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水無瀬の庭師  作者: ふらう
第二部 芽
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5/22

第五章 透 二

##第二部 芽


## 第五章 透


---


六月の最初の週は、雨が続いた。


水無瀬市の六月は蒸し暑い。梅雨に入ると、山から湿った空気が下りてきて、街全体が霞む。朝から空が白く、昼になっても晴れない。アーケードの屋根を叩く雨の音が、商店街にいる間ずっと続く。


透は毎朝、その音を聞きながら市役所に向かった。


自転車では来られないので、徒歩で通っていた。レインコートを着て、傘を差して、十五分かけて歩く。靴の中が湿る日もあった。会社に着くと、レインコートを脱いで、傘を傘立てに入れて、デスクに座る。それだけのことが、六月は少しだけ重い。


仕事の内容は変わらない。書類を処理して、回覧を回して、電話を取って、書類を処理する。


五月と違うのは、窓の外がいつも白いことだけだった。


---


スマートフォンのメモアプリに残ったURLを、透は毎晩見ていた。


開かなかった。しかし消さなかった。


寝る前に、アプリを開いて、文字列を確認して、また閉じる。その行為が、気づけば習慣になっていた。*edenia-noctis.jp*。英数字の並びは変わらない。しかし毎晩見るたびに、少しだけ違う感じがした。近づいているような、あるいは遠のいているような。どちらかは、わからなかった。


夢は、続いていた。


毎晩ではない。二日に一度か、三日に一度か。しかし見るたびに、前より少し鮮明になっていた。


川がある。澄んだ川。水の底まで透けている。透は必ず岸辺に立っていて、川を見ている。向こう岸に、銀髪の人物がいることもある。いないこともある。いる時、その人物は必ずこちらを見ていた。手を振ることもあった。


目が覚めると、夢の細部は薄れていく。しかし川の水の色だけは、いつまでも残った。透明で、深くて、静かな色。現実の水無瀬川とは、全く違う色だった。


---


六月の第一週の木曜日だった。


透はその日、定時で仕事を終えた。残業もなく、特に寄り道をする理由もなく、傘を差して商店街に向かった。雨は午後から上がっていた。アーケードの屋根から、雫が落ちていた。


歩きながら、透は自分がどこに向かっているのか、最初わからなかった。


いつもは川沿いの道を通る。今日は商店街を通っていた。いつからそちらに足が向いていたのか、気づいていなかった。


角地に、明かりが見えた。


黒と空色の看板。


エデンズフィール。


透は立ち止まった。


扉の前に立っていた。いつの間に、ここまで来ていた。意識して歩いてきたわけではなかった。しかし確かに、自分の足でここまで来ていた。


扉は木製で、古びているが、傷んでいなかった。小さなガラス窓が扉についていて、中の明かりが見えた。


透はその場に、三十秒ほど立っていた。


引き返そうと思った。明日でいいと思った。来週でもいいと思った。


しかし手が、扉に伸びた。


押した。


---


ハーブの香りが来た。


ミントに似た、しかしミントより深い香りだった。草の匂いの中に、土の匂いが混じっていた。夜の草原、という言葉が浮かんだ。透は草原に行ったことがないのに、そういう言葉が浮かんだ。


店内に入ると、透は立ち止まった。


左側の棚に、空色の瓶が並んでいた。Sサイズ、Mサイズ、Lサイズ。整然と並んでいた。右側にイートインのスペースがあった。テーブルが四つ。今は誰も座っていなかった。


カウンターの奥に、人がいた。


透はその人物を見て、足が止まった。


背が高かった。二メートルは超えていた。肌が黒かった。均一で、深みのある黒だった。髪が銀色で、短く刈り込まれていた。顔立ちは彫りが深く、鼻が高かった。目が、金色だった。


その目が、透を見た。


穏やかだった。驚いていなかった。まるで透が来ることをあらかじめ知っていたかのような、そういう静けさだった。


「いらっしゃいませ」


日本語だった。少しアクセントがあった。


透は何も言えなかった。


声が出てこなかったわけではない。何を言えばいいのか、わからなかった。こんにちは、でも、ハーブティーをください、でも、なんでもいいはずなのに、言葉が見つからなかった。


