第五章 透 二
##第二部 芽
## 第五章 透
---
六月の最初の週は、雨が続いた。
水無瀬市の六月は蒸し暑い。梅雨に入ると、山から湿った空気が下りてきて、街全体が霞む。朝から空が白く、昼になっても晴れない。アーケードの屋根を叩く雨の音が、商店街にいる間ずっと続く。
透は毎朝、その音を聞きながら市役所に向かった。
自転車では来られないので、徒歩で通っていた。レインコートを着て、傘を差して、十五分かけて歩く。靴の中が湿る日もあった。会社に着くと、レインコートを脱いで、傘を傘立てに入れて、デスクに座る。それだけのことが、六月は少しだけ重い。
仕事の内容は変わらない。書類を処理して、回覧を回して、電話を取って、書類を処理する。
五月と違うのは、窓の外がいつも白いことだけだった。
---
スマートフォンのメモアプリに残ったURLを、透は毎晩見ていた。
開かなかった。しかし消さなかった。
寝る前に、アプリを開いて、文字列を確認して、また閉じる。その行為が、気づけば習慣になっていた。*edenia-noctis.jp*。英数字の並びは変わらない。しかし毎晩見るたびに、少しだけ違う感じがした。近づいているような、あるいは遠のいているような。どちらかは、わからなかった。
夢は、続いていた。
毎晩ではない。二日に一度か、三日に一度か。しかし見るたびに、前より少し鮮明になっていた。
川がある。澄んだ川。水の底まで透けている。透は必ず岸辺に立っていて、川を見ている。向こう岸に、銀髪の人物がいることもある。いないこともある。いる時、その人物は必ずこちらを見ていた。手を振ることもあった。
目が覚めると、夢の細部は薄れていく。しかし川の水の色だけは、いつまでも残った。透明で、深くて、静かな色。現実の水無瀬川とは、全く違う色だった。
---
六月の第一週の木曜日だった。
透はその日、定時で仕事を終えた。残業もなく、特に寄り道をする理由もなく、傘を差して商店街に向かった。雨は午後から上がっていた。アーケードの屋根から、雫が落ちていた。
歩きながら、透は自分がどこに向かっているのか、最初わからなかった。
いつもは川沿いの道を通る。今日は商店街を通っていた。いつからそちらに足が向いていたのか、気づいていなかった。
角地に、明かりが見えた。
黒と空色の看板。
エデンズフィール。
透は立ち止まった。
扉の前に立っていた。いつの間に、ここまで来ていた。意識して歩いてきたわけではなかった。しかし確かに、自分の足でここまで来ていた。
扉は木製で、古びているが、傷んでいなかった。小さなガラス窓が扉についていて、中の明かりが見えた。
透はその場に、三十秒ほど立っていた。
引き返そうと思った。明日でいいと思った。来週でもいいと思った。
しかし手が、扉に伸びた。
押した。
---
ハーブの香りが来た。
ミントに似た、しかしミントより深い香りだった。草の匂いの中に、土の匂いが混じっていた。夜の草原、という言葉が浮かんだ。透は草原に行ったことがないのに、そういう言葉が浮かんだ。
店内に入ると、透は立ち止まった。
左側の棚に、空色の瓶が並んでいた。Sサイズ、Mサイズ、Lサイズ。整然と並んでいた。右側にイートインのスペースがあった。テーブルが四つ。今は誰も座っていなかった。
カウンターの奥に、人がいた。
透はその人物を見て、足が止まった。
背が高かった。二メートルは超えていた。肌が黒かった。均一で、深みのある黒だった。髪が銀色で、短く刈り込まれていた。顔立ちは彫りが深く、鼻が高かった。目が、金色だった。
その目が、透を見た。
穏やかだった。驚いていなかった。まるで透が来ることをあらかじめ知っていたかのような、そういう静けさだった。
「いらっしゃいませ」
日本語だった。少しアクセントがあった。
透は何も言えなかった。
声が出てこなかったわけではない。何を言えばいいのか、わからなかった。こんにちは、でも、ハーブティーをください、でも、なんでもいいはずなのに、言葉が見つからなかった。
「座りますか」とカウンターの人物が言った。
透は頷いた。
イートインのスペースに向かって、一番窓に近い椅子を引いた。木の椅子だった。座ると、少し軋んだ。
カウンターの人物が近づいてきた。左足首に、五本のリボンが巻かれているのが見えた。黒、青、緑、赤、白。細いリボンが重なって揺れていた。
「初めてですか」と聞かれた。
