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水無瀬の庭師  作者: ふらう
第二部 芽
7/22

第七章 菜摘 二

## 第七章 菜摘


---


六月の水無瀬は、湿っていた。


大阪の梅雨も蒸し暑かったが、水無瀬の湿気は種類が違った。山から下りてくる湿気は、重く、土の匂いがした。朝起きると、窓ガラスが内側から曇っていた。洗濯物が乾かなかった。髪が広がった。


菜摘は毎朝、窓を拭いてから一日を始めた。


それが水無瀬での習慣になった。窓を拭いて、お湯を沸かして、ひかりを起こして、朝食を作る。ひかりが学校に行って、誠が来れば見送って、来なければ一人で片付けをする。それから、仕事を探すか、買い物に行くか、マンションの中で段ボールの残りを片付けるか。


やることはある。しかし何かに向かっている感じがしなかった。


流されている、という感じがした。水の中に立っていて、流れに逆らうほどの力もなく、かといって流れに乗り切れてもいない。ただ、そこに立っている。


それが、水無瀬に来てからの菜摘の感覚だった。


---


ひかりが新しい学校に行き始めたのは、六月の第二週からだった。


最初の一週間、ひかりは何も言わなかった。学校から帰ってくると、ただいまと言って、自分の部屋に入った。夕飯を食べて、お風呂に入って、眠った。菜摘が「どうだった」と聞くと、「普通」と答えた。


菜摘は「普通」という言葉の中身を、測りかねていた。


ひかりは大阪でも、そう多くの友人がいるタイプではなかった。少数の親しい友人と深く付き合う子だった。その子たちと別れて、知らない街の知らない学校に来た。普通のわけがない。しかし普通、と言う。


深く聞くべきか、聞かざるべきか。


菜摘はいつも、その判断で迷った。


ひかりを信じる、ということと、ひかりを心配する、ということが、菜摘の中でいつも綱引きをしていた。


---


誠は週に三回、水無瀬の中学校で教えていた。


残りの日は、エデンズフィールに行くか、水無瀬山を歩くか、川沿いを歩くかしていた。菜摘のマンションに来る日もあった。来る時は、夕飯前に来て、ひかりと話して、夕飯を一緒に食べることもあった。食べないこともあった。


食べない日が、増えていた。


「食べてきた」と誠は言う。ハーブを少し、それで充分、と言う。菜摘は何も言わなかった。言っても変わらないことは、もうわかっていた。


ある夕方、誠が来た時、菜摘は台所で夕飯を作っていた。鶏の煮物だった。誠の好物だった。誠が好きだと言ったのを覚えていて、作った。


誠は台所の入口に立って、鍋を見て、「美味しそうだ」と言った。


「食べる?」と菜摘は聞いた。


「今日はいい」と誠は言った。「ひかりと菜摘が食べて」


菜摘は鍋をかき混ぜながら、何も言わなかった。


誠の好物を作った。誠は食べない。それだけのことだ。怒るようなことではない。しかし菜摘の手が、鍋を混ぜながら、少し力んでいた。


---


パートの仕事が決まったのは、六月の第二週の終わりだった。


旧中央商店街から少し外れたスーパーのレジ打ちだった。週四日、午前九時から午後二時まで。ひかりが学校から帰る前に終わる時間帯を選んだ。時給は高くなかったが、今は金額より、家の外に出ることが必要だと思っていた。


初日、レジに立つと、店長が隣で教えてくれた。バーコードの読み取り方、袋の渡し方、お釣りの計算。大阪のデザイン事務所でやっていた仕事とは、全く違う種類の作業だった。


しかし菜摘は、それが少し楽だと感じた。


考えなくていい。手を動かせばいい。客が来て、商品を読み取って、金額を告げて、お釣りを渡す。それだけだ。その間は、誠のことを考えなくていい。エデンズフィールのことを考えなくていい。水無瀬に来た理由を考えなくていい。


