第六章 アデル 二
## 第六章 アデル
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六月が来ると、水無瀬の空は低くなった。
山から湿った空気が下りてきて、街全体が白く霞む。アパートの窓から見える水無瀬山は、雲に半分隠れて、稜線が滲んでいた。雨が降ったり止んだりを繰り返す、落ち着きのない天気が続いた。
アデルはその天気を、悪くないと思っていた。
湿った空気は、植物に良い。エデニア・ノクティスは、乾燥より湿度を好む。裏のハーブ園を見ると、葉の色が先月より深くなっていた。銀色の縁が、雨粒を受けてきらきらと光っていた。
アデルは毎朝、店を開ける前に、ハーブ園の手入れをした。
膝をついて、土の状態を確かめる。指を差し込んで、深さを感じる。水が足りていれば、雨に任せる。足りなければ、水をやる。葉の状態を見る。茎の色を見る。根元の土を少し掘って、根の張り具合を確かめる。
それが終わると、右手の親指の内側を、小さなナイフで細く切った。血が滲む。その手を、エデニア・ノクティスの根元に近づけて、土に触れさせる。血が土に吸い込まれていく。植物が、微かに揺れる。風はない。しかし揺れる。
アデルはその揺れを、毎朝見ていた。
慣れることはなかった。毎朝、同じように感じた。応えている、と。植物が、血を受け取って、応えている。
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エデンズフィール水無瀬店がオープンしたのは、六月の第一週だった。
初日、客は来なかった。
二日目、老夫婦が一組入ってきた。「新しい店ができたと聞いて」と言って、Sサイズのボトルを二本買って帰った。「いい香りね」と女性の方が言った。アデルは「ありがとうございます」と答えた。
三日目、誰も来なかった。
四日目、中学生の女の子が三人入ってきた。部活帰りらしく、体操服の上にジャージを羽織っていた。三人とも、アデルを見て固まった。一番背の高い女の子が、小声で「外国人だ」と言った。もう一人が「しっ」と言った。
アデルは「いらっしゃいませ」と言った。「どうぞ、座って」と言って、イートインのスペースを示した。
三人は恐る恐る座って、Sサイズを三本頼んだ。飲みながら、最初は小声で話していたが、そのうち普通の声になった。「美味しい」「なんか変な味」「でも美味しい」と口々に言った。
アデルは笑った。
「変な味、というのは正確です」とアデルは言った。「矛盾した味がしますから」
「矛盾?」と一番元気そうな女の子が言った。
「温かいのに、涼しい。甘いのに、苦い」
「ほんとだ」と女の子は言って、またボトルに口をつけた。
三人は三十分ほどいて、帰った。帰り際に「また来ます」と言った。アデルは「待っています」と言った。
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十日目に、透が来た。
アデルは、透が来ることを感じていた。
夢を通じて接触した人間の気配は、庭師にはわかる。正確には、夢空間に入った痕跡が残る。その痕跡が、透からは確かに感じられた。URLを受け取っていた。夢の中で川を見ていた。しかし扉を開けるまでに時間がかかっていた。
それで良かった。
急かす必要はない。来るべき人間は、来るべき時に来る。
透が扉を押した瞬間、アデルはカウンターの奥でそれを感じた。来た、と思った。
透は店に入って、立ち止まった。アデルを見て、足が止まった。その反応は、いつも同じだ。初めてアデルを見る人間は、まず止まる。驚く。戸惑う。しかしアデルは慣れていたので、それを待った。
「いらっしゃいませ」と言った。
透は何も言えなかった。
「座りますか」と聞いた。透は頷いた。
Sサイズのボトルを渡した。百円を受け取った。透が飲んでいる間、アデルはカウンターの仕事をしながら、透を観察した。
窓の外を見ていた。何も考えていない顔をしていた。それが良かった。初めてエデニア・ノクティスを飲んだ人間が、何も考えていない顔をする。それは、体が受け取っているということだ。頭が邪魔をしていない。
透が帰った後、アデルは裏のハーブ園に出た。
夕方の光が、エデニア・ノクティスの葉に斜めに当たっていた。銀色の縁が、光を受けて柔らかく輝いていた。
良い始まりだ、とアデルは思った。
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翌週から、桐島が来るようになった。
最初の日、桐島はジャーナリストだと名乗った。「エデンズフィールについて取材しています」と言った。アデルは「どうぞ」と言った。桐島は驚いていた。断られると思っていたのだろう。
アデルは答えられることには答えた。店の歴史。商品の概要。水無瀬に来た理由の概略。従業員——庭師——の生活の一部。
答えられないことには答えなかった。導師のこと。イニシエーションの詳細。精神ネットワークのこと。リボンの意味。