「はい」と透は言った。
「Sサイズから、いかがですか」
透は頷いた。
カウンターに戻って、棚から空色のボトルを取った。リーダーに手の甲をかざすよう促された。かざした。微かな光。痛みはなかった。何かが読まれた感覚があった。
百円を払った。ボトルを受け取った。
「ゆっくりどうぞ」とカウンターの人物が言った。それだけ言って、カウンターに戻った。
透はボトルを持ったまま、少し座っていた。
窓の外に商店街が見えた。雨上がりの、濡れたアーケード。老夫婦が傘を折りたたみながら歩いていた。シャッターに、夕方の光が反射していた。
透はボトルを開けた。
香りが来た。店に入った時より、近い距離で嗅ぐ香り。温かかった。
口をつけた。
飲んだ。
---
言葉にならない味がした。
温かかった。それは確かだった。しかし同時に、涼しかった。舌の上で、熱さと冷たさが同時にあった。甘かった。苦かった。塩気のような、旨みのような、そういう味も混じっていた。
全部が矛盾していた。しかし不快ではなかった。
むしろ、何か正確なものを飲んでいる感じがした。味が複雑なのではなく、今まで飲んでいたものが不完全だったような。水が水として完成していなかったのに、今初めて完成した水を飲んでいるような。うまく言えなかった。
透はボトルを持ったまま、窓の外を見た。
何も考えていなかった。
それが珍しかった。透はいつも、何かを考えている。仕事のこと、母のこと、水無瀬のこと、自分のこと。頭の中がいつも動いていた。それが当たり前だった。
今は、何も動いていなかった。
ただ、窓の外を見ていた。老夫婦が歩いていた。雫が屋根から落ちていた。遠くに山が見えた。
それだけだった。
それだけで、良かった。
---
気づいたら、ボトルが空になっていた。
時間の感覚がなかった。五分だったかもしれないし、三十分だったかもしれない。
透は空のボトルを手に持って、少しの間、そのまま座っていた。
「お口に合いましたか」
カウンターから声がした。
透は振り返った。銀髪の人物が、こちらを見ていた。透は「はい」と言った。「美味しかったです」
「また来てください」とその人物は言った。
「あの」と透は言った。声が出たのが、自分で少し驚きだった。「名前、聞いていいですか」
「アデルです」とその人物は言った。「アデル・ヴォワザン。この店の管理をしています」
「フランスの方ですか」
「リヨン出身です」
透は立ち上がって、空のボトルをカウンターに返した。「鷺沼透です。この街に住んでいます」
「知っています」とアデルは言った。
透は手が止まった。「知っている?」
アデルは答えなかった。ただ、微かに笑った。
透は「また来ます」と言った。
「いつでも」とアデルが言った。
透は扉を開けて、外に出た。
---
帰り道、透は川沿いを通った。
雨上がりの川は、いつもより少しだけ水量が多かった。濁った水が、いつもより少し速く流れていた。川面が、夕暮れの光を受けて、鈍く光っていた。
透はいつもの場所に自転車を止めた。いや、今日は自転車がなかった。歩いてきていた。透は柵に手をかけて、川を見た。
今日の川は、いつもと同じように濁っていた。夢の中の川とは違った。しかし今日は、その濁りがあまり気にならなかった。
今日、何かが変わったのかもしれない、と透は思った。何が変わったのかは、わからなかった。ただ、エデンズフィールに入る前と後で、何かが少し違う気がした。
川を見ながら、透はスマートフォンを取り出した。
メモアプリを開いた。
URLを見た。*edenia-noctis.jp*
今日も、開かなかった。
しかし今日は、消したいとも思わなかった。以前は消さないことに、小さな緊張感があった。今日はそれもなかった。ただ、そこにある。それで良かった。
透はスマートフォンをポケットに入れた。
川から目を離して、空を見た。雨上がりの空は、雲が切れて、青みが戻りかけていた。山の稜線の上に、夕焼けの色が滲んでいた。
透は家に向かって歩き始めた。
---
夕飯の時、母が透の顔を見て、「あら」と言った。
「何ですか」
「顔色良いじゃない。何かあった?」
透は考えた。何かあったかと聞かれれば、あったといえる。しかし何があったかを説明するのが、難しかった。商店街のハーブティーの店に入って、空色のお茶を飲んできた。それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