「座りますか」とカウンターの人物が言った。


透は頷いた。


イートインのスペースに向かって、一番窓に近い椅子を引いた。木の椅子だった。座ると、少し軋んだ。


カウンターの人物が近づいてきた。左足首に、五本のリボンが巻かれているのが見えた。黒、青、緑、赤、白。細いリボンが重なって揺れていた。


「初めてですか」と聞かれた。


「はい」と透は言った。


「Sサイズから、いかがですか」


透は頷いた。


カウンターに戻って、棚から空色のボトルを取った。リーダーに手の甲をかざすよう促された。かざした。微かな光。痛みはなかった。何かが読まれた感覚があった。


百円を払った。ボトルを受け取った。


「ゆっくりどうぞ」とカウンターの人物が言った。それだけ言って、カウンターに戻った。


透はボトルを持ったまま、少し座っていた。


窓の外に商店街が見えた。雨上がりの、濡れたアーケード。老夫婦が傘を折りたたみながら歩いていた。シャッターに、夕方の光が反射していた。


透はボトルを開けた。


香りが来た。店に入った時より、近い距離で嗅ぐ香り。温かかった。


口をつけた。


飲んだ。


---


言葉にならない味がした。


温かかった。それは確かだった。しかし同時に、涼しかった。舌の上で、熱さと冷たさが同時にあった。甘かった。苦かった。塩気のような、旨みのような、そういう味も混じっていた。


全部が矛盾していた。しかし不快ではなかった。


むしろ、何か正確なものを飲んでいる感じがした。味が複雑なのではなく、今まで飲んでいたものが不完全だったような。水が水として完成していなかったのに、今初めて完成した水を飲んでいるような。うまく言えなかった。


透はボトルを持ったまま、窓の外を見た。


何も考えていなかった。


それが珍しかった。透はいつも、何かを考えている。仕事のこと、母のこと、水無瀬のこと、自分のこと。頭の中がいつも動いていた。それが当たり前だった。


今は、何も動いていなかった。


ただ、窓の外を見ていた。老夫婦が歩いていた。雫が屋根から落ちていた。遠くに山が見えた。


それだけだった。


それだけで、良かった。


---


気づいたら、ボトルが空になっていた。


時間の感覚がなかった。五分だったかもしれないし、三十分だったかもしれない。


透は空のボトルを手に持って、少しの間、そのまま座っていた。


「お口に合いましたか」


カウンターから声がした。


透は振り返った。銀髪の人物が、こちらを見ていた。透は「はい」と言った。「美味しかったです」


「また来てください」とその人物は言った。


「あの」と透は言った。声が出たのが、自分で少し驚きだった。「名前、聞いていいですか」


「アデルです」とその人物は言った。「アデル・ヴォワザン。この店の管理をしています」


「フランスの方ですか」


「リヨン出身です」


透は立ち上がって、空のボトルをカウンターに返した。「鷺沼透です。この街に住んでいます」


「知っています」とアデルは言った。


透は手が止まった。「知っている?」


アデルは答えなかった。ただ、微かに笑った。


透は「また来ます」と言った。


「いつでも」とアデルが言った。


透は扉を開けて、外に出た。


---


帰り道、透は川沿いを通った。


雨上がりの川は、いつもより少しだけ水量が多かった。濁った水が、いつもより少し速く流れていた。川面が、夕暮れの光を受けて、鈍く光っていた。


透はいつもの場所に自転車を止めた。いや、今日は自転車がなかった。歩いてきていた。透は柵に手をかけて、川を見た。


今日の川は、いつもと同じように濁っていた。夢の中の川とは違った。しかし今日は、その濁りがあまり気にならなかった。


今日、何かが変わったのかもしれない、と透は思った。何が変わったのかは、わからなかった。ただ、エデンズフィールに入る前と後で、何かが少し違う気がした。


川を見ながら、透はスマートフォンを取り出した。


メモアプリを開いた。


URLを見た。*edenia-noctis.jp*


今日も、開かなかった。


しかし今日は、消したいとも思わなかった。以前は消さないことに、小さな緊張感があった。今日はそれもなかった。ただ、そこにある。それで良かった。


透はスマートフォンをポケットに入れた。


川から目を離して、空を見た。雨上がりの空は、雲が切れて、青みが戻りかけていた。山の稜線の上に、夕焼けの色が滲んでいた。


透は家に向かって歩き始めた。


---


夕飯の時、母が透の顔を見て、「あら」と言った。


「何ですか」


「顔色良いじゃない。何かあった?」


透は考えた。何かあったかと聞かれれば、あったといえる。しかし何があったかを説明するのが、難しかった。商店街のハーブティーの店に入って、空色のお茶を飲んできた。それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。