桐島は執拗だった。同じことを角度を変えて聞いてきた。アデルは毎回、同じように答えた。答えられることは答えた。答えられないことは答えなかった。
「なぜ隠すんですか」と桐島は言った。
「隠してるんじゃなくて、あなたにはまだ必要のない情報だと思っています」とアデルは言った。
桐島は苛立った。それはアデルにもわかった。しかしアデルは、その苛立ちを、悪いとは思わなかった。桐島は真剣だった。嘘をつこうとしていなかった。ただ、知りたかった。その姿勢は、アデルには好ましかった。
「また来てもいいですか」と桐島は帰り際に言った。
「いつでも」とアデルは言った。
桐島が帰った後、アデルはお茶を淹れた。自分のために。カウンターに座って、一人で飲んだ。
桐島の気配は、透とは違った。透は夢の中で接触を受けていた。桐島にはその痕跡がなかった。つまり桐島は、自分の意志だけでここに来ていた。職業的な理由で。
それでも良かった。
どんな理由で来ても、エデニア・ノクティスを飲めば、体は受け取る。頭が何を考えていても、体は正直だ。
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菜摘を最初に見たのは、六月の半ばだった。
アデルが店の中から、窓越しに商店街を見ていた時のことだった。
女性が商店街を歩いてきた。四十代くらい。黒い髪に、白髪が混じり始めていた。肩まである髪が、梅雨の湿気で少し広がっていた。表情が豊かな顔で、今は困惑した顔をしていた。
店の前で、足が止まった。
看板を見ていた。ガラスの向こうの空色の瓶を見ていた。
入ってこなかった。
アデルは窓越しに、その女性を見た。見ていると、女性がこちらを向いた。目が合った。
アデルは頭を下げた。
女性は固まった。それから、反射的に頭を下げた。
それだけだった。女性は前を向いて、歩き去った。
アデルはその背中を見ていた。
誠の妻だ、と思った。誠は水無瀬の中学校で教えている庭師だった。精神ネットワークで何度か会ったことがあった。蛸の仮面をつけた、穏やかな庭師だった。家族が水無瀬に引っ越してきたことを、誠から聞いていた。
菜摘は来ない、とアデルは思った。
少なくとも、今日は来ない。しかし来ない人間が、前を通る。前を通る人間が、見る。見る人間が、いつか入るかもしれない。いつか入らないかもしれない。
どちらでも良かった。
楽園は、求める者のためにある。
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六月の下旬になると、常連が増えてきた。
透は週に三回来るようになっていた。毎回同じテーブルに座って、窓の外を見ながらお茶を飲んだ。最初の頃は、ほとんど何も言わなかった。それが少しずつ、話すようになってきた。
ある日、透が「少し聞いていいですか」と言った。アデルはカウンターを離れて、透の向かいに座った。
透は「なぜ日本に来たんですか」と聞いた。アデルは答えた。「この街に来る必要があったからです」
「必要?」
「ここに根付かせるものがあった」
透はその言葉を考えていた。すぐには問い返さなかった。しばらくして、「アデルさんは、その、見た目が変わっているじゃないですか」と言った。
「変わりました」とアデルは言った。
「体が、変わった」
透はアデルの顔を見た。骨格を見ていた。顔立ちと、肌の色の関係を見ていた。正確な観察だった。透は、見ている人間だ、とアデルは思った。目立たないが、よく見ている。
「このお茶が関係していますか」と透は聞いた。
「はい」とアデルは言った。
透は自分の手を見た。白い手だった。普通の手だった。
「もっと聞いてもいいですか」と透は言った。
「今日は、ここまでにしましょう」とアデルは言った。「少しずつ」
「なぜ少しずつなんですか」
「あなたが消化できる量があるからです」
透はその言葉を、おかしいとは思わなかった。受け取った。それがアデルには、良く見えた。
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その夜、アデルは精神ネットワークに触れた。
導師に報告した。言語ではなく、感覚で。水無瀬の状況。透のこと。桐島のこと。常連が増えてきたこと。菜摘が前を通ったこと。
導師から、感覚が返ってきた。
*水無瀬の根が深くなっている。良い兆候だ。*
アデルは受け取った。*透は、近い。*
導師から、肯定が返ってきた。それ以上は何も言わなかった。導師はいつも、必要な分だけ言った。余分なことは言わなかった。
アデルはネットワークから離れた。
裏のハーブ園に出た。夜だった。月が出ていた。エデニア・ノクティスの葉が、月光を受けて、銀色の縁を光らせていた。花がいくつか開いていた。夜に開く花。小さな鈴型の花が、露を滴らせながら、静かに開いていた。
アデルはしゃがんで、花を見た。
ラクリモサ、と呼ばれる花の開き方だった。涙を滴らせるように、露を落とす。その露を、小さなガラス瓶に集めた。今夜の露は、三滴ほどだった。
アデルは立ち上がった。
空を見た。水無瀬の夜空に、星が出ていた。梅雨の合間の、晴れた夜だった。パリより星が多かった。光害が少ないからだ。
