサイズのボトル。飲まずに棚の奥に入れた、あのボトル。菜摘はそれを取り出して、テーブルに置いた。
見た。
液体は澄んでいた。空色より少し深い青。揺らすと、光を通した。
飲んだら、どうなる。
おかしくなる。誠みたいになる。それが怖かった。しかし誠はおかしくなっていない。誠はずっと誠だ。ならば、飲んでも、おかしくなるとは限らない。
しかし怖かった。
何が怖いのか、正確には言えなかった。体が変わることが怖いのか。変わることを良いと思ってしまうことが怖いのか。変わった先に、今まで大切にしてきたものが見えなくなることが怖いのか。
菜摘はボトルを手に取った。
キャップを少し回した。香りが来た。
ミントに似た、しかしもっと深い香り。土の匂いが混じった、夜の草原のような。
菜摘は、キャップを元に戻した。
まだ、ではない。
なぜまだではないのか、自分でも説明できなかった。ただ、まだではない、という感じがした。
ボトルをテーブルの上に置いたまま、菜摘はテレビを消した。
静かになった。
外で、雨が降り始めた音がした。六月の夜の雨。屋根を叩く音が、規則正しく続いた。
菜摘はその音を聞きながら、目を閉じた。
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翌朝、菜摘はスーパーに向かう前に、旧中央商店街を通った。
仕事場への近道が商店街を通る道で、菜摘は毎朝そこを歩いていた。シャッターの多い通り。老人が数人。宅配のバイク。それが毎朝の景色だった。
エデンズフィールの前を通った。
今日は、入口のそばに小さな黒板が出ていた。チョークで書かれた字があった。
*本日のハーブ:オルトロス 夜明け前に摘んだ葉 限定数*
菜摘は立ち止まった。
黒板を見た。字は丁寧だった。日本語とフランス語が、両方書いてあった。
扉のガラスから、中を見た。アデルがカウンターにいた。今日は何かを書いていた。下を向いていた。
菜摘はアデルを、ガラス越しにしばらく見た。
恐ろしい存在ではない、と菜摘は思った。恐ろしくはない。ただ、理解できない。あの人は誠の先にいる存在だ。誠が五段階目を終えたら、あの姿になる。
それを、菜摘はまだ受け入れられていなかった。
菜摘は視線を外して、歩き始めた。
仕事に遅れる。
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昼休み、森田さんと一緒にスーパーの休憩室でお弁当を食べていた。
森田さんが「そういえば」と言った。
「何ですか」
「日向さんのご主人って、中学校の先生でしょ」
「そうです」
「うちの孫が、その学校の生徒でね。日向先生、好評なんですって。教え方が丁寧で、怒らないって」
菜摘は「そうですか」と言った。
「なんか最近、見た目が変わったって孫が言ってたけど」と森田さんは続けた。「髪が白くなってきたって。まだ若いのに」
菜摘は箸を止めた。「ええ」
「病気じゃないですよね」と森田さんが少し心配そうに言った。
「病気じゃないです」と菜摘は言った。「体は元気です」
「それならいいけど。でも変わってますよね、あの方。なんか、以前より雰囲気が穏やかになったって。生徒たちが言ってるらしくて」
穏やかになった。
誠はそうだった。以前より穏やかだった。怒らなくなった。焦らなくなった。疲れた顔をしなくなった。
それは良いことのはずだった。
しかし菜摘は、その良いことを、素直に喜べなかった。
「そうですね」と菜摘は言って、お弁当の続きを食べた。
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その日の帰り道、商店街を歩いていると、エデンズフィールの前に人が立っていた。
透だった。
菜摘は透のことを知らなかった。ただ、二十代後半くらいの、細い男性が、エデンズフィールの扉を押して入っていくのが見えた。
何気なく見ていただけだったが、菜摘は立ち止まった。
普通の人に見えた。背が高くもなく、肌が黒くもなく、髪も黒かった。ただの若い男性が、当たり前のように扉を開けて、入っていった。
当たり前のように、入っていった。
菜摘はその扉を見た。
中に入ることが、この人にとっては当たり前だった。それが菜摘には、不思議だった。怖くないのだろうか。変になったりしないと、思っているのだろうか。
あるいは、怖いとか変になるとか、そういう心配を、そもそもしていないのかもしれない。
菜摘は歩き出した。
家に帰って、ひかりのおやつを出して、夕飯の支度を始めた。
冷蔵庫を開けて、材料を並べた。今日は何にしようか、と考えながら、テーブルの上の空色のボトルが目に入った。
昨日から、テーブルの上に置いたままだった。
菜摘はボトルを手に取った。
誠が「飲んでみて、とは言わない。ただ、もし気が向いたら」と言って置いていったもの。
気が向いたら。
菜摘の気は、向いているのか、向いていないのか、自分でもわからなかった。
ただ、捨てる気にもなれなかった。
菜摘はボトルをテーブルの端に置いて、夕飯の支度を続けた。
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夜、ひかりが風呂から出てきた。
髪を乾かしながら、リビングに来た。菜摘がお茶を飲んでいると、ひかりが向かいに座った。
「美月ちゃんと話してたんだけど」とひかりが言った。
「うん」
「美月ちゃんが、お父さんのこと、ちゃんと聞いたんだって。なんで外見が変わってるのかって」
「なんて言ってた?」とひかりは聞かれるかもしれない、と思って菜摘は先に聞いた。
「正直に話してくれたって。庭師のことを。エデンズフィールのことを」
菜摘は「そう」と言った。
「美月ちゃんは、最初びっくりしたって。でも、お父さんがお父さんだから、まあいいかって思ったって」
まあいいか。
十三歳の子の言葉だった。単純だった。しかしその単純さには、菜摘が持っていない何かがあった。
「ひかりは?」と菜摘は聞いた。「お父さんのこと、どう思ってる」
ひかりは少し考えた。タオルで髪を拭きながら考えた。
「パパはパパだよ」とひかりは言った。「見た目が変わっても、パパだもん」
パパはパパ。
菜摘はその言葉を、胸の中に置いた。
「そうね」と菜摘は言った。
「お母さんは?」とひかりが聞いた。
菜摘は少し黙った。「まだ、わからない」と正直に言った。
ひかりは「そっか」と言って、立ち上がった。「おやすみ」と言って、自分の部屋に戻った。
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菜摘は一人になって、テーブルの上の空色のボトルを見た。
まだ、わからない。
わからなくていいのかもしれない。今すぐ答えを出さなくていいのかもしれない。
菜摘はボトルを手に取った。
キャップを回した。
香りが来た。
少しだけ、飲んだ。
喉を通った。温かかった。涼しかった。甘くて、苦かった。
何かがおかしくなる感じはしなかった。ただ、温かかった。
菜摘はキャップを閉めて、ボトルをテーブルに戻した。
窓の外で、雨が上がっていた。
水無瀬山のシルエットが、夜空に浮かんでいた。
菜摘はしばらく、その山を見た。
まだ、わからない。
しかし少しだけ、立っている場所が変わった気がした。流されながら立っているのは同じだったが、足の裏に、わずかに地面の感触があった。
それだけだった。
それだけで、今夜は十分だと思った。