ただ、手を動かせばいい。


午後二時に上がって、商店街を通って帰る。その時間が、菜摘には少し好きになっていた。


---


商店街の人間と話すようになったのは、仕事を始めてからだった。


スーパーのパートの同僚に、五十代の女性がいた。森田さんといって、水無瀬生まれの水無瀬育ちだった。よく喋る人で、休憩時間に色々と話しかけてきた。


「引っ越してこられたんですか。どちらから」


「大阪から」


「まあ、遠いところから。ご主人のお仕事で?」


「ええ」


「お子さんは」


「中学一年生です」


「それは大変でしたね、転校は。でも水無瀬の子はいい子が多いですよ。すぐ慣れますって」


森田さんは悪い人ではなかった。むしろ親切だった。しかし菜摘は、どこまで話していいのかわからなかった。夫が変わっている、という話は、できなかった。


ある休憩時間、森田さんが商店街の話をしていた。どの店が最近元気がないとか、どの店に新しいものが入ったとか、そういう話の流れで、エデンズフィールの名前が出た。


「あそこのお茶、飲んだことあります?」と森田さんが聞いた。


菜摘は少し間を置いた。「まだ入ったことはないです」


「美味しいんですよ。体に良いって評判で。うちの旦那が膝を悪くしていてね、飲み始めたら楽になったって言うんです。まあ、気のせいかもしれないけど」と森田さんは笑った。「最近できた店じゃなくて、前からあるんですよ。でも最近また話題になって」