「ちょっと、お茶飲んできました」
「どこで」
「商店街のお店で」
「エデンズフィールかい」と母が言った。
透は箸を止めた。「知ってるんですか」
「そりゃ知ってるよ。あの店、長いじゃないの。あなたが中学生の頃からあるんじゃないかな」
「入ったことありますか」
「一度だけ。何年か前に」母は少し考えるように間を置いた。「美味しかったよ。体に良いかどうかは知らないけど」
透は「そうですか」と言って、また箸を動かした。
母がそれ以上聞いてこなかったのは、母らしかった。透のことを、必要以上に聞かない人だった。父が死んでから、一人で透を育てて、透が市役所に就職して、透がいつまでも結婚しなくても、何も言わなかった。あなたが決めることだ、と思っているのが、態度からわかった。
透はその晩、箸を止めずに食べた。全部食べた。
母が「今日は全部食べたね」と言った。
透は「美味しかったから」と言った。
母は「そう」と言って、テレビに目を向けた。
---
その夜、透は布団に入って、すぐに眠れた。
いつもは一時間か、それ以上かかる。今夜は違った。横になって、目を閉じて、それだけで眠れた。
深く眠った。
夢は、見なかった。
いや、正確には、夢を見ていたかもしれないが、何も覚えていなかった。ただ、深いところにいた感じがした。川の底のような、静かな深さの中にいた。
---
翌朝、透は目が覚めた。
六時だった。目覚ましより早かった。
布団の中で、体の感覚を確かめた。
軽かった。
言葉にするとそれだけだが、それは透にとって、久しぶりの感覚だった。体の奥に澱のように溜まっていた疲れが、どこかに行っていた。全部ではないかもしれない。しかし確かに、昨日より軽かった。
透は起き上がった。
洗面所で顔を洗った。鏡を見た。
目の下の隈が、少し薄い気がした。気のせいかもしれなかった。しかし気のせいでないかもしれなかった。
透は自分の顔を、少し長く見た。
二十八年間、ずっとこの顔だった。飽きるほど見てきた顔だった。しかし今朝は、少しだけ、知らない顔を見ているような感じがした。
---
その日の仕事は、いつもと同じだった。
書類を処理して、回覧を回して、電話を取った。田所さんが「今日も顔色いいね」と言った。「ありがとうございます」と透は答えた。
昼休み、食堂で日替わり定食を食べた。今日は鮭の塩焼きだった。味がした。昨日まで感じなかったわけではないが、今日は味がする、と意識した。
午後の仕事中、透は窓の外を見た。
雨上がりの水無瀬は、晴れていた。山が近く見えた。空が高かった。商店街のアーケードに、光が落ちていた。
エデンズフィールの看板が、この距離からでも見えた。
透は窓から目を離して、書類に戻った。
今日も寄ろうと思った。
---
仕事帰り、透はエデンズフィールに寄った。
扉を押す時、昨日より手が動いた。躊躇がなかった。
入ると、アデルがカウンターにいた。昨日と同じ場所に、昨日と同じ姿で立っていた。
「いらっしゃいませ」
「また来ました」と透は言った。
「知っています」とアデルが言った。昨日と同じ言葉だった。しかし透は今日は、その言葉の奇妙さを問い返さなかった。
Sサイズのボトルを買って、同じテーブルに座った。
飲んだ。
同じ味がした。温かくて、涼しくて、甘くて、苦い。矛盾した感覚。しかし今日は昨日より、その矛盾が自然に感じられた。
窓の外を見た。
今日も何も考えなかった。
それが、透には心地よかった。何かを考えなければならない、という義務感が、この店に入っている間だけ消えた。外に出れば、また戻ってくるかもしれない。しかし今ここでは、消えていた。
「昨日、よく眠れましたか」とアデルが言った。
透は振り返った。アデルはカウンターの向こうで、透を見ていた。
「眠れました」と透は言った。「久しぶりに」
アデルは頷いた。
「毎晩眠れなかったんですか」と聞かれた。
「最近は、ずっと」
「体が疲れていましたね」とアデルは言った。断定するように言った。否定も確認も求めていない言い方だった。
透は「そうかもしれません」と言った。
「疲れる理由がありましたか」
透は少し考えた。「特にないと思います。でも疲れていた」
「特に理由のない疲れが、一番重い」とアデルは言った。
透はその言葉を、しばらく考えた。