「ちょっと、お茶飲んできました」


「どこで」


「商店街のお店で」


「エデンズフィールかい」と母が言った。


透は箸を止めた。「知ってるんですか」


「そりゃ知ってるよ。あの店、長いじゃないの。あなたが中学生の頃からあるんじゃないかな」


「入ったことありますか」


「一度だけ。何年か前に」母は少し考えるように間を置いた。「美味しかったよ。体に良いかどうかは知らないけど」


透は「そうですか」と言って、また箸を動かした。


母がそれ以上聞いてこなかったのは、母らしかった。透のことを、必要以上に聞かない人だった。父が死んでから、一人で透を育てて、透が市役所に就職して、透がいつまでも結婚しなくても、何も言わなかった。あなたが決めることだ、と思っているのが、態度からわかった。


透はその晩、箸を止めずに食べた。全部食べた。


母が「今日は全部食べたね」と言った。


透は「美味しかったから」と言った。


母は「そう」と言って、テレビに目を向けた。


---


その夜、透は布団に入って、すぐに眠れた。


いつもは一時間か、それ以上かかる。今夜は違った。横になって、目を閉じて、それだけで眠れた。


深く眠った。


夢は、見なかった。


いや、正確には、夢を見ていたかもしれないが、何も覚えていなかった。ただ、深いところにいた感じがした。川の底のような、静かな深さの中にいた。


---


翌朝、透は目が覚めた。


六時だった。目覚ましより早かった。


布団の中で、体の感覚を確かめた。


軽かった。


言葉にするとそれだけだが、それは透にとって、久しぶりの感覚だった。体の奥に澱のように溜まっていた疲れが、どこかに行っていた。全部ではないかもしれない。しかし確かに、昨日より軽かった。


透は起き上がった。


洗面所で顔を洗った。鏡を見た。


目の下の隈が、少し薄い気がした。気のせいかもしれなかった。しかし気のせいでないかもしれなかった。


透は自分の顔を、少し長く見た。


二十八年間、ずっとこの顔だった。飽きるほど見てきた顔だった。しかし今朝は、少しだけ、知らない顔を見ているような感じがした。


---


その日の仕事は、いつもと同じだった。


書類を処理して、回覧を回して、電話を取った。田所さんが「今日も顔色いいね」と言った。「ありがとうございます」と透は答えた。


昼休み、食堂で日替わり定食を食べた。今日は鮭の塩焼きだった。味がした。昨日まで感じなかったわけではないが、今日は味がする、と意識した。


午後の仕事中、透は窓の外を見た。


雨上がりの水無瀬は、晴れていた。山が近く見えた。空が高かった。商店街のアーケードに、光が落ちていた。


エデンズフィールの看板が、この距離からでも見えた。


透は窓から目を離して、書類に戻った。


今日も寄ろうと思った。


---


仕事帰り、透はエデンズフィールに寄った。


扉を押す時、昨日より手が動いた。躊躇がなかった。


入ると、アデルがカウンターにいた。昨日と同じ場所に、昨日と同じ姿で立っていた。


「いらっしゃいませ」


「また来ました」と透は言った。


「知っています」とアデルが言った。昨日と同じ言葉だった。しかし透は今日は、その言葉の奇妙さを問い返さなかった。


Sサイズのボトルを買って、同じテーブルに座った。


飲んだ。


同じ味がした。温かくて、涼しくて、甘くて、苦い。矛盾した感覚。しかし今日は昨日より、その矛盾が自然に感じられた。


窓の外を見た。


今日も何も考えなかった。


それが、透には心地よかった。何かを考えなければならない、という義務感が、この店に入っている間だけ消えた。外に出れば、また戻ってくるかもしれない。しかし今ここでは、消えていた。


「昨日、よく眠れましたか」とアデルが言った。


透は振り返った。アデルはカウンターの向こうで、透を見ていた。


「眠れました」と透は言った。「久しぶりに」


アデルは頷いた。


「毎晩眠れなかったんですか」と聞かれた。


「最近は、ずっと」


「体が疲れていましたね」とアデルは言った。断定するように言った。否定も確認も求めていない言い方だった。


透は「そうかもしれません」と言った。


「疲れる理由がありましたか」


透は少し考えた。「特にないと思います。でも疲れていた」


「特に理由のない疲れが、一番重い」とアデルは言った。


透はその言葉を、しばらく考えた。


特に理由のない疲れ。そうだった。仕事が特別つらいわけではない。人間関係に問題があるわけではない。病気でもない。しかし疲れていた。六年間、ずっと。何かに向かって頑張っているわけでもなく、何かから逃げているわけでもなく、ただ毎日を過ごして、疲れていた。