「どんな人が働いてるんですか」と菜摘は聞いた。何気ない口調を作って聞いた。


「外国の方ですよ。背がものすごく高くて、黒い肌の。でも感じが良い方で。うちの娘が一度行ったって言って、怖かったけど話したら全然普通だった、って」


菜摘は「そうですか」と言った。


森田さんは「行ってみたらどうですか。体に良いって言うし」と言った。


菜摘は「そうですね」と言った。


その言葉は、答えではなかった。ただの相槌だった。しかし菜摘の中で、何かが少し動いた気がした。


---


六月の第三週の月曜日、ひかりが学校から帰ってきた。


「友達できた」と言った。


菜摘は台所から顔を出した。「本当に?」


「うん。同じクラスの子」


「どんな子」とひかりに聞いた。


「真面目な子。でも面白い」とひかりは言った。「お父さんと同じで」


菜摘は手が止まった。「お父さんと同じ?」


「うん。その子のお父さんも、庭師なんだって」


菜摘はしばらく、何も言えなかった。


水無瀬に来たということは、水無瀬にも庭師がいるということだ。頭ではわかっていた。エデンズフィールの支店がある。ならば庭師もいる。


しかしひかりの友達の父親が庭師だ、という事実は、菜摘には想定外だった。


「その子、なんて名前」


「美月ちゃん。松本美月」


「その子のお父さんは、どんな感じなの」と菜摘は聞いた。努めて普通に聞こうとした。


「会ったことないけど」とひかりは言った。「美月ちゃんが言うには、やさしいって。背がすごく高くなったって言ってた。髪が白くなってきてるって」


誠と同じだ、と菜摘は思った。


「美月ちゃんは、嫌がってない?」


ひかりは少し考えた。「嫌がってる感じはなかった。ちょっと心配してるって言ってたけど、普通のお父さんだって」


普通のお父さん。


ひかりも、誠のことを「パパだよね」と言っていた。普通、という言葉を、この子たちは使う。


菜摘には、それが普通に聞こえなかった。しかし、普通に聞こえている子がいる。


「良かったね、友達できて」と菜摘は言った。


「うん」とひかりは言って、自分の部屋に入った。


---


その夜、誠が来た。


夕飯を一緒に食べた。今日は誠も食べた。菜摘が作った肉じゃがを、少しだけ食べた。「美味しい」と誠は言った。


「ひかり、友達できたって」と菜摘は言った。


「聞いた」と誠は言った。「さっきひかりから」


「その子のお父さんも庭師なんだって」


「松本さんだね」と誠は言った。「知ってる。良い人だ」


菜摘は箸を置いた。「水無瀬に、庭師が何人いるの」


「十人くらいかな。まだ少ない。これから増えると思うけど」


十人。


水無瀬市の人口は十二万人だ。十二万人の中に、十人。多くはない。しかし確実にいる。


「その人たちは、みんなエデンズフィールに関係しているの」


「そうだよ」と誠は言った。「アデルさんのところで集まることもある」


「集会があるの」


「そういう堅いものじゃない。話したり、お茶を飲んだり」


菜摘は誠の左手首を見た。四本のリボン。黒、青、緑、赤。


「ねえ」と菜摘は言った。「その、リボンの次の段階って、何があるの」


誠は少し間を置いた。「五段階目は、再誕、と呼ばれている」


「再誕」


「体が、完全に変わる。今より変化が進む。肌の色も、髪も、目も、身長も」


菜摘はアデルを思い出した。商店街で目が合った、あの庭師。身長二メートル。黒い肌。銀髪。金の目。


「誠も、そうなるの」


「そうなる」と誠は言った。穏やかに、しかし明確に。


菜摘はしばらく、誠の顔を見た。


誠の顔立ちは変わっていなかった。眼鏡は同じだった。眉の形も、口元も、同じだった。肌が黒みを帯びて、髪が銀色になりつつあっても、顔はまだ誠だった。


あの庭師のように変わっても、顔は誠のままなのだろうか。


「わかった」と菜摘は言った。


わかった、は嘘だった。わかっていなかった。しかし今夜、これ以上聞く言葉が見つからなかった。


---


誠が帰った後、ひかりも自分の部屋に入った。


菜摘は一人でリビングに座った。


テレビをつけた。画面の中で、誰かが笑っていた。バラエティ番組だった。菜摘には、何が面白いのかわからなかった。音だけが、部屋に流れていた。


テーブルの棚の奥に、空色のボトルがあった。


誠が持ってきた、エデンズフィールのSサイズのボトル。飲まずに棚の奥に入れた、あのボトル。菜摘はそれを取り出して、テーブルに置いた。


見た。


液体は澄んでいた。空色より少し深い青。揺らすと、光を通した。


飲んだら、どうなる。


おかしくなる。誠みたいになる。それが怖かった。しかし誠はおかしくなっていない。誠はずっと誠だ。ならば、飲んでも、おかしくなるとは限らない。


しかし怖かった。


何が怖いのか、正確には言えなかった。体が変わることが怖いのか。変わることを良いと思ってしまうことが怖いのか。変わった先に、今まで大切にしてきたものが見えなくなることが怖いのか。