アデルは星を見ながら、リヨンのことを思った。
子供の頃、父と一緒に庭に出て、星を見た夜があった。父はアルジェリアの星の話をした。砂漠の夜は、星が地面まで下りてくるみたいだ、と言った。アデルは「地面まで?」と聞いた。父は「そういう感じがするんだ」と言って、笑った。
父は今、リヨンにいる。元気でいるはずだ。アデルが庭師になったことを、父に話したのは三年前だった。電話で話した。外見の変化を説明した。写真を送った。父は長い沈黙の後、「アデルはアデルか」と聞いた。「そうだ」とアデルは答えた。父はまた沈黙して、「ならいい」と言った。
その一言が、アデルには十分だった。
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七月に入る直前の夜、アデルは夢空間に入った。
個人エリアの庭。エデニア・ノクティスが青く茂っていた。花が咲いていた。根が、土の中で白く光っていた。
アデルは白い鷺の仮面をつけた。黒いローブをまとった。胸元の五色のリボンを確かめた。黒、青、緑、赤、白。全部ある。
共用エリアに移動した。
今夜は多くの庭師が集まっていた。世界中から。鹿の仮面。狐の仮面。鳥の仮面。兎の仮面。蝶の仮面。熊の仮面。蛇の仮面。それぞれの動物が、それぞれの表情を映していた。胸元のリボンの本数が、一人ずつ違った。
誠がいた。蛸の仮面。胸元に四本のリボン。アデルに気づいて、仮面が笑った。アデルも笑った。言葉はいらなかった。
中央に、導師がいた。
黒い猫の仮面。白いローブ。リボンはない。
導師が、共用エリア全体に向かって、何かを流した。言語ではなかった。感覚だった。
*各地で根が張っている。続けなさい。焦らなくていい。楽園は、一日では作れない。*
庭師たちが受け取った。それぞれの場所で、それぞれのやり方で。感情の色が、少しずつ違った。温かさ。静けさ。確かさ。
アデルも受け取った。
それから、導師が直接アデルに触れた。共用エリアの中で、個別に触れてくることは珍しかった。
*水無瀬の若い庭師候補。透という名の。近い。*
アデルは答えた。*はい。近いと思います。*
*急かさなくていい。彼が来る時に来る。*
*わかっています。*
導師の感覚が、引いた。
アデルは共用エリアに留まって、しばらく他の庭師たちの声を聞いた。
ロンドンの庭師が、テムズ川の水質が少し改善したと流した。ラゴスの庭師が、廃棄された工場跡地に植物が戻ってきたと流した。ソウルの庭師が、新しい候補者と接触したと流した。
世界中で、同じことが静かに起きていた。
大きなニュースではない。小さな変化だ。川が少し澄む。緑が少し戻る。一人の人間が、少し楽になる。それが積み重なって、いつか、何かになる。
アデルは個人エリアに戻った。
庭を歩いた。エデニア・ノクティスの葉が、足元で揺れた。花の露が、月光に光っていた。
庭の端に、川があった。
水無瀬川の、本来あるべき姿の川。底まで透けていた。
川のそばに立つと、向こう岸に人影が見えた。
透だった。
夢空間に入り込んできているわけではない。気配だけが、向こう岸にあった。細い、背の低い人影。こちらを見ているような、見ていないような。
まだ仮面はない。まだローブもない。
ただ、川の向こうにいた。
アデルは手を振った。
人影が、少し動いた。
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翌朝、アデルは日の出前に起きた。
アパートの窓から、水無瀬山を見た。山の稜線が、夜明けの色に縁取られていた。オルトロス、と呼ばれる時間帯だった。夜明け前の、一番暗い時間と、夜明けの間の。エデニア・ノクティスが最もよく育つ時間帯でもあった。
アデルは裏のハーブ園に出た。
朝露が、葉の上に光っていた。花が、一晩かけて開いた後の、満開の状態にあった。香りが、昼間より強かった。ミントに似た清涼感ではなく、夜の草原のような甘く重い芳香。
アデルは膝をついて、花を見た。
小さな鈴型の花。白から淡い空色のグラデーション。花の中心に、朝露の粒が光っていた。
アデルは親指の内側を切った。血が滲んだ。根元の土に触れた。
植物が揺れた。
応えた。
アデルは立ち上がった。店を開ける準備をする時間だった。
お湯を沸かして、エデニア・ノクティスの乾燥葉を抽出した。液体が空色になった。自分のカップに注いだ。
飲んだ。
温かくて、涼しい。甘くて、苦い。
毎朝同じ感覚だった。慣れない。それが良いとアデルは思っていた。
カップを手に持ったまま、窓の外を見た。
水無瀬の朝が、始まっていた。
青果店のおじさんが、シャッターを上げ始めていた。宅配のバイクが、遠くから近づいてくる音がした。老人が一人、商店街をゆっくりと歩いていた。
今日も、誰かが来る。
透が来るかもしれない。桐島が来るかもしれない。来たことのない誰かが来るかもしれない。
アデルは店の扉の鍵を開けた。
黒と空色の看板が、朝の光の中に立っていた。
今日も、ここから始まる。