特に理由のない疲れ。そうだった。仕事が特別つらいわけではない。人間関係に問題があるわけではない。病気でもない。しかし疲れていた。六年間、ずっと。何かに向かって頑張っているわけでもなく、何かから逃げているわけでもなく、ただ毎日を過ごして、疲れていた。
「あなたは、どうして疲れなくなったんですか」と透は聞いた。
アデルは少し間を置いた。「色々あります。ゆっくり話しましょう、いつか」
「今じゃないんですか」
「今日は、まずお茶を飲んでください」
透は「はい」と言って、ボトルに口をつけた。
---
三日後も、透はエデンズフィールに来た。
また三日後も来た。
気づけば、週に三回通っていた。
毎回、Sサイズのボトルを買って、同じテーブルに座って飲んだ。アデルと少し話すこともあった。話さないこともあった。話さない日は、ただ座って、窓の外を見て、お茶を飲んで、帰った。それで十分だった。
変化は、少しずつ来た。
疲れが軽くなっていた。仕事が終わって帰る時、以前のような引きずる感じがなかった。食欲が戻った。母と夕飯を食べる時、会話が少し増えた。眠れる日が増えた。
夢は続いていた。川の夢。澄んだ水。向こう岸の人物。しかし今は、夢を見ることが怖くなかった。むしろ、見たいと思うようになっていた。
---
六月の第三週の月曜日だった。
透はエデンズフィールに入ると、アデルが店の奥から荷物を運んでいた。木箱だった。中に、小さな瓶が入っていた。
「手伝いますか」と透は言った。
「大丈夫です」とアデルは言った。「でも、ありがとう」
透はいつものテーブルに座った。
アデルがお茶を持ってきた。今日は透が頼む前に、持ってきた。
「少し聞いていいですか」と透は言った。
「どうぞ」
「この店のことを。アデルさんのことを」
アデルは透の向かいの椅子を引いて、座った。カウンターを離れて、客のテーブルに座るのは、初めてだった。
「何から聞きますか」とアデルが言った。
透は少し考えた。「なぜ日本に来たんですか」
「この街に来る必要があったからです」
「必要?」
「ここに根付かせるものがあった」
透はその言葉の意味を問い返そうとして、やめた。もう少し聞いてから、考えよう、と思った。「アデルさんは、その、見た目が変わっているじゃないですか」
アデルは頷いた。
「生まれからですか」
「違います」とアデルは言った。「変わりました」
「変わった、というのは」
「体が、変わった」
透はアデルの顔を見た。黒い肌。銀髪。金の目。骨格はヨーロッパ系のそれだった。彫りが深く、鼻が高かった。変わった、というのを信じるなら、その骨格は元のままで、色だけが変わったということになる。
「それは」と透は言って、言葉を探した。「このお茶が関係していますか」
アデルは少し間を置いてから、「はい」と言った。
透は自分の手を見た。普通の手だった。色白で、細い、二十八歳の男の手だった。
「もっと聞いてもいいですか」と透は言った。
「今日は、ここまでにしましょう」とアデルが言った。「少しずつ」
「なぜ少しずつなんですか」
「あなたが消化できる量があるからです」
透はその言葉を、おかしいとは思わなかった。むしろ、正確だと思った。今日一度に全部聞いても、おそらく受け取り切れない。自分でもそれがわかった。
「また来ます」と透は言った。
「知っています」とアデルが言った。
今日もその言葉を言った。透は今日、少しだけ笑った。
アデルも、笑った。
---
帰り道、透は川沿いを通った。
夕方の光が、濁った川面に落ちていた。今日の川は、いつもより少しだけ光を受けて、鈍く輝いていた。完全には濁っていないような、そういう気がした。
透はいつもの場所に立って、川を見た。
夢の中の川は、ここよりずっと澄んでいた。しかし今日の現実の川は、少しだけ夢に近い気がした。光の当たり方のせいかもしれなかった。気のせいかもしれなかった。
しかし透は、その違いを大切にしたいと思った。
スマートフォンを取り出した。
メモアプリを開いた。
URLを見た。
今日も、開かなかった。
しかし今日初めて、いつか開く日が来るかもしれない、と思った。
今日ではない。しかし、いつか。
透はスマートフォンをポケットに入れて、川から目を離した。
空に、夕焼けが広がっていた。雲が赤く染まっていた。山の稜線が、その色の中にくっきりと浮かんでいた。
透はしばらく、その空を見た。
水無瀬の空を、こんなに長く見たのは、久しぶりだと思った。
あるいは、初めてかもしれなかった。