菜摘はボトルを手に取った。


キャップを少し回した。香りが来た。


ミントに似た、しかしもっと深い香り。土の匂いが混じった、夜の草原のような。


菜摘は、キャップを元に戻した。


まだ、ではない。


なぜまだではないのか、自分でも説明できなかった。ただ、まだではない、という感じがした。


ボトルをテーブルの上に置いたまま、菜摘はテレビを消した。


静かになった。


外で、雨が降り始めた音がした。六月の夜の雨。屋根を叩く音が、規則正しく続いた。


菜摘はその音を聞きながら、目を閉じた。


---


翌朝、菜摘はスーパーに向かう前に、旧中央商店街を通った。


仕事場への近道が商店街を通る道で、菜摘は毎朝そこを歩いていた。シャッターの多い通り。老人が数人。宅配のバイク。それが毎朝の景色だった。


エデンズフィールの前を通った。


今日は、入口のそばに小さな黒板が出ていた。チョークで書かれた字があった。


*本日のハーブ:オルトロス 夜明け前に摘んだ葉 限定数*


菜摘は立ち止まった。


黒板を見た。字は丁寧だった。日本語とフランス語が、両方書いてあった。


扉のガラスから、中を見た。アデルがカウンターにいた。今日は何かを書いていた。下を向いていた。


菜摘はアデルを、ガラス越しにしばらく見た。


恐ろしい存在ではない、と菜摘は思った。恐ろしくはない。ただ、理解できない。あの人は誠の先にいる存在だ。誠が五段階目を終えたら、あの姿になる。


それを、菜摘はまだ受け入れられていなかった。


菜摘は視線を外して、歩き始めた。


仕事に遅れる。


---


昼休み、森田さんと一緒にスーパーの休憩室でお弁当を食べていた。


森田さんが「そういえば」と言った。


「何ですか」


「日向さんのご主人って、中学校の先生でしょ」


「そうです」


「うちの孫が、その学校の生徒でね。日向先生、好評なんですって。教え方が丁寧で、怒らないって」


菜摘は「そうですか」と言った。


「なんか最近、見た目が変わったって孫が言ってたけど」と森田さんは続けた。「髪が白くなってきたって。まだ若いのに」


菜摘は箸を止めた。「ええ」


「病気じゃないですよね」と森田さんが少し心配そうに言った。


「病気じゃないです」と菜摘は言った。「体は元気です」


「それならいいけど。でも変わってますよね、あの方。なんか、以前より雰囲気が穏やかになったって。生徒たちが言ってるらしくて」


穏やかになった。


誠はそうだった。以前より穏やかだった。怒らなくなった。焦らなくなった。疲れた顔をしなくなった。


それは良いことのはずだった。


しかし菜摘は、その良いことを、素直に喜べなかった。


「そうですね」と菜摘は言って、お弁当の続きを食べた。


---


その日の帰り道、商店街を歩いていると、エデンズフィールの前に人が立っていた。


透だった。


菜摘は透のことを知らなかった。ただ、二十代後半くらいの、細い男性が、エデンズフィールの扉を押して入っていくのが見えた。


何気なく見ていただけだったが、菜摘は立ち止まった。


普通の人に見えた。背が高くもなく、肌が黒くもなく、髪も黒かった。ただの若い男性が、当たり前のように扉を開けて、入っていった。


当たり前のように、入っていった。


菜摘はその扉を見た。


中に入ることが、この人にとっては当たり前だった。それが菜摘には、不思議だった。怖くないのだろうか。変になったりしないと、思っているのだろうか。


あるいは、怖いとか変になるとか、そういう心配を、そもそもしていないのかもしれない。


菜摘は歩き出した。


家に帰って、ひかりのおやつを出して、夕飯の支度を始めた。


冷蔵庫を開けて、材料を並べた。今日は何にしようか、と考えながら、テーブルの上の空色のボトルが目に入った。


昨日から、テーブルの上に置いたままだった。


菜摘はボトルを手に取った。


誠が「飲んでみて、とは言わない。ただ、もし気が向いたら」と言って置いていったもの。


気が向いたら。


菜摘の気は、向いているのか、向いていないのか、自分でもわからなかった。


ただ、捨てる気にもなれなかった。


菜摘はボトルをテーブルの端に置いて、夕飯の支度を続けた。


---


夜、ひかりが風呂から出てきた。


髪を乾かしながら、リビングに来た。菜摘がお茶を飲んでいると、ひかりが向かいに座った。


「美月ちゃんと話してたんだけど」とひかりが言った。


「うん」


「美月ちゃんが、お父さんのこと、ちゃんと聞いたんだって。なんで外見が変わってるのかって」


「なんて言ってた?」とひかりは聞かれるかもしれない、と思って菜摘は先に聞いた。


「正直に話してくれたって。庭師のことを。エデンズフィールのことを」


菜摘は「そう」と言った。


「美月ちゃんは、最初びっくりしたって。でも、お父さんがお父さんだから、まあいいかって思ったって」


まあいいか。


十三歳の子の言葉だった。単純だった。しかしその単純さには、菜摘が持っていない何かがあった。


「ひかりは?」と菜摘は聞いた。「お父さんのこと、どう思ってる」


ひかりは少し考えた。タオルで髪を拭きながら考えた。


「パパはパパだよ」とひかりは言った。「見た目が変わっても、パパだもん」


パパはパパ。


菜摘はその言葉を、胸の中に置いた。


「そうね」と菜摘は言った。


「お母さんは?」とひかりが聞いた。


菜摘は少し黙った。「まだ、わからない」と正直に言った。


ひかりは「そっか」と言って、立ち上がった。「おやすみ」と言って、自分の部屋に戻った。


---


菜摘は一人になって、テーブルの上の空色のボトルを見た。


まだ、わからない。


わからなくていいのかもしれない。今すぐ答えを出さなくていいのかもしれない。


菜摘はボトルを手に取った。


キャップを回した。


香りが来た。


少しだけ、飲んだ。


喉を通った。温かかった。涼しかった。甘くて、苦かった。


何かがおかしくなる感じはしなかった。ただ、温かかった。


菜摘はキャップを閉めて、ボトルをテーブルに戻した。


窓の外で、雨が上がっていた。


水無瀬山のシルエットが、夜空に浮かんでいた。


菜摘はしばらく、その山を見た。


まだ、わからない。


しかし少しだけ、立っている場所が変わった気がした。流されながら立っているのは同じだったが、足の裏に、わずかに地面の感触があった。


それだけだった。


それだけで、今夜は十分だと思った。

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