「あなたは、どうして疲れなくなったんですか」と透は聞いた。


アデルは少し間を置いた。「色々あります。ゆっくり話しましょう、いつか」


「今じゃないんですか」


「今日は、まずお茶を飲んでください」


透は「はい」と言って、ボトルに口をつけた。


---


三日後も、透はエデンズフィールに来た。


また三日後も来た。


気づけば、週に三回通っていた。


毎回、Sサイズのボトルを買って、同じテーブルに座って飲んだ。アデルと少し話すこともあった。話さないこともあった。話さない日は、ただ座って、窓の外を見て、お茶を飲んで、帰った。それで十分だった。


変化は、少しずつ来た。


疲れが軽くなっていた。仕事が終わって帰る時、以前のような引きずる感じがなかった。食欲が戻った。母と夕飯を食べる時、会話が少し増えた。眠れる日が増えた。


夢は続いていた。川の夢。澄んだ水。向こう岸の人物。しかし今は、夢を見ることが怖くなかった。むしろ、見たいと思うようになっていた。


---


六月の第三週の月曜日だった。


透はエデンズフィールに入ると、アデルが店の奥から荷物を運んでいた。木箱だった。中に、小さな瓶が入っていた。


「手伝いますか」と透は言った。


「大丈夫です」とアデルは言った。「でも、ありがとう」


透はいつものテーブルに座った。


アデルがお茶を持ってきた。今日は透が頼む前に、持ってきた。


「少し聞いていいですか」と透は言った。


「どうぞ」


「この店のことを。アデルさんのことを」


アデルは透の向かいの椅子を引いて、座った。カウンターを離れて、客のテーブルに座るのは、初めてだった。


「何から聞きますか」とアデルが言った。


透は少し考えた。「なぜ日本に来たんですか」


「この街に来る必要があったからです」


「必要?」


「ここに根付かせるものがあった」


透はその言葉の意味を問い返そうとして、やめた。もう少し聞いてから、考えよう、と思った。「アデルさんは、その、見た目が変わっているじゃないですか」


アデルは頷いた。


「生まれからですか」


「違います」とアデルは言った。「変わりました」


「変わった、というのは」


「体が、変わった」


透はアデルの顔を見た。黒い肌。銀髪。金の目。骨格はヨーロッパ系のそれだった。彫りが深く、鼻が高かった。変わった、というのを信じるなら、その骨格は元のままで、色だけが変わったということになる。


「それは」と透は言って、言葉を探した。「このお茶が関係していますか」


アデルは少し間を置いてから、「はい」と言った。


透は自分の手を見た。普通の手だった。色白で、細い、二十八歳の男の手だった。


「もっと聞いてもいいですか」と透は言った。


「今日は、ここまでにしましょう」とアデルが言った。「少しずつ」


「なぜ少しずつなんですか」


「あなたが消化できる量があるからです」


透はその言葉を、おかしいとは思わなかった。むしろ、正確だと思った。今日一度に全部聞いても、おそらく受け取り切れない。自分でもそれがわかった。


「また来ます」と透は言った。


「知っています」とアデルが言った。


今日もその言葉を言った。透は今日、少しだけ笑った。


アデルも、笑った。


---


帰り道、透は川沿いを通った。


夕方の光が、濁った川面に落ちていた。今日の川は、いつもより少しだけ光を受けて、鈍く輝いていた。完全には濁っていないような、そういう気がした。


透はいつもの場所に立って、川を見た。


夢の中の川は、ここよりずっと澄んでいた。しかし今日の現実の川は、少しだけ夢に近い気がした。光の当たり方のせいかもしれなかった。気のせいかもしれなかった。


しかし透は、その違いを大切にしたいと思った。


スマートフォンを取り出した。


メモアプリを開いた。


URLを見た。


今日も、開かなかった。


しかし今日初めて、いつか開く日が来るかもしれない、と思った。


今日ではない。しかし、いつか。


透はスマートフォンをポケットに入れて、川から目を離した。


空に、夕焼けが広がっていた。雲が赤く染まっていた。山の稜線が、その色の中にくっきりと浮かんでいた。


透はしばらく、その空を見た。


水無瀬の空を、こんなに長く見たのは、久しぶりだと思った。


あるいは、初めてかもしれなかった。

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